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『ゴールデンカムイ』アシㇼパを徹底考察!新しい時代を生きる彼女に望みたいこと

2025-01-01 | アイヌ民族関連

武将ジャパン 2024/12/31

原作漫画に始まりアニメから実写版映画、そしてドラマへ。

今なお数多のファンを喜ばせている『ゴールデンカムイ』ですが、その中で杉元佐一と並んで最も重要なキャラクターといえばアシㇼパでしょう。

実写版では山田杏奈さんが演じるアイヌの少女。

物語上では1月1日が誕生日となっています。

この魅力的なヒロインについて考察すると同時に、彼女にまつわるモヤモヤの正体を考えて参りましょう。

『ゴールデンカムイ』22巻表紙(→amazon

ヒグマを倒す小柄なアイヌの少女

『ゴールデンカムイ』は日露戦争から戻った和人の元軍人である杉元佐一と、アシㇼパが出会うところから話が勢いよく進み始めます。

アシㇼパの登場シーンは、これ以上のインパクトはないと思えるほど鮮やかさ。

凶暴なヒグマ相手に戦う杉元の前にあらわれると冷静に矢を射かけ、二人で協力してヒグマを倒すと、アシㇼパは「シサム(和人)にしてはなかなかやる」と杉元を認めるのです。

杉元から刺青人皮について聞いたアシㇼパは、自分のアチャ(父)も、刺青人皮をめぐる争いの中で命を落としたと語ります。

二人は手を組み、刺青人皮を集め、金塊を見つけることを契約し、冒険が始まるのです。

この場面は映像化されるとアクションもキレキレ! ヒグマも迫力満点です。

しかし、その動きだけでなく、アシㇼパというヒロインがいかに斬新な登場をしているのか、改めて考えてみたいところです。

ジェンダー規範を超えるヒロイン

アシㇼパと、他のアイヌ女性を比較してみましょう。

頭部につけたアシㇼパのマタンプㇱには刺繍が入っています。

しかし、女性は入っておりません。刺繍入りのマタンプㇱを女性が日常的に着用するのは、明治時代後期になってからのことです。

アシㇼパの口の周りには、他のアイヌ女性と異なり、シヌイェ(刺青)が施されておりません。

本人の口から新しい女だから入れないと語られています。明治政府が禁止した風習であるからには、アシㇼパは素直に従ったようにも思えます。

しかし、シヌイェをしていないと結婚できないとされていたことをふまえると、ジェンダー規範への反抗にも思えます。

そしてアシㇼパを語る上でなんといっても欠かせないのが、弓矢です。

『ゴールデンカムイ』アシㇼパさんはなぜアイヌの弓矢にこだわるのか

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アイヌでは男性が狩猟を行うとされています。女性でありながら弓矢を装備し、ヒグマを倒すアシㇼパは個性的で、やはりジェンダー規範を破っていると思えます。

これはアイヌだけのことでもありません。近年の調査ではハンターの比率における男女比は、そこまで大きく差がないと判明してきました。

時代が下り、ジェンダー規範を当てはめた結果、歴史があやまって認識されていたのです。

「男が狩猟、女は採集」という古い規範踏み越えつつ、アシㇼパは物語に登場しました。

◆9000年前に女性ハンター、「男は狩り、女は採集」覆す発見(→link

物語が進んでいくと、アシㇼパがこうなったのは、父の教育方針ゆえだったと明かされます。そこで杉元はこう嘆くのです。

アシㇼパはアイヌのために戦うジャンヌ・ダルクなのか!――と。

実は初登場時からアシㇼパは、ただの少女にとどまらぬ要素がいくつもありました。アイヌ文化に馴染まなければこの謎は解きにくく、杉元同様、多くの読者も罠にかかる仕掛けとも言えます。

アシㇼパさんと杉元が「ヒンナヒンナ」をする旅路に溢れる誠意

『ゴールデンカムイ』の展開は、アシㇼパの扱いによって大きく区切ることができます。

前半部は、杉元とアシㇼパ、それに白石を加えたトリオが基本となります。

刺青人皮争奪がプロットの根幹としてあるものの、印象的であるのは北海道を旅して周り、そこでアイヌ独自のご当地グルメを楽しむ姿です。

殺戮に手を染めてきた凶悪犯罪者と命のやりとりをしつつも、どこま牧歌的に思える旅路が続いてゆきます。アシㇼパが見せてくるアイヌの知恵、特に食に関するものは本作を決定づけるものといえます。

食文化ひとつとっても、アイヌと和人は前提からして大きく異なります。

和人は、仏教の影響が食生活に大きな影響をあたえています。人間にとって益獣と見做された動物は、命を奪ってはならないとして、口にしなくなりました。

農耕に用いる牛馬。朝の訪れを告げる鶏がこれに該当します。

アイヌの場合、むしろカムイとして矢にあたりに来ると考えられる。

動物を殺して食べることを残酷だとみなすわけではない。むしろ欠かせぬ営みでした。

こうした考え方を、和人は真摯に考えてきたかどうか。

アイヌのヒロイン像として、アシㇼパとナコルルを比較してみましょう。

1990年代に大ヒットした格闘ゲーム『サムライスピリッツ』シリーズに登場するキャラクターです。

「大自然のおしおきよ」

そんな決め台詞があるナコルル。彼女のいるステージの背景には、ヒグマを含めた野生動物がいます。

アイヌはヒグマの幼獣は飼育するものの、成獣をそうすることはありません。あの描き方は、動物と触れ合い心を通い合わせるディズニープリンセスのような像をナコルルに反映しているように思えました。

現代の自然保護や動物愛護活動と混同しているような造型に見えたのです。

一方でアシㇼパは、ヒグマに矢を放つ。野生動物を撲殺し食べる。一線を画し、より正確に描かれたアイヌ像といえました。

動物の肉を、アシㇼパと杉元が変顔をしながら食べる。「ヒンナヒンナ」というアシㇼパが食事時に発するセリフは、この作品の象徴となりました。

そのせいか、読者の間では誤解が広まってしまっています。

「ヒンナヒンナ」は食事の際だけにいう言い回しでもありません。

映画版では誤解を招かないように、アシㇼパの家独自の風習と説明がなされておりました。

そんな幸せで牧歌的な世界観は、アシㇼパが彼女の父であるアチャと再会する網走監獄編で転換点を迎えます。

樺太で現実と向き合い、覚醒を促される

アチャ(父)は死んだものとアシㇼパは理解していました。

そのアチャことウイルクが生存し、顔の皮を剥ぎ、網走監獄で生存していると確認されるところが、作品の重要な折り返し地点です。

このとき、ウイルクの同志であったキロランケの策略により、彼は尾形の狙撃により殺害されます。その場にいた杉元も撃たれ、アシㇼパはキロランケによって、樺太へと連れ去られました。

コンビであったアシㇼパと杉元のしばしの別れが訪れます。杉元は先遣隊を率い、樺太でアシㇼパ奪還に挑むことになるのです。

この樺太編では、アシㇼパのルーツが明かされます。

アシㇼパは、父であるウイルクと同じ青い瞳をしています。

ウイルクの父はポーランド人で、樺太に囚人としていたころ、樺太アイヌ女性との間に子が生まれました。それがウイルクのルーツでした。

アシㇼパというヒロインは、歴史の中で生まれた存在であることが樺太編でわかります。まさにこの時代、この地理の中で生まれた存在であると。

日本の近代史は、イギリスとロシアの展開する【グレート・ゲーム】に巻き込まれながら展開してゆきました。

アジア進出をめぐるこの二大国は、多くの国と地域を巻き込みつつ、覇権闘争を繰り広げ、ついには極東へ到達します。この大国の争いはチェスにたとえられ、【グレート・ゲーム】と呼ばれました。

徳川幕府はこのことを認識しており、幕閣はイギリスか、ロシアか、どちらかを選ぶことは危険だと認識していました。ヒグマと獅子はどちらがマシか、そう問いかけるほどナンセンスだとわかっていたのです。

そこで、消去法でフランスに接近することとなります。

一方で幕閣官僚ほど老成していない志士たちは、倒幕というイギリスの投げた餌に食いつきます。

イギリス商人は南北戦争終結で余った武器を倒幕を狙う勢力に売りつけ、イギリス留学させ、自国の戦略へ取り込みをはかる。長州藩の維新志士たちは松下村塾出身であることを誇りとしてきました。

しかし、実際には吉田松陰の教えを受けたあと、イギリスで学識を上書きされていることも確かなのです。

植民地支配のノウハウとして、支配地の若きエリートを、支配する側の国に留学させることがあげられます。

生麦事件】のあと、イギリスは江戸総攻撃を計画したことすらあります。

しかし、そうするまでもない。自国の息のかかったテロリストを扇動し、クーデターを起こす。こうして傀儡政権を打ち立てた方が安く済む。その結論に至ったのです。

かくしてイギリスは極東の日本を取り込むことに成功。

明治維新のあと、政府はパークスの顔色をうかがうような状況となりました。まんまとロシア牽制に成功したのです。

愛弟子として日本を握ったイギリスとしては、ロシアを刺激しないようにしたい。

そうなったとき、ある島が紛争の種として浮上しました。

樺太です。

田沼意次が政治を担った【田沼時代】、幕府は北方にも目線を注ぎました。松前藩とアイヌを経由した貿易に力を入れるだけでなく、対ロシアを見据え、蝦夷地と樺太警備に注力したのです。

そのあと田沼意次の失脚、ナポレオン戦争によりロシアの南下がおさまったことなどから、こうした政策は棚上げとなります。

それでも樺太は日本領だという認識は幕府にはあり、明治政府も引き継ぎます。

ところがそこへイギリスが割り込み、ロシアを刺激しないためにもロシア領にするよう迫ります。

近代国家成立とともに、北の島には国境線が引かれてゆきました。しかし、島に暮らす人々にとって、国家同士のゲームなど何の関係もありません。

理不尽な政治により迫害され、消されていってしまう。そんなウイルクやキロランケが抱いた焦燥感は、樺太という島に上陸することで見えてきます。

そんな大国間の政治的な駆け引きがあればこそ、青い目を持つウイルクは生まれました。彼の運命は【グレート・ゲーム】の中で生まれていたのです。

樺太編あたりから、困惑する読者もいたものです。

「北海道でヒンナヒンナしている姿が楽しかったのになぁ」

そんなぼやきもありました。

確かに樺太編以降、ギャグや軽いノリは健在であるものの、テーマがあまりに重くなっていったことは確かです。

鶴見は父への憎悪を娘にぶつけてくる

樺太編のラストで、アシㇼパは杉元と再会を果たします。

この二人に白石を加えた三人組は再起動。

そしてアシㇼパと杉元二度目の契約を結び、金塊争奪戦へ向かってゆくのでした。

杉元と再会したものの、アシㇼパは揺れ動いているようにも思えます。

樺太編ラストで命を落としたキロランケは、アイヌのために戦うようにアシㇼパを導いてきました。

父であるウイルクも、アシㇼパをそう育て上げてきたことが樺太編の回想からわかります。そのことを彼女は認識したのです。

樺太編では、ウイルクと鶴見の因縁も明かされてゆきました。

ウイルクは、諜報員としてロシアに潜入していた鶴見と出会っていました。そして鶴見の妻子をあやまって殺していたのです。

鶴見の狙いとは、金塊ではなく妻子の復讐ではないか? そう示されてゆきます。

樺太編のあと、アシㇼパは、北海道アイヌの少女としてだけではなく、親世代に翻弄され、鶴見に怒りをぶつけられる姿が見えてきます。

金塊争奪戦の後半は、命を落とす人物も増えてゆき、シリアスな展開へ向かってゆきます。

鶴見はアシㇼパに対し、父ウイルクの凶行を暴露します。アイヌたちを殺戮し、金塊を埋めた怪物こそがお前の父親なのだと、ウイルクから剥ぎ取った顔の皮を被った鶴見はアシㇼパにつきつけるのでした。

彼女が未来を選ぶとき

ゴールデンカムイ』の登場人物の中でも、アシㇼパは若い部類に入ります。

杉元はじめ、日露戦争経験者が己の過去と向き合うことが多い中で、彼女は未来をどう選ぶのか、そのことが突き付けられていると言えます。

アシㇼパがどの未来を選ぶのか?

ウィルクやキロランケが望んだように、アイヌの未来のために闘争を選ぶのか?

ウィルクとキロランケの同志であったソフィアは、死の間際にアシㇼパが自由に選ぶようにと託しています。

革命をめざした闘士として生きてきたソフィアは、自分の選んだ道では掴み取れなかったものが何か、わかっていたのかもしれません。

『ゴールデンカムイ』の最終決戦は、争奪戦参加者たちが金塊でなく、自分の欲望と向き合うことになります。

尾形は、自ら手にかけた,最悪の弟である勇作の亡霊と向き合う。

土方は、近藤勇ら新選組の幻の中へと向かってゆく。

鶴見は妻子の死。

こうした過去と向き合う人物が退場を迎えるのに対し、未来を掴もうとする人物には道が拓けています。

鯉登は、月島を鶴見から奪い返すことに全力を注ぐ。

そしてアシㇼパと杉元は、互いがいかに大事か確認しあい、ともに歩む覚悟を確認する。

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そうして大団円を迎え、白石は別の道を歩むものの、アシㇼパと杉元は幸せな未来を迎えたように思えます。

北海道で暮らす二人。きっと「ヒンナヒンナ」と言い合い、幸せな生活を送っているのだろうと思わせるところで、この大長編は終わります。

ただ、これでスッキリしないこともまた、確かなのです。

『ゴールデンカムイ』の最終盤から結末にかけての展開は賛否両論でした。

モヤモヤする。すっきりしない。竜頭蛇尾。そんな不満も聞こえてきましたし、私も実は首を捻った読者の一人です。

実はあの結末で、触れられていない人物と地域があります。

樺太です。

樺太はウイルクとキロランケの懸念が的中してしまいます。樺太に残ったチカパシとエノノカの運命は悲痛極まりないものがあります。

アシㇼパはあくまで北海道アイヌであることを選び取り、その中のハッピーエンドに歩んで行ったように思える。ある意味、父・ウイルクから受け継いだ樺太は一切引き継がなかったともみなせなくもないのです。

そんなすっきりしなかった読者であることをふまえ、アシㇼパというヒロインの意味を再度考えたいのです。

それは大団円なのだろうか?

背が伸びたアシㇼパと、杉元が笑いながら北海道の森の中を歩いてゆく――。

金塊争奪戦の最中に手にした北海道の土地権利書を、土方歳三の戦友である榎本武揚に託したことで、国立公園として保全される土地は守り抜くことができた。

受け継がれたアイヌの伝統や工芸品も、現在まで残されている。

これもアシㇼパや杉元、アイヌと和民族が手に手をとり合って協力した結果である。そう導く結末を迎えます。

これまでアイヌを大きく扱う作品となれば、差別や「滅びゆく存在」という、和人の偏見ありきの暗い描写も多いものでした。

そこから抜け出す意味では、あの明るい結末が挑戦的で斬新で意義があることは理解できます。

ただ、これには無理があります。

まず、榎本武揚は信頼できるのか?

土方歳三と箱館戦争で戦い、かつ明治政府に権限を持つ人といえば、消去法で榎本になるとは思います。しかし、彼が土方との関係をそこまで大切にし、アイヌの権利を守るために動くとは思えないのが厳しいところです。

榎本にとって、明治政府において懇意にしていたのは薩摩閥の黒田清隆です。榎本の器量を惜しみ、坊主頭になってまで助命嘆願をしたのが黒田でした。

この友愛を美談として片付けてよいものかどうか。黒田の対アイヌへの態度は、日本史に残る政治家の中でも最低に入ります。移住がスムーズでないからと、武力まで用いてアイヌを追い立てたのが黒田です。

その黒田の右腕であった榎本に、そんな大事な権利書を託してよいのでしょうか?

ここで榎本は信頼できる政治家として、伊藤博文と西園寺公望の名をあげます。この二人も、アイヌの未来を託せるかどうか、難しいところではあります。

そもそも明治政府は信頼できるのか?

江戸時代から、和人はアイヌとの契約を守らないものとされてきました。アイヌは字すら書けないと侮り、誤魔化す和人は多いものでした。

そのあとの明治政府も、アイヌとの約束を反故にしています。そういう政府が秘密裏に出てきた権利書を真面目に扱うとは思えないのです。

結末で権利書が起こした結果として、国立公園や国定公園の保護もあげられます。

アイヌ文化が和人とアイヌの協力で守られたともされます。

ただ、文化保全がアイヌをとりまく問題のすべてかと言われると、決してそうではありません。

ウィルクやキロランケがこの結末を知って、果たして納得できるのかどうか。

一応、アシㇼパがアイヌの権利を守ったように導かれてはいるものの、どうにも苦しいものに思えます。

現在、インターネット上では連日アイヌへの差別投稿がみられます。そんな問題を扱うとき、枕詞のようにこう語られることが多いものです。

ウポポイや『ゴールデンカムイ』のヒットにより、アイヌ文化は身近になったものの……

◆アイヌの人々に対する偏見や差別をなくそう(→link

◆【第168回】アイヌ民族差別の背景には何がある?(→link

『純粋なアイヌってまだいるんですか?』“自覚なき差別”“無知の偏見”といわれるマイクロアグレッションとは?差別と闘うアイヌ民族の苦悩

https://www.youtube.com/watch?v=fHXuKPDzI3A&t=4s

確かに『ゴールデンカムイ』によって、アイヌ文化が身近になったとは思います。

ただし、それがアイヌの権利向上や差別解消とつながるかというと、それはまた別の話です。

アイヌへの関心が高まると同時に、ヘイト言説も増しているのが現実社会です。

もしもアシㇼパや、ウイルクや、キロランケが現代にいて、スマートフォン越しにそんなヘイトを目にしたら、彼らはどう思い、行動するのでしょうか。

その姿や投稿を見て、杉元ら和人たち、そして私たちはどう思い、行動するのでしょうか。

漫画にそこまで期待してどうするのかと言われればそうです。ハッピーエンドを貫きたい作品としてはありなのだと思えます。

ただ、そこに2010年代から2020年代にかけて発表された作品としての限界点はどうしても感じてしまうのです。

アシㇼパは過去の作品と比較すれば、格段に進歩しています。

1990年代に一世を風靡した『サムライスピリッツ』シリーズのナコルルと比較すれば、考証が格段に進歩しています。

先住民キャラクターでいえば、ディズニー映画にもなった『ポカホンタス』ほどご都合主義ではありません。2020年代ともなれば、『ポカホンタス』の再現だけは、最低限回避すべき先住民描写の代表格といえます。

そうしたハードルはクリアしたキャラクターがアシㇼパであるといえます。マジョリティによって都合がよいだけの「マジカル・アイヌ」はもう古いのです。

『ゴールデンカムイ』そのものも、アシㇼパも、素晴らしい描き方だとは思います。

ただ、世界と原住民を取り巻く価値観が変わりゆく速度が、速まってきているとも思えるのです。

そのあたりの懸念を考えてみましょう。

『ゴールデンカムイ』は参考文献も多く、極めて真摯に取材を重ねており、考証は確かなものがあります。

ただ、関連作品のスタッフや商品化において、配慮が不足しているのではないかと思うこともしばしばあります。

アイヌ関連ではありませんが、第七師団をモチーフとしたアパレルグッズが販売中止となったことがあります。配慮不足でしょう。

ファンダムでは、アシㇼパの和名について議論が発生したこともありました。和名はあくまで和人の都合で強要されたものであり、それはアイデンティティの侵害であることは考えたいものです。

作品から何も学べていないのか。私がそう悲しくなってしまうのは、『ゴールデンカムイ』ファンがアイヌルーツの方を執拗に攻撃する様を見る時です。

作品への愛が暴走するにせよ、そのことは作品の意義を全く理解していないと示すことでもあります。

白石が犬とひっかけてアシㇼパをからかった際、杉元がどうしたか思い出して欲しい。

そして実写化において議論となったのが、アシㇼパはじめ、アイヌ役はアイヌルーツが演じるかどうかということでした。

これは役者の機会均等といった要素もあります。海外と日本の状況の違いもあります。

ただ、時代が変化しつつあることをふまえますと、ルーツは一致させたほうが作品としての寿命は長くなったのではないかと思えなくもありません。

アシㇼパは少女です。オーディションでルーツの一致する子役を選ぶこともできたのではないかと私は思います。

たとえばディズニー映画実写版『モアナと伝説の海』は、ルーツの一致する役者が選ばれています。

海外ほど日本ではこうしたルーツ一致を重視してこなかったものの、2024年朝の連続テレビ小説『虎に翼』で画期的な試みがありました。

朝鮮からの留学生には、韓国から日本にきた役者のハ・ヨンスさん。そして朝鮮人(当時の呼び方による)の兄弟役には、朝鮮学校卒業生である許秀哲さんと成田瑛基さんが起用されました。

2018年朝の連続テレビ小説『まんぷく』では、ヒロイン夫が台湾出身の華僑である設定が「普通の日本人が馴染めるように」という配慮のもとで改変されました。

それから十年経たぬうちにここまで進歩したのです。

あのドラマについて、私は放送当時から差別的で話にならないと感じていました。

しかしその思いを吐露すると、かえってお堅い変人扱いされることもしばしばあり、うんざりさせられたものです。

それが2024年ともなれば、前述したように『虎に翼』は積極的に、日本にいた朝鮮人(当時の呼び方による)差別を描いているのですから、時代は変わるものなのです。

ルーツに配慮したた作品が増え、それに見る側も慣れてゆくと、ルーツが一致しないキャスティングは古く見えてしまうことになりかねません。

私自身、そうした経験はあります。

2016年公開の映画『ドクター・ストレンジ』を楽しく見ました。

しかし、今になってみると、原作でアジア人であったエンシェント・ワンを、なぜ白人のティルダ・スウィントンが演じたのだろうかと思ってしまい、見返す気には到底なれません。

理屈でなく、感情でもう、あえて見る必要もないリストに入れてしまう。これが価値観の進化なのかと我ながら驚いています。

ポリコレだのなんだの、反発する意見が多いことはわかります。

ただ、一人のファンとして、作品そのものの寿命を長くするためにも、現状にとどまらず、一歩先をゆく先進性を発揮していただきたいと思ってしまいます。

新しい時代を生きる彼女」はこれからも続くと信じて

それを踏まえまして、もう一度、権利書を手にしたアシㇼパの選択を考えてみましょう。

ウィルクやキロランケは、アイヌの権利を守るためにはテロリズムや武装蜂起も辞さない思考のもとで戦い抜いていました。

アシㇼパはそれを踏襲せず、権利書を用いて政府といわば「水面下の取引」をして、カムイの住む土地を守ったという設定にされています。正面切って交渉していません。

正史としてアシㇼパの交渉を描けないフィクションとしては、そこが限界なのだろうとは思います。

しかし、結局アシㇼパは、否定したようでウィルクとキロランケの路線を取ったように思えます。

アジア・太平洋戦争後、新たなる憲法のもと、アイヌ女性であるアシㇼパも被選挙権を得ました。

ならば、彼女には政治家として、アイヌの権利闘争に立ち上がるという道はあります。

政治家とまではゆかずとも、実在する活動家のように、水面下ではなく表立って立ち上がることもできたはずです。

杉元はアシㇼパをジャンヌ・ダルクのようにしたくはないと語っています。アシㇼパにとって大事な杉元への配慮ゆえに立ち上がらず、北海道のコタンで静かに暮らしたという考えもあるでしょう。

しかし、こう考えてくると、何かモヤモヤしませんか?

当然のことながら、そんなアシㇼパは見たくないという反発は想像できます。

あるいは、いくらなんでも杉元にそこまで気遣うのだとすれば、あのいきいきとしたアシㇼパは台無しではないかと思うかもしれません。

そのモヤモヤの正体を、一人一人考えることが大事だと私は思うのです。

かわいらしい少女は受け入れる。でも、権利だなんだとわめく大人の女には嫌悪感が滲む。そう思うのだとすれば、それは差別ありきかもしれません。

声高に権利を訴える相手が苦手だという意識があるとすれば、そこにも何か偏見があるのかもしれない。

そもそも和人が、あるべきアイヌ像を規定するのは余計なお世話ですよね。

何度でも繰り返します。

『ゴールデンカムイ』も、アシㇼパも、素晴らしい。

しかし、未来には発表当時の限界があったとみなされることでしょう。

ラストで杉元と並んで歩く姿で終わるというのは、当時の限界がある。いま読むと古さを感じる。そう評されるかと思います。

あるいは実写ドラマではラストが変わっているか。野田先生自身が続編を描くことだって考えられるのです。

それは悪いことだと私は思いません。

アイヌを取り巻く環境、和人の価値観が変われば、そうしたことは起こり得ます。

私は、良い方向でそんな変化が起こる未来を、一人の読者として待ち望んでいます。

https://bushoojapan.com/historybook/goldenkamuy/2024/12/31/185352

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