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アイヌ民族を無償診療 マンロー氏の功績紹介 平取

2010-10-07 | アイヌ民族関連
(北海道新聞 10/06 14:41、10/06 15:22 更新)
 【平取】1932年(昭和7年)から日高管内平取町二風谷に永住した英国人医師マンロー(1863~1942)を紹介する特別展「N・G・マンローと二風谷」が5日、沙流川歴史館(二風谷)で始まった。
 マンローは大学卒業後、インド航路の船医を経て1891年(明治24年)に来日。アイヌ民族の歴史に興味を持ち、晩年は結核が蔓延(まんえん)していた二風谷のアイヌ民族を無償で診療した。
 今回は、国立スコットランド博物館に展示されているマンローが平取町内で発掘した考古学資料の複製品や、二風谷時代の写真を展示しているほか、国立歴史民俗博物館(千葉県)が2006年に製作した研究映像を流している。
 無料。11月28日まで。10月12日と毎週月曜日休館(10月11日は開館)。また、9日午後1時半から同館で国立歴史民俗博物館の内田順子准教授がマンローの最新調査を報告する無料講演会を開く。問い合わせは沙流川歴史館(電)01457・2・4085へ。
http://www.hokkaido-np.co.jp/news/chiiki/254391.html

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遠野の名の由来は? 柳田国男のアイヌ説に異議も

2010-10-07 | アイヌ民族関連
(朝日新聞 2010年10月6日)
 発刊100年を迎えた「遠野物語」。その中で柳田国男は、「遠野」という地名の由来をアイヌ語に求めた。しかし、そこに異議をとなえる研究者もいる。
 「遠野物語」で柳田は、トーは「湖や沼」。ヌップが「丘」。太古、遠野郷は湖だった。その水が流れ出て、今の盆地が現れたという神話と結びつけて「湖のある丘」と解釈した。多くの遠野市民もそう思っている。
 「私はそうは思いません。遠野は和語だと思います」
 5月に遠野市で行われた全国地名研究者大会(日本地名研究所主催)で、アイヌ語学者の村崎恭子・元横浜国大教授(73)はアイヌ語説を否定した。
 アイヌ語の地名かどうかを検証するには、アイヌ語地名が原形に近い形で残っている北海道を手本にする。
 アイヌ語で「サ」は「乾く」で、「ピ」は「小石」、「ナイ」は「川」だ。そういう状態の場所は「サピナイ」と呼ばれる。遠野郷にある「佐比内」も、かつてはそういう地形だったと思われる。
 猿ケ石(サルガイシ)は「ヨシ原の上・にある・もの」で、附馬牛(ツキモウシ)は「小山・ある・所」。北海道の似た地形の場所には、似た地名が残っている。
 しかし、遠野という地名は北海道にない。湖や沼や丘など、似た地形はたくさんあるにもかかわらず。
 遠野と呼ばれ出した時期からも疑問を膨らませる。文献によると、遠野と呼ばれるようになったのは、中央集権化が進んだ古代。猿ケ石川などが、そうアイヌ語地名で呼ばれ出したはるか後の時代なのだ。もしアイヌ語だとすれば、なぜ遠野だけが遅れて名付けられたのか。その理由がわからない、と言うわけだ。
 こう説明したあとで「遠野というのは、中心地から遠いところ、という意味で倭人(わじん)がつけたのではないかと思います」と自説を述べた。
 遠野の語源に関しては「東方の野」からきた説や、たわんだ地形の盆地である「撓野(たわの)」の変化、など諸説ある。日本地名研究所の谷川健一所長(89)は、村崎説を支持した上で、平安時代に編まれた日本の正史の一つ「日本後紀」に「遠閉伊(とおのへい)」が登場することに注目。閉伊の拠点であった宮古地方から遠いところという意味で、「後年、そこから閉伊が抜け落ちた」とみている。(木瀬公二)
http://mytown.asahi.com/areanews/iwate/TKY201010050433.html

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