佛教徒にとって、究極の目標は成佛である。
ところが誰も生きているうちに成佛できるとは思っていなくって、死んでから成佛するのだと思っている。大方の人は死んで戒名なり法名をつけてもらってそれが正式な佛教入門になると同時に成佛したことになるように思っている。刑事ドラマを見ても殺人被害者のことを「このホトケは・・・」と呼んでいたりする。
確かに佛の境地である涅槃というのは、「煩悩諸結の火を滅す」こととされていて、確かに死んでしまえば頭の機能がなくなってしまうのだから、苦しみとかシガラミから解放されることには違いなく、「これで楽になる」なんて言われたりもするが、楽を体感する身体が無くなるのだから楽になるもへったくれもない話なのである。
では、佛とはどういうものか、私がもっとも端的に言い表されていると思っているのが、肇法師の「聖なる人に 己なし 己ならざるところなし 天地同根 万物一体」という言葉である。
我々が持つ自我意識が無くなって、自分と他者、他物との区切りがないのが佛だというのです。
だから、大乗佛教では衆生教化のためいろんな佛が創出されるが、その佛は天地同根 万物一体となった世界、それが清浄であるという浄土を持っていると考えられたのである。佛は皆、自分の浄土を持っていて、例を挙げれば阿弥陀佛が極楽浄土、薬師佛が浄瑠璃浄土、毘盧舎那佛が蓮華蔵浄土、阿閦佛が妙喜浄土、釈迦牟尼佛が霊山浄土、観音菩薩は菩薩だけれど補陀落浄土という浄土を持っている。極楽浄土は西方十万億土の彼方にあるという、十万億土とは億の10万倍、つまり10兆の佛がおられてそれぞれが浄土を持っているという話なのである。
さて、我々はどうなのか。我々もここで何回も話しさせてもらっているとおり、自分の世界を持っているのである。しかし、自我意識が働き過ぎて自己世界との一体感をなくしてしまっているのである。本来清浄であるはずの世界を汚してしまっているのである。物欲が深ければ餓鬼道世界となる。破廉恥なことを好めば畜生道の世界の現出となる。佛心を抱けば佛の世界となる。
結論として、佛ということでなくても誰でも自己世界を持っているのだということ。それをその世界をどのようにするのか、それは正に自分の根性次第なのだということ。餓鬼根性で行くのか、畜生で行くのか、はたまた、佛で行くのか。スイッチの切替え次第で様相はガラッと変わるということも同時に知っておくことも大事である。
時間をかけて佛になるなんて考えていては駄目。ところがお経では生まれ死に変わり修行してなんて書いてある。誰がそんな修行をするもんか。
ともあれ、佛道修行ということでなくとも自分の世界なんだから大事にしましょう。どうするかで皆、それがまた必ず自分に還ってくる、自業自得、因果応報というやつです。