今年の年賀状に「自燈明法燈明」というコトバを入れたが、この言葉を意味を考えてみる。
この自燈明法燈明は涅槃経に出てくる言葉で燈明の代わりに「洲(しま)」というコトバが使われたり「自帰依、法帰依、不他帰依」という言葉が使われたりする。寄る辺という意味である。
自燈明は自らを澄明とするということだから、まずは自分のことと考えるといい。ところがこの自分に自信を持てない人が多すぎるようである。何とも頼りなげな顔ばかりである。中には自信満々という人もいるが、その自信とは何かというと、仕事であったり、遊びであったり、容姿であったり他人と比べて自分の方が上というようなものばかりである。そういうものがない人は何とも頼りなげである。こういう人が神や佛、教祖といったものを頼りにする。
しかし、神や佛、教祖なんてものは自己ならざるもの、つまりは他なのである。
「他に依止するものは動揺す」というコトバが原始仏典の一つスッタニパータにあるが、他に依存すれば、その依存するものが動揺すれば自分も動揺してしまうという道理は当然ある。だから、不他帰依なのである。
だから佛教者たるものは、他に依止するすることのない自己を確立しなければならないのである。
では、次なる法とは何かというと、大概の人は教えという意味で受け取っている。そうなるとそれも他なってしまう。教えにと受け取るとそれは自己ならざるものである。教えとは別物の自分でしかなくなってしまうのである。教え通りでない自分を絶えず意識しているはずである。
佛教の法の意味はいろいろあり、勿論教えという意味もあり、法則という意味もあるが、独特の法概念があって法燈明の法はその法によるのである。それは一切法(いっさいほう)と呼ばれるものである。物でも事でも何から何まで一切を法というのである。
言い替えると宇宙もこと、宇宙を構成する一切のものをいうのである。
ということは、自燈明法燈明とは法ぐるみの自己を自覚しそれを生きよという教えなのである。
何度も示している内山興正老師の図がそれなのである。