北海道新聞 03/05 16:00
かつて箱館奉行を務めた村垣淡路守(むらがきあわじのかみ)が160年前の1858年(安政5年)、釧路・根室地方を巡視した時の絵巻「東蝦夷地絵巻(ひがしえぞちえまき)」(国立公文書館所蔵)のうち、今回は「土人遊戯ノ図」を取り上げる。描かれているのは、アイヌ民族が輪突きと縄跳びで遊ぶ姿だ。釧路市立博物館学芸員の城石梨奈さんの解説でひもとく。(椎名宏智)
■輪突き遊び
輪突き遊びは、アイヌ語で「アカム・カチュ(輪を突く)」「ウコ・カリ・カチュ(互いに輪を突く)」などと呼ばれました。道内全域で行われたようです。木の枝やブドウのつるを輪にし、それを転がし、あるいは空に投げるなどして、それを突く遊びは、複数の文献のなかで紹介されています。
「北夷談(ほくいだん)」(松田伝十郎著、国立公文書館所蔵)には短い解説文があります。意訳すれば「15~18センチの丸い輪をこしらえ、地に転がし、それを投げ、細いさおでこの輪を突きました。遊びとはいえ、それは(やりの)稽古。自然と腕が磨かれ、後に海に出たとき、オットセイやトド、アザラシを捕る(のに役立つ)」となります。
アイヌ民族の男の子にとって、この遊びは、狩猟や漁労に必要な能力を高めるのに役立ったことでしょう。上達すると、輪の大きさを小さくして遊びの難度を上げたそうです。
「東蝦夷地絵巻」よりは少人数ですが、函館市中央図書館所蔵の資料「蝦夷古代風俗 上」にも輪突きの様子を描いた絵があります。
その絵には、「ウコカリシユエ」と読める文字が見えます。これは「互いに輪を振る(投げる行為を連想させる)」という意味に解釈できますので、このような呼び方もあったのかもしれません。
数人ずつ二手に分かれ、相手側の投げた輪を受け損なうと投げた側に一人取られる遊びだったと伝わっています。
大人と子どもが一緒に
さて、村垣の「東蝦夷地絵巻」の「土人遊戯ノ図」を見てください。赤ん坊も含め、数えられるだけで19人います。よく見ると、口ひげが伸びた大人が子どもに交ざって、たくさん居ることに気づきます。ひげが描かれている人物を大人だとすると、大人は9人います。そして、その大人が遊びの中枢を担っています。
■機敏さ養う
縄跳びを見てください。大縄を跳んでいるのは子どもですが、左右で回しているのは大人です。縄跳びは敏しょう性を養うほか、山中で獲物を追うとき倒木やつるに足を取られないための訓練にもなったようです。
輪突きは、右手で輪をつかみ、「さあ、投げるぞ」と構えている人物がいますが、やはり大人です。左側でさおを宙に突きだし待ち構える人も大人です。
コタン(村)の大人たちが、子どもたちと一緒になって遊んでいますが、大人が子どもを指導したり訓練したりしているのかもしれません。
■女の子1人
ところで、遊んでいる19人の中に、女の子とみられる人物が1人います=拡大写真=。縄跳びを跳んでいる子どものすぐ左に描かれ、赤ん坊を背負っています。男の子のように髪をそっていないほか、ただ一人、膝下の露出を避けるもんぺのような衣服を着ています。「私も仲間に入れてほしい」と訴えているのかもしれません。
赤ん坊の性別は分かりませんが、この絵の中でおそらく女の子だと考えられるのは、この子だけです。
なぜこの遊びの絵には、男の子ばかり描かれているかというと、当時の男女の役割分担が関わっているのではないかと思います。男性は狩猟や漁労や木彫り。女性は炊事、衣服作り(刺しゅうや織物)といった具合です。
だから、男の子は男の子の遊びを、女の子は女の子の遊びをしたのでしょう。
松浦武四郎(江戸末期の蝦夷地探検家)が残した絵図「蝦夷漫画」の中に、女児が砂浜で文様を描いている絵があります。絵の説明文は「女の子は7、8歳の頃から、砂地で衣服の文様を習った」とあります。
これを女の子にとっての遊びに含めるならば、男の子も女の子も生きてゆく力を遊びで体得していったと言えるでしょう。
東蝦夷地絵巻 村垣淡路守が1858年、函館から日高、釧路・根室地方を巡視したときの絵巻。当時のアイヌ民族の暮らしぶりや道内の光景が描かれている。幅37.8センチ、長さ14.2メートル。絵は数え方にもよるが19枚ある。国立公文書館(東京都)所蔵。
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/169464
かつて箱館奉行を務めた村垣淡路守(むらがきあわじのかみ)が160年前の1858年(安政5年)、釧路・根室地方を巡視した時の絵巻「東蝦夷地絵巻(ひがしえぞちえまき)」(国立公文書館所蔵)のうち、今回は「土人遊戯ノ図」を取り上げる。描かれているのは、アイヌ民族が輪突きと縄跳びで遊ぶ姿だ。釧路市立博物館学芸員の城石梨奈さんの解説でひもとく。(椎名宏智)
■輪突き遊び
輪突き遊びは、アイヌ語で「アカム・カチュ(輪を突く)」「ウコ・カリ・カチュ(互いに輪を突く)」などと呼ばれました。道内全域で行われたようです。木の枝やブドウのつるを輪にし、それを転がし、あるいは空に投げるなどして、それを突く遊びは、複数の文献のなかで紹介されています。
「北夷談(ほくいだん)」(松田伝十郎著、国立公文書館所蔵)には短い解説文があります。意訳すれば「15~18センチの丸い輪をこしらえ、地に転がし、それを投げ、細いさおでこの輪を突きました。遊びとはいえ、それは(やりの)稽古。自然と腕が磨かれ、後に海に出たとき、オットセイやトド、アザラシを捕る(のに役立つ)」となります。
アイヌ民族の男の子にとって、この遊びは、狩猟や漁労に必要な能力を高めるのに役立ったことでしょう。上達すると、輪の大きさを小さくして遊びの難度を上げたそうです。
「東蝦夷地絵巻」よりは少人数ですが、函館市中央図書館所蔵の資料「蝦夷古代風俗 上」にも輪突きの様子を描いた絵があります。
その絵には、「ウコカリシユエ」と読める文字が見えます。これは「互いに輪を振る(投げる行為を連想させる)」という意味に解釈できますので、このような呼び方もあったのかもしれません。
数人ずつ二手に分かれ、相手側の投げた輪を受け損なうと投げた側に一人取られる遊びだったと伝わっています。
大人と子どもが一緒に
さて、村垣の「東蝦夷地絵巻」の「土人遊戯ノ図」を見てください。赤ん坊も含め、数えられるだけで19人います。よく見ると、口ひげが伸びた大人が子どもに交ざって、たくさん居ることに気づきます。ひげが描かれている人物を大人だとすると、大人は9人います。そして、その大人が遊びの中枢を担っています。
■機敏さ養う
縄跳びを見てください。大縄を跳んでいるのは子どもですが、左右で回しているのは大人です。縄跳びは敏しょう性を養うほか、山中で獲物を追うとき倒木やつるに足を取られないための訓練にもなったようです。
輪突きは、右手で輪をつかみ、「さあ、投げるぞ」と構えている人物がいますが、やはり大人です。左側でさおを宙に突きだし待ち構える人も大人です。
コタン(村)の大人たちが、子どもたちと一緒になって遊んでいますが、大人が子どもを指導したり訓練したりしているのかもしれません。
■女の子1人
ところで、遊んでいる19人の中に、女の子とみられる人物が1人います=拡大写真=。縄跳びを跳んでいる子どものすぐ左に描かれ、赤ん坊を背負っています。男の子のように髪をそっていないほか、ただ一人、膝下の露出を避けるもんぺのような衣服を着ています。「私も仲間に入れてほしい」と訴えているのかもしれません。
赤ん坊の性別は分かりませんが、この絵の中でおそらく女の子だと考えられるのは、この子だけです。
なぜこの遊びの絵には、男の子ばかり描かれているかというと、当時の男女の役割分担が関わっているのではないかと思います。男性は狩猟や漁労や木彫り。女性は炊事、衣服作り(刺しゅうや織物)といった具合です。
だから、男の子は男の子の遊びを、女の子は女の子の遊びをしたのでしょう。
松浦武四郎(江戸末期の蝦夷地探検家)が残した絵図「蝦夷漫画」の中に、女児が砂浜で文様を描いている絵があります。絵の説明文は「女の子は7、8歳の頃から、砂地で衣服の文様を習った」とあります。
これを女の子にとっての遊びに含めるならば、男の子も女の子も生きてゆく力を遊びで体得していったと言えるでしょう。
東蝦夷地絵巻 村垣淡路守が1858年、函館から日高、釧路・根室地方を巡視したときの絵巻。当時のアイヌ民族の暮らしぶりや道内の光景が描かれている。幅37.8センチ、長さ14.2メートル。絵は数え方にもよるが19枚ある。国立公文書館(東京都)所蔵。
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/169464