東京新聞 2012年6月2日
五月二十日、大阪府の吹田市立博物館。講座室は満員の市民百五十人で埋まった。館長の小山修三(こやましゅうぞう)さん(73)の退職を記念する講演会。いきなり「こき使われてヨボヨボです」とやって会場を沸かせた。言葉通り「博物館はみんなのもの」を旗印に、市民と手を組んで挑み続けた館長に、大きな拍手が送られた。
国立民族学博物館(民博)の名誉教授。縄文文化とオーストラリアの先住民アボリジニの研究が専門だ。民博を定年退官後の二〇〇四年、頼まれて吹田市立博物館の館長に就き、先月末まで、まる八年を過ごした。「僕が好きなのは生きて動いている社会。その残存だけを見せる博物館はつまらない。最初は気が進まなかった」
博物館が冬の時代に入ったといわれて久しい。来館者の減少、経費の削減。地方では統合や廃館の動きすらある。吹田も例外ではなかったが「問題は博物館側にもあるんです」と手厳しい。「展示品を宝物扱いする。光を当てると傷むとか、触ると垢(あか)がつくとか。教えてやろう、というお上的思考で守りに入ってしまっている」
館長就任に当たって掲げたスローガンは「市民参加」。吹田、豊中両市にまたがる日本初の計画都市を取り上げ、〇六年春に開いた「千里ニュータウン展-ひと・まち・くらし」を手始めに、大胆な博物館改革をスタートさせた。公募で選ばれた市民四十四人に同展の企画運営を任せた。市民が考え、議論し、展示物を集める…。これまでの博物館展示の常識を覆す、まさに荒療治。結果は入館者数に表れた。年間で一万人ほどにとどまっていたのが、四十日余りの会期中だけで二万二千人に達した。
型破りな行動の根底には強烈な信念がある。面白くなければ学問じゃない-。「学問は遊び」と言ってはばからなかった民博の初代館長、梅棹忠夫さんにたたき込まれた。「自分の考えをしっかり持ったえらい先生ほど、人の話を細かいところまで聞くんです」
サル学の権威、河合雅雄さんから縄文時代について聞きたいと頼まれたとき。河合さんは大学院の学生のように、驚くほど真摯(しんし)に耳を傾けた。終わると、今度は自らの経験をもとに質問攻めに。「僕一人の知識は限られているから」。それがまた刺激になった。
「市民の中にもいろんなスペシャリストがいる。広告会社に勤めるPRの専門家に建物の専門家、販売員も。使わない手はない」。それをどう輝かせるかはもちろん、展示品の見せ方のプロである学芸員の技だ。
市民参加の展覧会は定期的に開催。〇六年からは毎年、来館者が資料を自由にさわれる展示も始めた。人脈を生かして、博物館で開く講演会には、梅棹さんをはじめ、小松左京さんら著名な講師を招いた。「週二回のパートタイム」で引き受けたはずが「月に二十一日間出勤したこともあった」と、ひょうひょうとした語り口で振り返る。
香川県観音寺市出身。国際基督教大に進み、考古学に没頭した。しかし、十二年前の旧石器発掘捏造(ねつぞう)事件が示したように、考古学は発掘されたモノがすべて。仮説を立てることすら敬遠された。「もっと全体的に時代をとらえる学問がしたい」と米国に留学。現地の先住民のフィールドワークに加え、民博に職を得た後、一九八〇年代からは縄文人と同じ狩猟採集生活を営むアボリジニの集落に住み込んで調査した。
彼らの暮らしぶりを、自ら携わる青森・三内丸山遺跡などの発掘成果に応用する、いわば民族考古学的な視点から縄文のイメージを豊かに膨らませた。どんなものを食べ、どんな服を着て、どんな暮らしをしていたのか。出土したモノだけに目を向けていては見えてこない、血の通った人間の営みを見つめた研究は、高度な文明人としての縄文人像を浮かび上がらせた。
こうした研究も、枠にはまらず、制約を恐れない姿勢があってこそ。「学問分野を複合させるのは、どこの国でも当たり前。日本でも戦後、学際的研究がはやったが、ぎくしゃくして結局は専門分化してしまった。でも細分化するほど学問は面白くなくなる」と嘆く。
館長職を離れて、苦境にあえぐ各地の博物館のためにも「まずは八年間の軌跡を本にしたい」と言う。就任当初は、公の場で「民博名誉教授」と紹介されることが多かったが、次第に「吹田市立博物館長」と呼ばれることが増えた。それだけ知名度が上がった証拠だ。「市民との関係は、名残が尽きません」 (宮川まどか)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/living/doyou/CK2012060202000230.html
五月二十日、大阪府の吹田市立博物館。講座室は満員の市民百五十人で埋まった。館長の小山修三(こやましゅうぞう)さん(73)の退職を記念する講演会。いきなり「こき使われてヨボヨボです」とやって会場を沸かせた。言葉通り「博物館はみんなのもの」を旗印に、市民と手を組んで挑み続けた館長に、大きな拍手が送られた。
国立民族学博物館(民博)の名誉教授。縄文文化とオーストラリアの先住民アボリジニの研究が専門だ。民博を定年退官後の二〇〇四年、頼まれて吹田市立博物館の館長に就き、先月末まで、まる八年を過ごした。「僕が好きなのは生きて動いている社会。その残存だけを見せる博物館はつまらない。最初は気が進まなかった」
博物館が冬の時代に入ったといわれて久しい。来館者の減少、経費の削減。地方では統合や廃館の動きすらある。吹田も例外ではなかったが「問題は博物館側にもあるんです」と手厳しい。「展示品を宝物扱いする。光を当てると傷むとか、触ると垢(あか)がつくとか。教えてやろう、というお上的思考で守りに入ってしまっている」
館長就任に当たって掲げたスローガンは「市民参加」。吹田、豊中両市にまたがる日本初の計画都市を取り上げ、〇六年春に開いた「千里ニュータウン展-ひと・まち・くらし」を手始めに、大胆な博物館改革をスタートさせた。公募で選ばれた市民四十四人に同展の企画運営を任せた。市民が考え、議論し、展示物を集める…。これまでの博物館展示の常識を覆す、まさに荒療治。結果は入館者数に表れた。年間で一万人ほどにとどまっていたのが、四十日余りの会期中だけで二万二千人に達した。
型破りな行動の根底には強烈な信念がある。面白くなければ学問じゃない-。「学問は遊び」と言ってはばからなかった民博の初代館長、梅棹忠夫さんにたたき込まれた。「自分の考えをしっかり持ったえらい先生ほど、人の話を細かいところまで聞くんです」
サル学の権威、河合雅雄さんから縄文時代について聞きたいと頼まれたとき。河合さんは大学院の学生のように、驚くほど真摯(しんし)に耳を傾けた。終わると、今度は自らの経験をもとに質問攻めに。「僕一人の知識は限られているから」。それがまた刺激になった。
「市民の中にもいろんなスペシャリストがいる。広告会社に勤めるPRの専門家に建物の専門家、販売員も。使わない手はない」。それをどう輝かせるかはもちろん、展示品の見せ方のプロである学芸員の技だ。
市民参加の展覧会は定期的に開催。〇六年からは毎年、来館者が資料を自由にさわれる展示も始めた。人脈を生かして、博物館で開く講演会には、梅棹さんをはじめ、小松左京さんら著名な講師を招いた。「週二回のパートタイム」で引き受けたはずが「月に二十一日間出勤したこともあった」と、ひょうひょうとした語り口で振り返る。
香川県観音寺市出身。国際基督教大に進み、考古学に没頭した。しかし、十二年前の旧石器発掘捏造(ねつぞう)事件が示したように、考古学は発掘されたモノがすべて。仮説を立てることすら敬遠された。「もっと全体的に時代をとらえる学問がしたい」と米国に留学。現地の先住民のフィールドワークに加え、民博に職を得た後、一九八〇年代からは縄文人と同じ狩猟採集生活を営むアボリジニの集落に住み込んで調査した。
彼らの暮らしぶりを、自ら携わる青森・三内丸山遺跡などの発掘成果に応用する、いわば民族考古学的な視点から縄文のイメージを豊かに膨らませた。どんなものを食べ、どんな服を着て、どんな暮らしをしていたのか。出土したモノだけに目を向けていては見えてこない、血の通った人間の営みを見つめた研究は、高度な文明人としての縄文人像を浮かび上がらせた。
こうした研究も、枠にはまらず、制約を恐れない姿勢があってこそ。「学問分野を複合させるのは、どこの国でも当たり前。日本でも戦後、学際的研究がはやったが、ぎくしゃくして結局は専門分化してしまった。でも細分化するほど学問は面白くなくなる」と嘆く。
館長職を離れて、苦境にあえぐ各地の博物館のためにも「まずは八年間の軌跡を本にしたい」と言う。就任当初は、公の場で「民博名誉教授」と紹介されることが多かったが、次第に「吹田市立博物館長」と呼ばれることが増えた。それだけ知名度が上がった証拠だ。「市民との関係は、名残が尽きません」 (宮川まどか)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/living/doyou/CK2012060202000230.html