毎日新聞 2010年10月3日 東京朝刊
◇池内紀(おさむ)・評
(白水社・2520円)
◇地上から追われ、夢の中では愛されて
知られるように熊には冬眠という習性がある。一年のうちの四カ月ばかりも飲まず食わずで、ほとんど排泄(はいせつ)もせず、一つの穴の中で過ごす。地上の何ものも消費せず、何ものも汚さず、ゴミも出さない。なんとも奇怪な、そして高度に文明的な生活術を実践している。
さらにまた知られるとおり、北海道のヒグマの例に見てとれるところだが、二つの正反対の見方がある。アイヌの人々にとってそれは、ながらく畏敬(いけい)と感謝の対象だった。「キムンカムイ」とよばれ、大いなる山の神として崇(あが)められた。しかし本州から「和人」とよばれる人々が進出して以来、ヒグマは恐怖と憎しみの対象になった。「人食いグマ」などと恐れられ、ライフルと犬で駆除すべきものになった。
ドイツのノンフィクション作家ブルンナーの『熊』によると、それは日本にかぎらず世界のいたるところでうかがわれる現象だった。古くは守護精霊として崇拝されていたのが、やがて人間の敵となり、追われ、殺され、イギリスやドイツ、スイスのように、もはや動物園以外では見られなくなった。
力強く、利口で、魅力的なこの動物は、地上の領分からは追われる一方で、神話や伝説、文学、美術などの分野ではひろく愛されてきた。テディベアの縫いぐるみとともに育った人もいれば、いまなお『くまのプーさん』を忘れない人もいる。テレビのマスコット・キャラクターにも欠かせない。「地球上の多くの地域で熊はすでに姿を消してしまっているが、われわれの個人的、集合的な夢にとってはいまだに大きな位置を占めているのである」
調べるのが大好きなドイツ人らしく、実に丹念に古今の書物や記録、報告にあたっている。世界の熊が八つに分類されていることから始まって、ヒグマ、ホッキョクグマ、アメリカクロクマ、メガネグマ、ツキノワグマ、ナマケグマ、マレーグマ、そして人気者ジャイアントパンダ、それぞれの「辿(たど)ってきた道」、変異や謎、個性、声や感覚や動作……。熊好きには興味がつきない。「推奨文献目録」だけで百冊をこえる。その分が一冊につまっているわけで、数多くの珍しい挿絵を手引きに一読するだけで、たちまち熊博士になれる。
落語には八五郎と並んで「脳天の熊五郎」という愛嬌者(あいきょうもの)が出てくるが、ヨーロッパの人々の記憶の中にも、懐かしいクマさんがいる。「熊のショー」の章に語られているが、一千年以上にわたり町の縁日には熊の一座がやってきて、人々をたのしませた。ドイツのサーカス団ハーゲンベックは、ひところ七十頭ものホッキョクグマを引き連れて巡業していた。町の広場の興行がテディベア像をつくっていたらしいのだ。
現在では野生動物を使ったサーカスは厳しい批判にさらされている。熊をよく知ることから「熊に対するわれわれの理解と扱い」も変わらなければならない。こよなく動物を愛する著者が、そっと動物園に苦言を述べている。「来る日も来る日も同じ歩数分だけ歩いてはまた戻ったり」、それをくり返している動物たちの姿を誰もが見ているだろう。自然な行動ではないのだから、楽しんでくり返しているはずはない。もっと自由な「複合的な施設」をデザインできないものだろうか--。
熊博士になれる本だが、これがたのしいのは、百科全書的知識にもまして、そのあいまに洩(も)れるユーモラスな意見や見方である。熊とバッタリ出くわしたケースのレポート、また武勇譚(ぶゆうたん)は世界中にわんさとあるが、ついてはアドバイスが書き加えてある。一番いいのは出くわさないことであって、万一近くに熊がいるとわかれば引き返すか、大きく回り道をする。決して近づかぬこと。「それが生前に撮った最後の写真になってしまう」ことも十分にありうるからだ。
相手が立ち上がったからといってパニックに陥るまでもない。よく見ようとするときの熊の行動であって、「何かに興味を持っているということの証拠」にすぎない。あわてふためいて逃げ出したくなるだろうが、我慢して地面に伏せ、両腕を首に回して、じっとしている。生ぐさい息を吐きかけられてもうつ伏せになっていなければならないと聞いて、念願のアラスカ旅行を取りやめるべきか?
むろん、その必要はない。熊と出くわす確率はゼロにひとしいし、そもそも「われわれが熊に対して持っているほどの関心を、熊はわれわれに対して持っていない」のだ。
この夏、日本列島を襲った猛暑のせいで熊の大好物のドングリをはじめとして、山の木の実の不作がいわれている。山里に熊があらわれ、被害も出ている。さっそく自治体はハンターをかり集めて熊の駆除に乗り出すだろう。「駆除」といった害虫退治の用語をもってする空しいくり返しよりも、熊の習性をよく知り、森の再生をはかるほうが、問題解決の早道なのではなかろうか。(伊達淳訳)
http://mainichi.jp/enta/book/hondana/news/20101003ddm015070014000c.html
◇池内紀(おさむ)・評
(白水社・2520円)
◇地上から追われ、夢の中では愛されて
知られるように熊には冬眠という習性がある。一年のうちの四カ月ばかりも飲まず食わずで、ほとんど排泄(はいせつ)もせず、一つの穴の中で過ごす。地上の何ものも消費せず、何ものも汚さず、ゴミも出さない。なんとも奇怪な、そして高度に文明的な生活術を実践している。
さらにまた知られるとおり、北海道のヒグマの例に見てとれるところだが、二つの正反対の見方がある。アイヌの人々にとってそれは、ながらく畏敬(いけい)と感謝の対象だった。「キムンカムイ」とよばれ、大いなる山の神として崇(あが)められた。しかし本州から「和人」とよばれる人々が進出して以来、ヒグマは恐怖と憎しみの対象になった。「人食いグマ」などと恐れられ、ライフルと犬で駆除すべきものになった。
ドイツのノンフィクション作家ブルンナーの『熊』によると、それは日本にかぎらず世界のいたるところでうかがわれる現象だった。古くは守護精霊として崇拝されていたのが、やがて人間の敵となり、追われ、殺され、イギリスやドイツ、スイスのように、もはや動物園以外では見られなくなった。
力強く、利口で、魅力的なこの動物は、地上の領分からは追われる一方で、神話や伝説、文学、美術などの分野ではひろく愛されてきた。テディベアの縫いぐるみとともに育った人もいれば、いまなお『くまのプーさん』を忘れない人もいる。テレビのマスコット・キャラクターにも欠かせない。「地球上の多くの地域で熊はすでに姿を消してしまっているが、われわれの個人的、集合的な夢にとってはいまだに大きな位置を占めているのである」
調べるのが大好きなドイツ人らしく、実に丹念に古今の書物や記録、報告にあたっている。世界の熊が八つに分類されていることから始まって、ヒグマ、ホッキョクグマ、アメリカクロクマ、メガネグマ、ツキノワグマ、ナマケグマ、マレーグマ、そして人気者ジャイアントパンダ、それぞれの「辿(たど)ってきた道」、変異や謎、個性、声や感覚や動作……。熊好きには興味がつきない。「推奨文献目録」だけで百冊をこえる。その分が一冊につまっているわけで、数多くの珍しい挿絵を手引きに一読するだけで、たちまち熊博士になれる。
落語には八五郎と並んで「脳天の熊五郎」という愛嬌者(あいきょうもの)が出てくるが、ヨーロッパの人々の記憶の中にも、懐かしいクマさんがいる。「熊のショー」の章に語られているが、一千年以上にわたり町の縁日には熊の一座がやってきて、人々をたのしませた。ドイツのサーカス団ハーゲンベックは、ひところ七十頭ものホッキョクグマを引き連れて巡業していた。町の広場の興行がテディベア像をつくっていたらしいのだ。
現在では野生動物を使ったサーカスは厳しい批判にさらされている。熊をよく知ることから「熊に対するわれわれの理解と扱い」も変わらなければならない。こよなく動物を愛する著者が、そっと動物園に苦言を述べている。「来る日も来る日も同じ歩数分だけ歩いてはまた戻ったり」、それをくり返している動物たちの姿を誰もが見ているだろう。自然な行動ではないのだから、楽しんでくり返しているはずはない。もっと自由な「複合的な施設」をデザインできないものだろうか--。
熊博士になれる本だが、これがたのしいのは、百科全書的知識にもまして、そのあいまに洩(も)れるユーモラスな意見や見方である。熊とバッタリ出くわしたケースのレポート、また武勇譚(ぶゆうたん)は世界中にわんさとあるが、ついてはアドバイスが書き加えてある。一番いいのは出くわさないことであって、万一近くに熊がいるとわかれば引き返すか、大きく回り道をする。決して近づかぬこと。「それが生前に撮った最後の写真になってしまう」ことも十分にありうるからだ。
相手が立ち上がったからといってパニックに陥るまでもない。よく見ようとするときの熊の行動であって、「何かに興味を持っているということの証拠」にすぎない。あわてふためいて逃げ出したくなるだろうが、我慢して地面に伏せ、両腕を首に回して、じっとしている。生ぐさい息を吐きかけられてもうつ伏せになっていなければならないと聞いて、念願のアラスカ旅行を取りやめるべきか?
むろん、その必要はない。熊と出くわす確率はゼロにひとしいし、そもそも「われわれが熊に対して持っているほどの関心を、熊はわれわれに対して持っていない」のだ。
この夏、日本列島を襲った猛暑のせいで熊の大好物のドングリをはじめとして、山の木の実の不作がいわれている。山里に熊があらわれ、被害も出ている。さっそく自治体はハンターをかり集めて熊の駆除に乗り出すだろう。「駆除」といった害虫退治の用語をもってする空しいくり返しよりも、熊の習性をよく知り、森の再生をはかるほうが、問題解決の早道なのではなかろうか。(伊達淳訳)
http://mainichi.jp/enta/book/hondana/news/20101003ddm015070014000c.html