やっつけ仕事という言葉は
その場しのぎで詰めの甘いような、悪い意味で使われやすいが、
いつも、やっつけ仕事を繰り返していると
それでも技術や経験が身についてきて、
手練れてくる。
完璧を目指し(失敗をおそれ)、材料を抜かりなく買いあつめ、
レシピ(他人からの指示)通りにしかできないより、
いま身の回りにあるものを生かし、定石と異なっても
創意工夫や臨機応変、さじ加減でととのえていく能力のほうが
生きる力がつよいとは、いえまいか。
どちらにもよさがあるけれど、
4つに分類して考えてみますと、
1.レシピに忠実ゆえに、時間がかかる(潔癖完璧主義)
2.レシピに忠実にすることで、はやくできる(システム化)
3.やっつけ仕事でも、かえって時間がかかる(反抗的苦労性)
4.やっつけ仕事で、はやくできる(忍者)
上記4種類は、それぞれが豊かな経験につながるので
よい悪いではないが、やはりさじ加減でバランスが大事。
僕は、虫唾が走るほどのレシピアレルギーなので
偏ってはいるのですが、割合を示すと
潔癖完璧主義:10%
システム化:5%
反抗的苦労性:30%
忍者:50%
その他:5%
という感じになります。
もともとは、神経質で心配性、
既に綺麗な部屋をさらに掃除するような所がありました。
知人がいうには「根は真面目で、表現はひょうきん」だそうですが、
堅物といってもよいかもしれません。
「庭にひきこもり」という言葉をよく使いますが、
心を閉ざしているからこそ、他人が入ってこれないように、
みずからペラペラおしゃべりして、自分の世界を守ろうとしている
のかもしれません。閑話休題。
で、2つめのシステム化の傾向が少ないのは、
同じ方法を繰り返したくなく、同じ内容でも
何かしらアレンジして変化をつけたい意向がつよいです。
完璧主義は嫌いじゃないのですが、
考えなしに、レシピ通りにやれば、ある程度の完成度を実現でき、
可もなく不可もない、表面的にはそこそこよさげなものが
だいたい誰でも再現できる、という思想が許せません。
これは具体的には、近ごろの小学校の図画にありがちで、
あるモチーフを描くときに、その構図や色づかいまでもを
教師が児童に指示することで、全員一様な絵になっているという
深刻な現状が存在します。
その理由が、成功体験?というものでもなくて、
絵のレベルの差を比べられて児童が嫌な思いにならないように、
という、おそらく保護者からの訴えに屈したかたちではないかと
推測していますが、徒競走をみんな同時にゴールするくらい
馬鹿げていることです。
子どもの成長にとって大切なのは、嫌なこと、したくないこと、
苦手なことを知り、それをやらないことによって、
嫌じゃないことや好きなことにかける時間をふやすことです。
もちろん、単に教師との相性もあるので簡単に苦手と決めつけてはなりませんが、
いろんなことを、やむを得ず他人と比べられることを通して、
自分にとって嫌なことを知ることができます。
そのためには、誰でも再現できるシステムをはじめから用意してはならず、
苦労して向き合って、その苦労もよろこびと感じられるか否かで
自分に向いた方法論が、だんだんと見えてくるのだと思います。
好きなことが分からなくても、嫌いなやり方を自覚できていれば
それを脱することで、よろこびの多い方へ近づけるのだから、
比べないことを重要視する必要はないでしょう。
何故なら、それが好きであれば、他人と比べられることなんて
クソどうでもよいと思えるはずだからです。
逆にこわいのは、好きでもなんでもないのに、
褒められるために不本意なことをやりつづけてしまうことです。
長くなってきたのでここで止めます。
3つめの苦労性は、定石やシステムへに反抗心から
我流、自己流を、四苦八苦の不器用でも貫こうとすることですが、
これは予期せぬ発見や多くの試行錯誤と経験につながるので
良い面も多いと思います。しかし、苦労が強すぎて
途中で挫折する可能性もあるので、世の中を恨み過ぎるのも考えものでしょう。
4の忍者は、はやくて、楽で、代用的なやっつけ仕事といいながら
むしろ本物の機能を凌駕してしまう出来栄えを実現できるよさがあります。
たとえば、風呂敷はただのいちまいの四角い布を
結ぶことで、多目的を「見立て」てゆく方法なのですが、
では、買いものを目的に作られているエコバッグと比べ、
ふろしきを結んで一時的に買いものに使おうという
代用品とも見なせる風呂敷バッグのほうが劣っているかというと、
重ければ取っ手がやぶけてしまい、手にくいこむ
一般的なエコバッグよりも、中身に合わせて
ベストな袋にカスタマイズできる風呂敷のほうが
優れもんに結び上げられるポテンシャルがあります。
1年かけてつくったカバンよりも、15秒で結んだふろしきバッグのほうが
機能的にすぐれていたら、なんだか粋の極みのようでうれしいので、
僕もやっつけ仕事を信奉してしまうのですが、
どうしても言葉の印象があるため、タイトルのように
たとえばやっつけ精神、などといってみました。
実は本日も、屋根と屋根の隙間1メートルちょっとから
雨粒が落ちてくるのを防ぐために、
(息子の飼っている小クワガタの容器に昨夜の雨が吹き込んだため)
屋根に雨よけをつなげようとなりました。
ちゃんと造るなら、角材に波板をつけたものを設置すればよいのですが、
波板をわざわざ買うというのりも無かったので、
裏庭に立てかけてあった細めの竹をひもで結んだ骨組みを
物置にあったブルーシートでくるんで完成させました。
意外と綺麗で、竹の情緒によりブルーシートの
安っぽさも緩和されています。
もし強風などで外れても、軽いので危険性が少ない。
壊れたらまた、そのとき身近にある素材で、簡素に手作りすればよいのです。
頑丈につくったものが壊れると、手に負えずかえって面倒くさくなります。
そんなこんなで、まとめますと、
何かをやってみようというとき、まずは無から手がけて
苦労も失敗もしよう。それでもつづけられる対象なら
縁があるし、つづけることで原理や仕組みを体得できる。
レシピや王道的定石を見るのは、その後でよい。
その順序であれば、レシピの理由が見えてきて、
応用可能となり、どんな材料でも生かして
創作料理をつくれるようになる。
はじめから、失敗をおそれ、完成度で「いいね」を
もらいたくて、レシピの奴隷になってはならない。
やっつけ精神は、新しい光の扉をひらく。
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