2024年12月31日 10:00
少し黄ばんだB5判の便箋15枚に、アイヌ民族の窮状を訴える言葉がびっしりと並んでいた。
「生活水準ガ和人ト稍々(やや)併行スルモノ約二割程度デ、(中略)一般和人ト比較シテハ其水準ニ甚ダシキ径庭(けいてい)(隔たり)アリ、如何(いか)ニ悲惨ナ生活ニ放棄セラレアルカ」
1946年の発足から間もない「北海道アイヌ協会」が連合国軍総司令部(GHQ)に宛てた嘆願書の原文とされる原稿。手書きの文章には、何度も推敲(すいこう)を重ねた跡が残っていた。
2025年は戦後80年の節目の年になります。記者が遺族や戦没者のゆかりの場所などを訪ね、戦争とは何かを考えるシリーズ「記者がたどる戦争」の特別編として、「アイヌ民族と戦争」について掘り下げます。初回はすべての方に全文公開しています。
原稿は現在、胆振管内白老町のアイヌ文化復興拠点「民族共生象徴空間(ウポポイ)」に保管されている。
「アイヌ民族は戦後の新しい日本にいちるの望みをかけ、日本を占領していたGHQに生活実態を訴えたのだろう」。国立アイヌ民族博物館(白老町)の田村将人資料情報室長(樺太アイヌ近代史)はそう分析する。
第2次世界大戦直後の混乱期、日本全体が貧困にあえぐ中、和人以上に困窮したアイヌ民族は多かった。「現金がなく、まきと交換で食料を手に入れた」などの証言が多く残っている。
戦後30年近くたった72年の北海道庁の調査でも、アイヌ民族の生活保護率は居住市町村の平均の6.6倍だった。
なぜそこまで厳しい生活を強いられたのか。
明治政府はアイヌ民族が生業としていた川でのサケ漁を禁じ、1899年(明治32年)施行の北海道旧土人保護法下で農民化を進めた。しかしアイヌ民族に払い下げられた1戸当たりの農地は和人の半分以下で、多くは痩せた土地だった。農業だけで生活できず、和人に土地を安価で貸し出す人が後を絶たなかった。
さらに政府は1946年、地主から強制的に農地を買収し、小作農家に売り渡す農地改革を開始。生活苦から農地を和人に貸していたアイヌ民族も「地主」とみなされた。道の調べでは、同法でアイヌ民族に払い下げられた農地の約4割が買収対象になった。
戦前に生活を支えたサケ漁を禁じられ、戦後はわずかな農地まで奪われたアイヌ民族。窮状を打開するため、さまざまな方法でGHQに近づこうとした。
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祖父・宮本イカシマトクさんがGHQを訪れた際の写真を手に、祖父の願いについて思いをはせる大須賀るえ子さん。写真の右から3番目に、アイヌ民族の衣装をまとった宮本さんが写っている
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「アイヌ民族の先人が願ったささやかな幸せや平等な社会は、まだ達成されていない」
( 武藤里美 )