先住民族関連ニュース

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クリミア:第1副首相「賢い人は露との付き合いに関心」

2015-02-28 | 先住民族関連
毎日新聞 2015年02月25日 19時59分(最終更新 02月25日 23時27分)
 プーチン露大統領による昨年3月の編入宣言を受けて、ロシア連邦の構成体に加えられた「クリミア共和国」。アクショーノフ首長に次ぐナンバー2のミハイル・シェレメト第1副首相(43)に先住民族クリミア・タタール人を巡る状況や半島の将来について聞いた。同氏は昨年2月のクリミア制圧に際して親露派武装組織「クリミア人民義勇軍」を指揮し、現在も司令官を兼務している。【シンフェロポリで真野森作】
 −−1月下旬、タタールの指導者が逮捕された。
 私もアクショーノフ氏も民族主義者ではない。タタールの友人もたくさんいる。だが、どの民族にもならず者はいる。ゼロから紛争を生み出し、金もうけをする連中だ。人々に寄生する「指導者」たちが去ったとき、民族の問題は解決に向かう。
 −−半島の将来は。
 観光と農業の分野で発展できる。今は過渡期だ。現段階では(ウクライナ本土へ延びる)鉄道が使えなくなり、運輸を船と飛行機に頼るしかない。クリミアは「島」になってしまった。だが、シンフェロポリの空港は拡張工事が続いている。今夏に完成すれば、鉄道旅客の減少を補えるはずだ。欧米の制裁は不愉快だが、賢い人々はロシアとの付き合いに関心がある。
http://mainichi.jp/select/news/20150226k0000m030061000c.html

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ロシア極東の先住民族の今昔

2015-02-28 | 先住民族関連
ロシアNOW-2015年2月25日 ヴァシリー・アヴチェンコ

(写真)ウデゲ人=ユーリイ・ムラヴィン撮影/タス通信
極東の沿海州がロシアの一部となったのは1世紀半以上前のこと。中国人やロシア人がこの土地に来る前、どのような人々が暮らし、現在どうしているのだろうか。
 現在の沿海地方の領域に中国人が登場し、続いてロシア人が登場した19世紀半ば、ここにはすでにウデゲ人、ナナイ人、オロチ人、その他先住民が暮らしていた。昔は「異民族」(非ロシア人)と呼ばれていたが、現在は極東の「先住少数民族」と呼ばれている。これらの少数民族はツングース・満州群に分類される(中国人とウデゲ人やナナイ人といった先住民族との混血のタズ人も含まれる)。かなり前から市街地暮らしをしている先住民もいれば、タイガで暮らし続ける先住民もおり、ロシア沿海地方の先住民についても同じである。
 沿海地方の住人の主な活動は漁猟だった。狩猟者は巧みな追跡者であり、また名射手であった。漁師は見事に簎(やす)をさばき、自ら木でつくった舟で川を移動した(小舟は「オモロチカ」、多人数乗り舟は「バト」と呼ばれた)。
 服は動物の皮や魚の皮でもつくっていた。沿岸部に暮らしていた人は海洋動物を捕獲していた。先住民は19世紀、中国人やロシア人との交易関係を確立し、自分たちの毛皮用獣皮と銃、火薬を交換していた。しかしながら、タイガに文明が浸透するにつれ、アヘン、アルコール、天然痘も侵入してきた。
 極東の先住民の生活を紹介したのは、探検家で作家のウラジーミル・アルセニエフ。友人でガイドだったナナイ人男性にちなんで「デルス・ウザーラ」と名づけた小説の著者である。ちなみに、この小説を原作とした、1975年公開の黒澤明監督の映画は、アカデミー外国語映画賞を受賞している。アルセニエフは極東の先住民を「原始共産主義者」と呼んだ。先住民の生活様式、人や世界に対する接し方は、ヨーロッパ人のそれよりも、正しく、自然だと考えていた。極東の先住民はすべてに生があると考え、デルスは獣も、太陽も、炎も、すべて「人」の象徴と呼んでいた。先住民には発達した環境意識があったのだ。
現代の沿海地方の先住民
 現在沿海地方に残っている先住民は、1500人から2000人と少ない。 主にテルネイスキー地区、クラスノアルメイスキー地区、ポジャルスキー地区などの北部に暮らしている。ここにはまだ、獣(ヘラジカ、アカジカ、クマ、トラ)などが多数生息する未開のタイガが残っており、文明とはほぼ無縁だ。
 ウデゲ語話者は非常に少なく、多くのウデゲ人がこれまでと同様の伝統的な生活様式を維持している。最も有名な「先住」集落は、約600人が暮らすクラスヌイ・ヤル、約200人が暮らすアグズ。これらの集落に到達するのは困難だが、クラスヌイ・ヤルでは毎年ウデゲ文化フェスティバルが行われており、日本、韓国を含め、さまざまな場所からの訪問者がいる。
 現代のウデゲ人の生活の様子は、ヴァシリー・ソルキンとゲンナジー・シャリコフが数年前に制作した、ウラジオストク・テレビスタジオ「タイガの叫び」のドキュメンタリー「森の人々」で少し垣間見ることができる。また、クラスノアルメイスキー地区にある国立公園「ウデゲの伝説」でも、知ることができる。公園の活動領域には環境観光事業と民族観光事業もある。公園事務局はロシチノ村にあり、ウラジオストクやハバロフスクからバスや車で行くことが可能。
 ポジャルスキー地区には現在、国立公園「ビキン」がつくられているが、先住民は不安をもってこの決定を受け入れていた。この国立公園の主な課題は、”ロシアのアマゾン”と呼ばれる森林を伐採から救うこと。だがクラスヌイ・ヤルのウデゲ人は、伝統的なタイガの活動が禁止されることになるのではないかと警戒している。漁猟は先住民にとって娯楽ではなく、生活であり、また生きる手段であるため、国内で漁猟に関連する一定の優遇措置を受けている。当局はこの地域の先住民の利益を考慮に入れ、これまでと同様に薪を切ったり、ナッツやベリーを集めたり、クロテンを捕獲したり、魚を釣ったりできるようにすると約束している。沿海地方政府の幹部は、「ビキン」が先住民社会によって管理されるロシア初の国立公園になると説明している。
http://jp.rbth.com/arts/2015/02/25/52117.html

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台湾・台南市長、先住民シラヤ族の政府公認求める訴状を提出

2015-02-28 | アイヌ民族関連
フォーカス台湾 2015/02/25 14:09【社会】

(写真)台南市政府提供
(台北市 25日 中央社)台南市の頼清徳市長は24日、台湾の原住民(先住民)の一つとされる「シラヤ族」の政府公認を求める訴状を、同族の関係者22人とともに台北高等行政法院(裁判所)に提出した。
訴状は、シラヤ族の認定申請を却下した原住民族委員会(省レベル)の決定を撤回させ、同族を台湾の原住民として正式承認するよう求めるもの。頼氏らは昨年11月、行政院(内閣)に対して不服申立てを行っていたが、同12月に却下されていた。
シラヤ族は台湾西部の平地を中心に生活する原住民「平埔族」の一つとして知られている。現在は台南市が「市定原住民」として認めているが、政府が定める「台湾原住民」には認定されておらず、一部は基本的人権を求めて公認を訴えている。
また、頼氏は自身が所属する民進党に対し、シラヤ族の公認を来年行われる総統選挙の公約に入れるよう求めた。
(劉世怡/編集:杉野浩司)
http://japan.cna.com.tw/news/asoc/201502250002.aspx

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水と緑の地球環境:市民防災世界会議に100団体 自助・共助、主役は住民 仙台で来月14日開幕

2015-02-28 | 先住民族関連

毎日新聞 2015年02月25日 東京朝刊
 仙台市で3月14日に開幕する「第3回国連防災世界会議」の一環で設けられる一般公開のパブリックフォーラムで、市民による国際会議が開かれる。NGO(非政府組織)や援助団体などがネットワークを組んで運営にあたり、各国の被災地で活動する災害の専門家や実践者らを囲み、防災について学び合う。【明珍美紀】
 ◇ネパール洪水対策、報告へ
 「国連の会議は、政府が目指す世界的な防災の指針を決めることが目的だが、災害が起きたときに、自助や共助を担う市民こそ、防災の大きな担い手だ」と国際協力NGOセンター(JANIC)理事長の大橋正明さん(61)は説く。
 そこでJANICやピースボートなどが呼びかけ、パブリックフォーラムのイベントとして「市民防災世界会議」が企画され、国内外の約100団体が参加することになった。
 東日本大震災の被災地である仙台が会議の舞台となるが、阪神大震災、新潟県中越地震など、これまでの国内の大規模災害の経験や海外の事例も踏まえて地域防災を考えるプログラムが組まれた。
 初日の14日から16日はテーマ別の会合だ。「日本の災害復興」のセッションでは、神戸まちづくり研究所の事務局長、野崎隆一さんや、せんだい・みやぎNPOセンター代表理事の紅邑晶子さんらが、それぞれの取り組みや課題について報告する。
 「コミュニティ・レジリエンス」と題する地域防災についての討論には「シャプラニール=市民による海外協力の会」カトマンズ事務所のプログラムオフィサー、ラリット・バハドゥール・タパさん(37)が加わる。
 タパさんは、ネパール・チトワン郡の国立公園に隣接する地域の洪水対策事業に従事。「近くに川がたくさんあって洪水が多発するため、集落ごとに地域防災計画をつくった」といい、予想される災害の発生地点や避難経路などを地図で表したハザードマップを作製したという。そのほか、障害者やLGBT(性的少数者)、外国人など多様な視点での討議もある。
 最終日の17日はシンポジウムを実施する。国連国際防災戦略事務局(UNISDR)のアフリカのコーディネーターらが出席し、「一人ひとりにできる防災・減災」について考察する。
 参加は無料。詳細は2015防災世界会議日本CSOネットワークの共同事務局(ピースボート内、03・3363・7967)へ。
 ◇各国女性、リレートーク
 「女性の力で変革を」。国連防災世界会議最終日の18日、パブリックフォーラムでは、「男女共同参画と災害リスク削減」をテーマに、各国の女性たちによる講演やリレートークが行われる。
 東日本大震災後、国内の復興、防災関連の法整備に対して提言活動を続けてきた「男女共同参画と災害・復興ネットワーク」(JWNDRR)などが主催する。
 「生活能力のある女性が、防災の面でもイニシアチブを発揮するようなトレーニングプログラムの実現が目標」とJWNDRRスタッフでオーストラリア出身のケイト・ストローネルさんは説明する。
 当日は、JWNDRRの代表で前千葉県知事の堂本暁子さんや、英ノーザンブリア大のモリーン・フォーダム教授らが登壇する。講演者の一人、米ハワイ大社会科学研究所プログラムディレクターのシェリル・アンダーソンさんは、災害リスク管理の研究者。防災に先住民族の知恵を生かすことを唱えているという。
 会場は仙台市のエルパーク仙台(午後1時15分から)。問い合わせはJWNDRR(03・6435・6355)。
 ◇ブックレット「福島10の教訓」 原発事故の心構え、対応 有志製作
 市民防災世界会議に向け、東京電力福島第1原発事故で被災した福島の実態や被災者の声を世界に伝えようと、市民有志がブックレットの製作を進めている。
 タイトルは「福島 10の教訓」。原発の仕組みから、事故の実態、原発災害ではどのような心構えや対応が必要かなど、知っておきたいポイントをまとめ、執筆や編集に当たっては、原発関連の専門家らの意見を聞いた。
 「例えば教訓の一つに緊急時の避難の問題がある。放射性物質の拡散は風向きや地形によって影響を受けることを事前に知っていれば、もっと有効な避難誘導ができたはずだ」と、刊行委員会のメンバーで「ふくしま地球市民発伝所」(福島市)事務局長の藤岡恵美子さん(49)は指摘。「被災した人々の体験はコラムで紹介する」という。
 ブックレットの巻末には、前回、兵庫(神戸市)であった国連防災世界会議(2005年)で採択された「兵庫行動枠組み」(HFA)など、国際文書や法律の解説を付ける。HFAでは防災を国、地方の優先課題に位置づけ、災害リスクを特定、評価、観測して早期警報体制の整備、向上などを求めている。
 「福島 10の教訓」は、英仏中韓など外国語版もつくり、市民防災世界会議の会場(仙台市市民活動サポートセンターなど)を中心に無料配布。それに先立つ3月13日、福島県文化センター(福島市)で開く会議でも配る予定だ。
==============
 マイECOの「マイ」は、「MY(私)」と「毎日新聞」の「毎」をかけたものです。「身近なエコを分かりやすく伝える」をコンセプトにしたフリーぺーパーとウェブサイト(http://mainichi.jp/feature/ecology/)もこの紙面と同じロゴを使っています。
http://mainichi.jp/shimen/news/20150225ddm010040071000c.html

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手に傷をつくりながら8カ月 樹皮の着物にアイヌ刺しゅう

2015-02-28 | アイヌ民族関連
苫小牧民報(2015年 2/24)

(写真)完成したばかりの着物と砂澤さん(左)、大竹さん
 苫小牧アイヌ協会(澤田一憲会長)が苫小牧市生活館(矢代町2)で開いているアイヌ刺しゅうの複製講座で、協会会員の女性2人が、オヒョウニレの樹皮からできた織物「アットゥシ織り」に刺しゅうを施した着物を完成させた。20年以上続く同講座で、アットゥシへの刺しゅうは初の挑戦。昨年6月に作業をスタートしてから約8カ月かけた労作だ。携わった2人は「アイヌ刺しゅうの中でも、(アットゥシは)最も難しい物の一つ。これを励みに、今後も技術の伝承に努めたい」と意気込む。
 作品を完成させたのは協会事務局長の大竹房子さん(65)と会員で刺しゅう歴約3年の小関若生(わかお)さん(52)。講師は苫小牧駒沢大学をはじめ、市内外で指導する砂澤代恵子さん(71)が務めた。
 平取など道内数カ所で作られているアットゥシ織りだが、使用できる樹木が限られていたり、織り技術の担い手が減少するなどして、年々手に入りづらく、貴重になっている。協会でも数年前からアットゥシの刺しゅう教室を開きたかったが、素材の不足や技術の難しさで実施できずにいたという。
 見た目は麻のようだが、デニム地よりも硬いアットゥシ。作業はすべて手縫いで、反物を着物に仕立てていくことから始まる。刺しゅうも、遠目には1色のように見えるが、実際はばらばらの3色の糸を1本1本順番に縫って完成させる。
 「とても根気のいる作業」と大竹さん。生地が硬いため、鉄製の太い針を用いなければならず、指の先を何度も針で傷つけることもあった。数ミリ単位の縫い目を手作業で施していく根気のいる仕事だ。「昔の人は、こんな大変な思いをして着物を作っていたんだと実感しました」と小関さんは、作業の日々を振り返る。
 「子孫繁栄」「家族仲良く健康で暮らせますように」など、それぞれ意味を持つ文様をつなぎ、大きな一つの刺しゅうに。砂澤さんも「今は、一般に流通する綿生地などで作ることがほとんど。今回は教える側も相応のエネルギーが必要だった。終わって一安心です」とほっとした表情。完成した作品は、展示の予定は今のところなく、市生活館で保管される。
http://www.tomamin.co.jp/20150222545

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札幌琴似工業高「文芸誌の甲子園」全国優秀賞 アイヌ民族の文化・歴史特集

2015-02-28 | アイヌ民族関連
北海道新聞 (02/24 16:00)
 札幌市西区の札幌琴似工業高文芸部が「文芸誌の甲子園」とも評されるコンテスト「第5回富士正晴全国高校文芸誌賞」で、最高賞に次ぐ「優秀賞」に輝いた。昨年8月に発行した部誌「風花舞(ふうかまい)」26号でのアイヌ民族の文化や歴史に関する特集が「北海道にまつわる文化について熱心に研究しており、内容が深く読み応えがある」と評価された。部員らは「みんなで力を合わせた結果」と喜んでいる。
 同賞は徳島県三好市などでつくる実行委員会が主催。同市出身の小説家で、「桂春団治」などの作品で知られる富士正晴(1913~87年)にちなみ、高校生に芸術活動に関心を持ってもらうことを狙っている。今年は全国50高校から応募があった。
 同部は2006年に同好会として発足。07年に部になった。年4回部誌を発行しており、全国コンクール入賞の常連だ。俳句や短歌も創作している。
 受賞した風花舞26号はB5判274ページ。アイヌ民族の文化に関する特集は「イランカラプテ アイヌ文化・文学研究」というタイトルで36ページの力作。北海道ならではの題材を取り上げたいと企画した。
 生徒らは、気に入ったアイヌ民族の神話や詩について本やインターネットで調べた解釈を掲載。「リズムが良く心地よく感じる」「教訓を伝えてくれており、自分も忘れず生きていく」など感想もつづった。大正期のアイヌ文化伝承者の知里幸恵らについて年表でまとめたり、部員が創作したアイヌ民族の言葉を使った俳句なども載せた。
 元参院議員で、アイヌ文化研究者の故萱野茂さん(日高管内平取町出身)の生涯を調べた1年の細川大(まさる)君(16)=西区=は「アイヌ民族のために尽くし、人間的な強さと誇りを感じた」。編集長を務めた2年の宮川双葉さん(16)=西区=は「ありきたりなものではなく、独創性がある部誌ができた。次もいい結果を狙いたい」と話している。(川上遼平)
http://www.hokkaido-np.co.jp/news/sapporo/594379.html

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白老町が4月の機構改革で副町長を2人制へ

2015-02-28 | アイヌ民族関連
室蘭民報 【2015年2月24日(火)朝刊】
 白老町は今年4月から副町長を1人制から2人制にする。また民族共生の象徴となる空間(象徴空間)の2020年(平成32年)開設に伴う町活性化に向けた体制強化のため、生活環境課内にあるアイヌ施策推進グループを、まちづくりの主体となる企画課内にアイヌ施策推進室として配置する。総合行政局は廃止し、局内の企画部門と財政部門は企画課、財政課とし、行政改革部門は総務課に移行する。これら組織機構の見直しに関連する条例改正案を町議会3月会議に提案する。
 副町長の一人は総務管理部門を、もう一人は企画・経済・アイヌ政策などの事業部門を担当する。23日の町議会議案説明会で戸田安彦町長は「社会変化に対応できる行政組織とするためには絶えず組織を見直していくことが必要。山積する行政課題に対し、スピード感をもって解決していかなければならない。特に2020年の象徴空間整備に伴う活性化対策や人口減少対策などは役場内部を引き締め、組織力を高め、全町を巻き込んで推進しなければならない。副町長を2人体制にし、組織強化を図ることがこれを実現するための最良の方策と考えている」と述べた。
 担当課長を配置したグループを業務量の増加に対応して課または室に昇格させる。介護グループ・高齢者保健福祉グループを高齢者介護課に、交通防災グループを危機管理室に、アイヌ施策推進グループをアイヌ施策推進室に、港湾グループを港湾室に昇格させる。また消防本部の予防グループを課に昇格させ、予防体制の強化を図る。
 総合行政局廃止に伴い、理事職、局長職は廃止する。同局が中心となって策定した財政健全化プランは、各部門が進行管理しながらプランに基づく行政運営を行っていくことになる。
 過去の主な機構改革は、1998年度に助役2人体制に移行し、部制を廃止した。2007年度には副町長を1人体制とし、09年度からは副町長1人体制のまま部制を導入した。13年度からは部制を廃止し、新たに理事を配置した。
(富士雄志)
http://www.muromin.mnw.jp/murominn-web/back/2015/02/24/20150224m_08.html


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嘉義農林がまいた種…郭源治氏との縁

2015-02-24 | 先住民族関連
デイリースポーツ-2015年2月24日
映画「KANO~1931海の向こうの甲子園~」が昨年は台湾、今年は日本でヒットした。KANOとは台湾の嘉義農林学校(現国立嘉義大学)の愛称で、映画では日本統治下にあった時代、初出場で準優勝を果たした快進撃が描かれている。当時の監督は、松山商業出身の近藤兵太郎。“外地”の学校を率い、民族の垣根を越えた近藤氏の足跡、そして嘉義農林の歴史が今に伝えるものを、書く。
 嘉義農林は南部からの初出場であると同時に、それまでの台湾代表は日本人によるチームだったが、嘉義農林は漢民族、日本人、そして高砂族(先住民)の混成チームだった。
 躍進の原動力となったのはエースの呉明捷(漢民族)。ダイナミックなフォームから繰り出す速球にカーブとシンカーを巧みに操る制球力もあった。2回戦の神奈川商工戦では1安打完封。これは台湾代表初の快挙だった。
 映画「KANO」では小市慢太郎が演じる新聞記者が喝采を送るシーンがあるが、その元になっているのが作家の菊池寛が大会終了後に東京朝日新聞に寄せた「甲子園印象記」だ。『嘉義農林が神奈川商工と戦った時から嘉義びいきになった』。高校野球がファンをひきつけるのは「郷土愛」と並んで「判官びいき」だが、その第1号と言ってもいいのがこの大会での嘉義農林だろう。
 のちに「麒麟児(きりんじ)」と呼ばれる明捷が生まれたのは、12年2月17日。北部の苗栗という街で、父は裁判所の書記官を務め、広大な土地を所有する地主だった。苗栗と嘉義は、当時は列車で4時間。農業を学びたくて進学した。
 最初はテニス部。近藤に見いだされ、スパルタ練習で明捷の才能は開花した。甲子園では打者としても4割1分2厘の大活躍。腸チフスのため、1年遅れで進んだ早大では野手に専念し、通算7本塁打を放った。これはのちに長嶋茂雄に破られるまで、東京六大学の最多タイ記録だった。しかし、早大で野球とは決別した。
 「プロからも誘いはありましたが、断ったみたいです。息子としてはプロに行ってもそれなりの記録は残したんじゃないかと思いますが、アマチュアリズムとでもいうのでしょうか。『お金をもらって野球を見せようとは思わなかった』と話していました」
 こう話したのは次男の堀川盛邦氏(59)だ。明捷は71歳で亡くなるまで台湾籍のままだったが、4人の子どもたちには日本国籍を選ばせ、妻の姓を名乗らせた。
 嘉義農林がまいた種は、思わぬところでも花を咲かせていた。中日で通算106勝116セーブを挙げた郭源治氏(58)だ。
 「僕たち先住民には娯楽がない。野球が遊びだった。でも、野球の基礎を教わったのは嘉農の人だった。嘉農がなければ今の僕はないんです」
 源治に野球の手ほどきをしたのは、郭光也、子光親子。父・光也は36年に嘉義農林が最後の甲子園に出たときのメンバーだった。その源治が今度は台湾で子どもたちに野球を教える…。84年前にまかれた野球の種は、今も台湾で育っている。
http://www.daily.co.jp/baseball/2015/02/24/0007765613.shtml

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マレーシア(下) サラワク州都クチン 「ネコの街」多様性に満ち

2015-02-24 | 先住民族関連
西日本新聞2015年02月23日(最終更新 2015年02月23日 14時31分)

(写真)サラワク文化村で、カラフルな民族衣装をまとう子どもたち
 多民族国家として知られるマレーシア。ボルネオ島北部、サラワク州の州都クチンもまた、多くの民族が共存して暮らしている。バラエティーに富んだ人口60万人の街と近郊を訪ねた。
 クチンとは、マレーシアでネコの意味。19世紀の半ば、「白人王」として統治した英国人が、インドのクチンに似た風情のこの地に同じ名前を付けたともいわれるが、諸説あるらしい。
 真偽はともかく、あちこちにネコの像が立つ。すっかり「街の顔」だ
 白人王が100年間統治しただけに、街には当時の王宮や裁判所などコロニアル建築が点在する。
 市街地にはインドの食料品店や中華料理の店などが軒を連ね、その先にはモスクのタマネギ形のドームも見える。歩道脇の壁に描かれたウオールアートも面白い。街全体がカラフルだ。
 クチン中心部から車で約50分の「サラワク文化村」。ここでは先住民族やマレー系など7民族の復元家屋が並ぶ。
 伝統舞踊を演じる女性、色鮮やかな伝統衣装を着た子どもたち…。気候がそうさせるのか、人々の表情はどこか穏やかで温かい。
 ●メモ
 日本‐クチンの直行便は、今のところない。九州から訪れる場合、関西国際空港からマレーシアの首都クアラルンプールに向かい、入国審査を受けた後、マレーシア航空などが毎日運航するクチン行きに乗り継ぐルートが便利。同国政府は今年、「マレーシア・イヤー・オブ・フェスティバル2015」と銘打ち、イベントを多数予定している。
 ◆マレーシア政府観光局=http://www.tourismmalaysia.or.jp/
 ◆サラワク州観光局=http://sarawaktourism.com/
    ×      ×
 ●寄り道
 「世界最大の花」として知られるラフレシア。その自生地が、クチンから西へ約90キロの場所にある。「グヌン・ガディン国立公園」だ。
 植物に寄生するラフレシアは、どこに、いつ開花するのか定かでない。花も3~7日で枯れるため、遭遇できるかは運次第だ。直前の開花情報は公園事務所で確認できる。
http://www.nishinippon.co.jp/nlp/travel_report/article/147398

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身近な題材で実験、調査 小中学生108人が発表

2015-02-24 | アイヌ民族関連
苫小牧民報 (2015年 2/23)

(写真)大型スクリーンを使って調査研究を発表
 千歳市内の小中学生が総合的な学習の時間などで取り組んださまざまな実験や調査研究の内容を発表する「千歳サイエンス会議」が21日、千歳科学技術大学で開かれた。市教委と同大学の共催。15小学校、5中学校から選ばれた児童生徒代表108人が、地域の自然や産業に関する調査、身近な題材を使った実験など、さまざまなテーマの発表をした。
 末広小4年6人のグループは、同校の特色であるアイヌ文化学習について発表。アイヌの遊びや言葉に親しみ、イナキビやアハ(土豆)の栽培を通じアイヌの食文化や暮らしに理解を深めたことなどを丁寧に説明した。
 駒里中1、2年6人のグループは、校区を流れる美々川の水質調査と保全活動を発表。同校は毎年のサイエンス会議で同じテーマを扱い、先輩たちが残した過去のデータを基に、年々調査を発展させている。保全活動では、近年、川に繁茂し、流れを停滞させているクサヨシの除去を行った。
 午後の部の講評を述べた千歳市校長会会長の杉本祐治勇舞中校長は「大学の立派な会場で発表できるのは貴重な体験。小学生も中学生も以前より発表が上手になってきている。今後も身の回りのさまざまな疑問を発見し、科学に対する興味を深めて」と呼び掛けた。
http://www.tomamin.co.jp/20150222504

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白老(しらおい)・民族博物館を訪問(ほうもん) アイヌ文化学んだよ/通信員だより

2015-02-24 | アイヌ民族関連
北海道新聞  (2015/02/21)
 胆振(いぶり)管内白老(しらおい)町にあるアイヌ民族博物館に行ったことがありますか? 北海道などで昔から暮(く)らしていたアイヌ民族の歴史や文化を紹介(しょうかい)する施設(しせつ)です。最近はキャロライン・ケネディ駐日(ちゅうにち)アメリカ大使が訪問(ほうもん)したことでも話題になりました。2月中旬(ちゅうじゅん)、フムフム通信員の宍戸美友佳(ししどみゆか)さん=苫小牧(とまこまい)・豊川(とよかわ)小5年=が初めて博物館を訪(おとず)れ、古くから伝わる物語を聞く体験などを通して、アイヌ文化を学びました。《文・阿部里子(あべさとこ)、写真・能正明(のうまさあき)》
独特(どくとく)の文様(もんよう) 衣装(いしょう)にししゅう
 アイヌ民族博物館は1984年にオープンしました。すぐそばにあるポロト湖の周辺では、2020年に北海道で初めてとなる国立の博物館ができることが決まっています。
 ここにはかやぶき屋根のチセ《伝統家屋(でんとうかおく)》が立ち並(なら)び、その中で踊(おど)りを見たり、楽器の演奏(えんそう)をきくことができます。外には、「サッチェプ」とよばれる保存食(ほぞんしょく)となるサケの丸干(まるぼ)しがあちこちにつるされ、かつてのアイヌの人たちの暮(く)らしぶりを再現(さいげん)しています。
 宍戸(ししど)さんはまず、アイヌ民族の伝統衣装(でんとういしょう)を着せてもらいました。独特(どくとく)の文様(もんよう)がししゅうされているのを見て「とてもきれいで気に入りました」とうれしそう。学芸課の矢崎春菜(やざきはるな)さん(27)は「この文様(もんよう)は、地域(ちいき)や家によってそれぞれちがっていました。魔(ま)よけの意味もあるんですよ」と教えてくれました。
暮(く)らしの知識(ちしき) 物語で伝える
 アイヌの人たちは、アイヌ語のほか生活にかかわるすべてのことを、文字を使わずに語りついできました。人や動物、神様などが登場する物語も、そうやって伝えています。こうした物語のことを「口承文芸(こうしょうぶんげい)」と言います。
 しかし、最近ではアイヌ語が使われる機会が減(へ)っているため、博物館は物語を将来(しょうらい)へ残そうと、昨年夏から毎月第2、4土曜日に訪(おとず)れた人に聞いてもらう取り組みを続けています。
 この日は、日高(ひだか)管内平取(びらとり)町の二風谷(にぶだに)地区に伝わる「ホタルのむこ選び」という物語を聞きました。宍戸(ししど)さんは少し緊張(きんちょう)した様子で赤く火が燃(も)えるいろりの前にすわり、教育普及(ふきゅう)係の熊谷由布子(くまがいゆうこ)さん(25)の語りに合わせて手でリズムを取りました。
 このお話は、ホタルが語り手です。メスのホタルがおむこさんをさがしに海の上を飛んでいると、ヒラメとサメとタラに出合います。しかし、もっといい相手がいるような気がして、心が動きません。それからしばらく行くと、今度は体が大きくて力が強いカジキマグロに出合いました。「この若者なら、わたしにぴったりだ」と思って夫に選んだという内容です。
 でも、大きさが3メートルほどもあるカジキマグロと小さなホタルが、なぜ結婚(けっこん)するのでしょう。
 矢崎(やざき)さんは「ホタルが飛ぶ季節になると、海ではカジキマグロがとれるようになります。アイヌの人たちは生活に必要なこうした知識(ちしき)を、物語として語りついでいたんですね」と説明してくれました。
 宍戸(ししど)さんは「自分が住んでいる北海道には、このような文化があるのだとあらためて分かりました。とても勉強になりました」と話していました。
<アイヌ民族博物館>
 胆振(いぶり)管内白老(しらおい)町若草(わかくさ)町2の3の4 (電)0144・82・3914 http://www.ainu-museum.or.jp/
http://www.hokkaido-np.co.jp/cont/fumfum/257421.html

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青年海外協力隊員としての保健教育活動 アルパカと暮らす子どもたちに衛生教育を

2015-02-23 | 先住民族関連
週刊医学界新聞-2015年2月23日
第3114号 馬瀬 敦子(岡山大学病院看護部)
 海外ボランティアをしたいと思ったきっかけは一冊の本からだった。黒柳徹子著『トットちゃんとトットちゃんたち』(講談社)を読んだのは私が小学6年生のとき。写真と文章で見たアフリカの現状は小学生にはとても衝撃だった。「どうして水がないの? なぜこんなに痩せているの? どうしてみんな病気になるの? そしてなぜ死んでいくの……?」幼心になんとかして助けたいと思った。この記憶が医療の道を選択する布石になったのかもしれない。6年後,私は進路に躊躇なく看護学を選び,岡山大医学部保健学科に入学した。
給与支給・職場保証の現職参加制度で青年海外協力隊員に
 青年海外協力隊を知ったのは大学生のとき。電車の壁に貼ってある広告が目に留まった。関心はあったが,自分にはできっこないというか,そのときは自分とは別世界のように感じた。卒業後は看護師として岡山大病院で勤務し,忙しいながらも充実した日々を送っていた。そんな中,同級生で同僚の看護師が青年海外協力隊員としてトンガに派遣された。彼女の挑戦は私の中にあったもやもやしたものを一気に払拭してくれた。できないと決めつけているのは自分,やらないで後悔するよりやってみて後悔したほうがずっと価値があると,すぐに協力隊への応募を決めた。また当院に「現職参加制度」があることも決意を強く後押ししてくれた。海外で活動している期間,給与が支給され,帰国後すぐに現場復帰できるという理想的なシステムなのだ。
 私が派遣されたのは南米エクアドル。赤道直下にあるため日差しは痛いほど強い。一方,標高6000 m級のアンデス山脈が国を南北に走っており,山は万年雪で覆われている。活動拠点となったグアランダは,国内最高峰6300 mのチンボラソ山の麓にある小さな町で,首都キトからは車で約5時間のところにある。先住民族も多く住むこの町の保健事務所に私は配属された。同国では若年妊娠が社会問題となっており,保健省はプロジェクトを作り啓発活動を行っている。私はそのプロジェクトに組まれたボランティア活動の担い手として配属されたのである。
 とはいえ配属先では事務所でデスクワークばかり。青少年なんて誰も来ないしこちらから出向くわけでもなかった。異文化,言語の違いに慣れず,なぜ自分はここに配属されたのだろうと悩む日々が続いた。それでも悩んでいても前に進まない,とにかくやってみようと自分のできることを行動に移し始め,地区中学校,高校を巡回し性教育を行った。テーマを,(1)身体の仕組み,二次性徴の変化,(2)道徳観,(3)将来の夢,(4)親の役割の4つとし,各学校の生徒に健康教育を行った。
 当初の要請にはなかったが,さらにもう一つ取り組んだ活動が衛生教育だった。対象小学校で行った教育内容は手洗いや歯磨き,また栄養に関することから環境美化についてまでである。地域には顕在化した衛生問題がいくつもあったからだ。例えば,彼らの多くがアルパカや牛,馬,ロバなどの家畜の世話をしているので手はいつも汚れている。しかし彼らは手を洗わない。同国では,食べるときに手を使うこともあるため,手を洗わないことが感染症の原因にもなり,消化器症状が出ると栄養状態の悪化にもつながる。私は子どもたちへの衛生教育は必須と感じ,ぜひ取り組みたいと思い,配属先と相談し実施した。

写真左:小学校で行った歯磨きの方法についての授業の様子。教材は筆者の手作り。
右:配属された保健事務所のスタッフと(中央が筆者)。試行錯誤を重ね,熱意が伝わる
 ボランティアの多くは活動する中でいくつかの壁に当たる。その一つが言葉の壁だ。異文化への戸惑いもあり,慣れないスペイン語では伝えたいことの半分も話せないこともあった。彼らは興味のないことには全く耳を傾けない。学校と交渉してせっかく許可をもらった1時間が無駄になってしまうことが何度もあった。試行錯誤を繰り返し現地に合った活動スタイルに変えていく。生徒自ら考えたり参加できるように画用紙やマジックを使用したり,また退屈しないよう楽しみながら遊べる工夫をとパズルや工作を取り入れた。一番好評だったのは日本の文化について話すこと。授業の合間に日本の話が出ると,子どもたちは皆興味津々に聞いてくれた。ほとんどの人が外国を知らない現地で,私は「歩く異文化」として人々の関心の的だったようだ。
 海外ボランティアというかねてからの夢を持ち,思い切って飛び込んだ協力隊だったが,時につらいこともあった。活動場所を自分で探すことから始め,対象者がたった2人だけのときもあり,活動内容も最初に抱いていたイメージより実際には地味で,自分の非力さを幾度となく感じた。そんなときは,なぜ自分はここにいるのかと振り返った。彼らがボランティアを待ち望んだわけではなく,自分自身がそれをしたかったのではなかったかと,ボランティアの原点に返った。くじけそうになったり悩んだりはしたが,幸いにも私の熱意は多くの関係者に受け入れられ,協力を得られた。「また来てね,待ってるよ」「どうしたんだ,元気ないじゃないか」という彼らの何気ない言葉と笑顔に支えられ,2年は瞬く間に過ぎていった。任期中一度も辞めたい,日本に帰りたいと思ったことはなかった。
 あるとき,1人の少女が私にこう言った。「Quiero ser enfermera porque es lindo tu trabajo;ねぇ,私,看護師になりたいわ。だってあなたみたいな仕事って素敵じゃない」。私の活動は単なる健康教育ではなく,働くこと,看護師という仕事を伝えていたのだと気付かされた言葉だった。素直にとてもうれしかった。私が教えた保健教育の内容が,子どもたちにとって将来役に立つ人生ツールの一つになればと願った。
海外ボランティアで広がる視野
 帰国後はすぐに復職した。長い海外生活を経て,日本の良さをあらためて感じた。第一に,日本の看護師は素晴らしいということ。現在勤務している慢性期病棟では多くの患者は病歴が長く何度もつらい治療に耐えている。大学病院ならではの高度医療を提供するために,看護スタッフは日々カンファレンスを繰り返し,看護師一人ひとりが患者を中心に考え丁寧に対応する。日本の医療,看護の質の高さを感じ,同時に日本人の勤勉さ,真面目さも再認識した。
 一つの夢であり目標であった海外ボランティアを実現した今,私にとって協力隊とは単なるボランティア活動ではなく,異文化,新たな世界への出合いと経験であったと言えよう。協力隊での2年間は,また会いたいと思える地球の裏側の人々に出会わせてくれた。この経験は間違いなく私の視野と世界観を広げてくれた。今後それをどのように活かすか,それは自分次第であるが,今できることは,自分の経験を伝えること,そしてやってみたいと思っている人の力になることだと思っている。
◆部局と看護部の連携で育てる看護職の国際感覚
  ――岡山大の取り組み
岡山大大学院保健学研究科教授・深井喜代子
(同研究科・国際交流推進WG代表)
 本学の保健学研究科は,学部教育の理念に国際化に対応できる人材の育成を掲げている。医学部保健学科は,看護学,放射線技術科学,検査技術科学の3つの専攻で組織され,それぞれが臨床を持つ実践科学であり,保健・医療・福祉の領域では国際的視野と国際感覚を育てる教育が不可欠である。部局内には海外活動経験者はいたが,個人レベルでの学生への対応に限られ,部局全体では周知しにくかった。そこで,2005年に部局内に独自に国際交流推進ワーキンググループ(以下,WG)を立ち上げ,主に学部生の国際活動支援を行ってきた。活動内容は,国際活動の専門家や海外の研究者を招いての公開講演会の開催,部局間協定締結にこぎつけたタイの看護大学との交流(毎年,相互に学部生の短期研修を実施),教員間の教育・研究交流である。これらの活動はウェブサイトやポスター,メール等を通じてことあるごとに学生と教員に伝えている。WGの運用費は学内グラントや互助会費,寄付などを充てている。こうした取り組みの目に見える成果には,本学の志願理由に国際交流活動支援体制があると言う受験生が少なからずいることが挙げられる。
 今回,青年海外協力隊としてエクアドルに派遣された馬瀬敦子さんも,部局の国際化推進教育体制下で育った卒業生である。一方,岡山大病院には馬瀬さんと予定者を含め,青年海外協力隊員は7人に上り,他にも継続的に海外医療活動に参加する看護職が数人いたが,活動を推進・支援する組織はなかった。そこで昨年,看護部にも「国際交流支援WG」を立ち上げ,研究科の「国際交流推進WG」と連携しながら,学部と病院の学生・職員の国際活動を支援することになった。2つのWGを基盤に,二人三脚で部局・職種を超えた実践と教育・研究の国際化に引き続き取り組みたいと考えている。
馬瀬敦子氏
2006年岡山大医学部保健学科看護学専攻卒。同年より現職。12年6月から2年間,「現職参加制度」により,青年海外協力隊員としてエクアドルに派遣される。14年に帰国した後はすぐ臨床に復帰している。
http://www.igaku-shoin.co.jp/paperDetail.do?id=PA03114_04

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アイヌ文化に触れる

2015-02-22 | アイヌ民族関連
読売新聞 2015年02月22日
 松阪市曽原町のハートフルみくもで21日、小学生らがアイヌ文化に触れる「アイヌ文化体験交流会」が開かれた。
 北海道の名付け親として知られる松浦武四郎(1818~88年)が同市出身であることから、アイヌ民族との交流が続いており、交流会は5回目。小学生と保護者ら約80人は、松浦武四郎記念館で22日に開かれる「武四郎まつり」に招かれた白糠しらぬかアイヌ文化保存会のメンバー12人と、アイヌ古式舞踊を踊ったり、民族楽器「ムックリ」の演奏方法を学んだりした。
 ムックリを学校で習っている市立小野江小6年の川添紗朱さん(12)と伊勢野早紀さん(12)は「自由に低音や高音を出すのが難しい」と話していた。
http://www.yomiuri.co.jp/local/mie/news/20150221-OYTNT50186.html


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武四郎の胸像 恩返しに寄贈 あす松阪で公開

2015-02-21 | アイヌ民族関連
読売新聞 2015年02月21日

(写真)公開される武四郎の胸像
 北海道の名付け親として知られる松阪市出身の探検家、松浦武四郎(1818~88年)の胸像(高さ約60センチ、重さ約15キロ)が制作された。22日に同市の松浦武四郎記念館で開かれる「第20回武四郎まつり」で寄贈式と一般公開が行われる。
 制作したのは、北海道白老町の民芸品店を経営する山田祐治さん(60)。白老町と交流を深めている松阪市の市民団体「光れ街道夢おこしの会」(前川幸敏代表)が同町を通じて制作を依頼したところ、山田さんは「アイヌ民族が武四郎から受けた恩を返したい」と快諾。同記念館に展示されている60歳頃の肖像画を参考にしながら、北海道産の樹齢約200年のシナノキを使い、約3か月かけて仕上げた。
 前川代表は「胸像からは武四郎の偉大さが感じられる」と話しており、当面は記念館に保管されるという。
 まつりの問い合わせは、実行委員会(0598・56・7927)
http://www.yomiuri.co.jp/local/mie/news/20150220-OYTNT50222.html

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ムックリ製作や自然散策楽しむ 白老でアイヌ文化体験交流事業

2015-02-21 | アイヌ民族関連
苫小牧民報  (2015年 2/20)

(写真)ムックリ製作に取り組む子どもたち
 白老町の一般社団法人白老モシリが主催するアイヌ文化体験交流事業がこのほど、イオル事務所チキサニやポロト湖畔周辺で開かれた。アイヌ民族博物館で担い手育成研修を受けている研修生や、白老アイヌ協会の会員らが講師を務め、町内から参加した小学生やその保護者などが楽しいひとときを過ごした。
 当日は、雪面に残った小動物の足跡を探して自然に生きる動物のことを学ぶ予定だったが、早朝に降雪があり内容を変更。湖畔の森を散策しながらエゾモモンガの巣穴や鳥の巣を見つけながら周辺地域に生息する動物のことを学習した。
 また、アイヌ民族が子ども時代に親しんだ弓矢や輪投げを使った遊びも体験。大人はかんじきを履いて雪面ウオークを楽しんだ。
 参加者全員に昼食として、伝統食のオハウ(サケの塩汁)やイナキビごはん、「ボツボツ」と呼ぶカボチャのあえ物などが振る舞われ、鹿肉ジンギスカン料理も好評だった。
 午後からは彫刻刀を使ったアイヌ民族の楽器ムックリ製作も体験。参加者の多くが音を出せるよう上手に製作していた。
http://www.tomamin.co.jp/20150222436


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