つい先日のブログで取り上げた芥川比呂志さんの「エッセイ」がきっかけで、このところいろんな作家のエッセイを借りてきては読みふけっている。
「エッセイ」というのは「自慢話」と紙一重なので、その辺の作家の処理具合も興味あるところ。
その一環として「阿刀田 高」氏の「ミステリー主義」はなかなかセンスがあって洒落ていたが、その中にこういう一節があった。
「私の親しい先輩Mさんから聞いた話である。Mさんは50年も昔、田舎の小学校を卒業して東京の名門中学へ入った。
Mさんの父親は「東京の学生に較べて学力が劣ったら困る」と考えて自ら家庭教師となり、試験の前にはレジュメを作りヤマをかけ、「これを覚えていけ」
あんまり熱心にやるものだから、そばで見ていた家族は、「お父さんの方が試験を受けるみたい」と、あきれるありさまだった。
が、そのわりにはMさんの成績はあがらない。父は投げ出してしまった。
ちょうどそんなときにMさんの従兄のAさんが東京の国立大学に入り、地方都市から上京して叔父(Mさんの父)のところに下宿することになった。
MさんはAさんと一つ部屋に机を並べて起居をともにするようになる。
後年、Mさんは述懐するのだ。
「Aさんは質問をすれば教えてくれたけれど、特に何かを習ったという覚えはないんだ。だけどそばで見ていて、勉強とはこういうふうにするものなのか、とわかったな」
つまり、勉強をしているときの集中力、たくさんのノートが発揮する迫力、試験の前の激しい苦悩、・・・Aさんが優れた学徒であっただけに、訴えるものは強烈であったにちがいない。大学生と中学生ではレベルが違う。
そのAさんをそばで見ているだけで何も教えられなかったけれど、Mさんの成績はみるみる上がったそうである。
~中略~
中国の故事には「謦咳(けいがい)に接する」という言葉がある。偉い人の咳を浴びるくらい近くにいて影響を受けることだ。
とまあ、以上のような内容だった。
ふと、これに関連して文豪「志賀直哉」氏のエッセイ「リズムとマンネリズム」を思い出した。
その一部を紹介してみよう。
1 偉れた人間のする事、いう事、書く事、何でもいいが、それに触れるのは実に愉快なものだ。
自分にも同じものが何処かにある、それを眼覚まされる。精神がひきしまる。こうしてはいられないと思う。仕事に対する意志を自身はっきり(あるいは漠然とでもいい)感ずる。
この快感は特別なものだ。いい言葉でも、いい絵でも、いい小説でも(いい音楽でも)本当にいいものは必ずそういう作用を人に起す。一体何が響いて来るのだろう。
2 芸術上で内容とか形式とかいう事がよく論ぜられるが、その響いて来るものはそんな悠長なものではない。そんなものを超絶したものだ。自分はリズムだと思う。響くという聯想でいうわけではないがリズムだと思う。
3 このリズムが弱いものはいくら「うまく」出来ていても、いくら偉らそうな内容を持ったものでも、本当のものでないから下らない。小説など読後の感じではっきり分る。作者の仕事をしている時の精神のリズムの強弱問題はそれだけだ。
4 マンネリズムが何故悪いか。本来ならば何度も同じ事を繰返していれば段々「うまく」なるから、いいはずだが、悪いのは一方「うまく」なると同時にリズムが弱るからだ。
精神のリズムがなくなってしまうからだ。「うまい」が「つまらない」という芸術品は皆それである。いくら「うまく」ても作者のリズムが響いて来ないからである。
とまあ、以上のとおり。
このブログにも「リズム」があるといいんですけどねえ(笑)。
この内容に共感された方は励ましのクリックを →