ふろしき王子のブログ◎
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今、居間では子どもが水槽でサワガニを飼っている。

地元にある、湧き水の流れてくる半分森のような公園で
捕えたもので、7,8匹いる様子。

サワガニの記憶は、私の実家の近くの寿司屋さんが、市場なのか
彼の故郷からであるのか、たま~にサワガニを分けてくれて、
それはバケツに、杉の青葉と一緒に入っていた。

杉の葉は抗菌力があるため、水に雑菌が湧かず
魚介類を清浄に保ちやすくなるのだろう。
同じ機能は笹の葉にもある。

そんなサワガニたちはたいていオレンジ茶色のような色だったが、
その後成人してから訪れた秩父の山の小川なり
柿田川公園の雨あがりの道で出会ったのは
それまた何とも美しき、水色のサワガニ。

実家で飼っていた小学校のときなどは、餌といえばご飯つぶだったが、
もっといろんな、特に蛋白質をちゃんと与えたほうが
長生きしただろう。でも、ミミズもあげていたかな。

小鳥を飼っていたので、掃除で出る雑穀の殻やフンが自然と集まる
ベランダの排水口の泥にはミミズが発生していた。
現在の自宅では小鳥の掃除どころか、毎日ある程度出される
野菜くずなどを裏庭に放っているので、そこにはミミズが売るほど湧く。

サワガニや亀の餌にもなっている。

ミミズが湧く土はよいといわれがちだが、大量にいる場合は
栄養過剰で、そのままでは窒素過多で虫に喰われて
野菜がうまく育たない土といえる。
そういう土は、水で溶くと濁ったままになる。
バランスのとれた土は、沈んで上から澄んできます。

このように、植物の状態は地上で見ているけれど、
原因は土にあることが多く、それはアジサイの花の
赤と青が土壌のアルカリ・酸性によるものとも通じる。
同様に、サワガニのオレンジと水色の違いにも理由があるのだろうが、
はっきりしていないという。

個人的に思うのは、色が違ったほうが、それに反応して
捕ろうとする天敵に一網打尽にされず、逃げおおせる可能性が
少しでもふえるからではないかと。
オレンジぽいのも、水色も、どちらも
サワガニのいる環境の保護色と見ることができるので、
カメレオンのように変色できないサワガニは、二色に分かれて
生き残ろうとしているのかもしれない。

そろそろ風呂敷につなげたいのだが、
風呂敷でつつむと、表面に見えるのは布で、
中身は基本的に隠れる。

中身は植物でいったら土のようなもので、
風呂敷のかたちは中身に対応するため、
同じ色や柄の風呂敷でも、中身次第で表情が変わる。

それは決して形だけでない。
荷物の重さによっても、布の引っ張られ感が様変わりする。
同じ弁当箱を包んでいても、中が空なのと
ご飯が詰められているのでは、外側の風呂敷の見た目さえも
変わってしまうのだ。

そのため、撮影でもたいていは中身を入れるようにしている。
それは、モデルさんが、中身の入った弁当箱を持つのと、
からっぽのものを持つのとでは、筋肉の緊張や弛緩と
それにともなう顔の表情までもが確実に変わり、
そこがヤラセとリアル、演技と自然体の微妙な差として顕れると思うから。

サワガニもアジサイも、環境に対応している。
風呂敷も、中の環境である中身に対応して変化する。

現代はどうしても、ふろしきの色と柄による見え方が全てになりがちだけど、
実は同じふろしきでも、その場所、使う人、中身、結び方、手入れによって
別人のごとく異なってゆくもので、
この風呂敷はださい、とか、この人は性に合わない、という
絶対的なものはない。
嫌な相手も、自分に対応して嫌な感じになっているかもという意味では
鏡なので、どこか似ているところがあるもの。

嫌いな人からは一目散に逃げたほうが得策なことも多いけど、
機会が許すなら、最後にいったん、話してみれば
実は誤解で嫌っていたことがあるかもしれない。
そのためにも、腹を割ってみるのだ、サワガニのように。

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買いもの袋は、帰宅すると中身が出されて空になり、風呂敷もほどいてたたまれる。

思い出だけが蝶となって、そらへ吸い込まれる。



楽しい日ばかりじゃないけど、風呂敷自体も中身をつつんで支え、

自分の肩もそれを受けとめて、いろんな部分たちが、心をかるくしてくれる。

(モデル:asamin')

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幼少のころより様々ないきものを飼ってきましたが、
うさぎには縁がありませんでした。
いきもの好きの要因の1つは、外で
ざりがにやかぶと虫を捕まえる環境や機会が
多くなかったため、好奇心が卒業できずに
残っていたのでしょう。それは今でも多少あるのかも。

飼ってきたものを全て挙げるのは省略しますが、
金魚、メダカ、どぢゃう、十姉妹、セキセイインコ、チャボ、
かぶと虫、くわがた、グッピー...種類はこの4倍くらい。
うさぎは小学校のクラスメイトが飼っていました。
哺乳類は、家に犬と猫がいました。

ようやくうさぎと出会ったのは、2015年3月21日、春分。
夜遅めに帰宅する目前、川の土手に捨てられているのを見つけ、
警察官と一緒に捕えた後、飼い主が分からず保健所行きとなるので
引きとることになりました。

連れて帰るのに、以前飼っていた小鳥の鳥かごを持って行った
記憶ですが(またはダンボールだったかな)、
風呂敷で包んで運びました。

こういう状況は、昔、ふやしたチャボを
京都の知り合いへ届けるときも、
カゴを風呂敷で包んで新幹線に乗った思い出があります。

風呂敷で包まれることで、
中が薄暗くなり、多少遮音となり、
周りから覗かれなくなり、
風も入ってこず静かになって安心や安全につながる。

運ぶ人にとっても滑りにくく持ちやすいのと、
そもそも他に、包む道具は見つけにくい。
紙袋じゃ入らないし、カバンでも、
大きなカゴをすっぽりくるめるものはそうそう無い。
風呂敷をつかうと、たとえサイズが足りなくても、
もう1枚つないだり、斜めにたたんだバンダナやハンカチを
取っ手として加えたり、如何ようにもカスタム可能。

僕は風呂敷を、そこまで理念でつかっているわけでも、
感情で愛しているのでもない。
ただ簡単で便利でもっとも楽であることと、
自分で作り出し、使いやすく調節するような
新規創造と発見のよろこびが大きいのかも。

風呂敷という形そのものへの愛情よりも、
実現できる多くの機能に実際助けられている経験の
積み重ねが、身体化して距離感がなくなっている。

好きという感情は、距離感をも表している。
知れば知るほど、幻想や憧れよりも自分の一部となって
語りようがなくなる。
情報は少ない方が語りやすいのだ。

うさぎも、以前はアイコン的に「好き」と答えられていたのが、
飼って日々草を摘んだり掃除したりと生々しくリアルに
触れているうちに、好きという言葉と異なって
「そこにいる存在」となっている。
飼い葉を摘むために川原へ行けば、ついでに
日用工芸品用の竹や、葛のつるを採ったり、
ノビル掘り、よもぎ摘み、桑の実狩り、真竹のたけのこを抜く。
うさぎは我が家に、野の植物と親しむきっかけを届けにきてくれた。

どんなことも、何かのきっかけとなる。

風呂敷もまた、それを通して出会った人たち、ものたち、
体験、氣づきなど、
ふろしきを通して知った、広がった世界がある。
視点であり、次元ともいう。

うさぎの目、ふろしきの目、それは自分のそれまでの目とは
結構ちがう新しい風をもたらした。

自分の暮らしや世界に、ただうさぎや風呂敷が増えたのではない。
うさぎフィルタによって世界の見え方は変わる。
それまで盛大な雑草とみなしていた植物たちが宝ものに変わった。

ふろしきは、中身や具体的な細部、片隅、ちょっとしたひとコマを
慈しみ手をかけまなざすことで、その、愛につつまれたものや場には、
ありとあらゆる意味を、後づけできることを知った。
ひとことでいうと、テーマや目標よりも先に、中身があるということ。
コンセプトに縛られていたデザイン学生であった自分は、
ありがたく死ぬことができただろう。

社会に役立とうとまなざさなくても、
マイペースで変てこなマイブームであっても、
後からそこに社会的な意味、視点を与えれば仕事になる。

うさぎは、可愛いばかりの存在じゃなくて、
植物先生でもあったのだ。
風呂敷は、物を運ぶ昔ながらのつつみ布以上に、
哲学だったということ。
何事も、こんなものだろ、知ってる。と
たかをくくって決めちゃならない。
実際に密に接してともに暮らしてみないことには、
絶対に分からないから。

苦手なことほど狭い思い込みにある可能性があり、
飛び込んでみると、意外に最高だったりする。
あの日、うさぎは世話が面倒だから引きとるのはやめよう、とか
風呂敷は古臭いからやっぱ使わない、と見なさなくてよかったと思います。

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