「週刊文春」に「文庫本を狙え!」というコラムが毎回連載されており、図書館でちょくちょく見る程度だが、2004年9月30日号~2009年2月26日号までを一挙に収めた本を見つけた。
「文庫本玉手箱」(2009.6.10、文藝春秋社刊)
著者の「坪内祐三」さんは1958年生まれ、早大文学部卒業、「東京人」の編集者を経て書評、コラム、評論などの執筆活動をされている方。
中身のほうはそれこそ手当たり次第で、分野を問わず200冊の文庫本の概略が紹介してあったが、うち何となく気になったのが「小林秀雄対話集」。
「小林秀雄」さんについては現在ではどうか知らないが、自分が若い頃は「日本最高クラスの知性」とまでいわれていた方。
しかし、相変わらず難解なのでとても一筋縄ではいきそうにない。
ずっと遡って自分の受験時代のこと、模擬試験や入学試験の「読解力テスト」に当時はブームみたいに小林さんの評論がしきりに出題されていて”ヒーヒー”いった記憶がある。
面白い逸話がある。
あるとき小林さんの娘さんが現代文の問題を持ってきて、「お父さん教えて」と言った。小林さんが読んだが、サッパリ分からない。「悪文だ。この意味がどうしてこう解釈されるんだ?分かりませんと書いて出せばいい!」と言った。途端に娘さんが笑い出した。「だって、この問題はお父さんの本からとったんだって先生がおっしゃってたわ」。
小林さんの代表作のひとつに「モーツァルト」があるが、これは数あるモーツァルト論の中でも白眉とされるものでクラシック愛好家を自認する方で、もし読んでなければ一度は目を通しておきたい1冊。それも出来るだけ感性が鋭敏な若いうちに。
さて、この対話集の中で小林さんの言葉として次のような一節が紹介されていた。
「散文ってものはね、そこがまた面倒なところだが、まずくても面白い文章だってあるんだ。生きている文章ってものがある。うまくたって死んでいる文章がある。死んでいる文章は私には縁がないの。少し読んでいれば死んでいるか生きているか分かるんだから、贅沢な話じゃないと思っているだけだよ」
「評論の神様」から「まずくてもおもしろい文章がある」なんて聞かされると、”素人”にとって一筋の光明が差し込んでくるようなもの。
当然、この箇所だけでは意味がよく把握できないので早速図書館から”本家本元”の「小林秀雄対話集」を借りてきた。
「小林秀雄対話集」(2005.9、講談社文芸文庫)
上記の一節は中村光夫氏、福田”つね”存氏(※”つね”は手書き入力パッド”でも出てこない漢字!)との鼎談「文学と人生」の中で「現代作家の怠慢」の小見出しで出てくるもので、この文の続きとしてこうある。
「人間はだれだって、文章なんかには関係なく生きた言葉を使っているんだからね。使わざるを得ないだろう。そういうあたりまえのことが文章にでてなきゃ駄目じゃないか、というだけのことだ。言葉の混乱などということと問題が違う。混乱したってちっともかまやしない。混乱したって生きた文章ってものはあるわけですよ」
こうしてみると、どうやら「生きた言葉」がポイントのようで「リアリティ=実在感」についての表現の問題なのかな~とおぼろげながら察しがつく。
いつぞやのブログでも取り上げたことがあるが国民的作家の司馬遼太郎さんは「この文章は素人が書いたものか、玄人が書いたものかすぐに分かる」と言っていた。
たとえば大学教授が理路整然と書いたものだって素人同然の文章があるという。
司馬さんによると「正直にありのまま書けばいい」のに素人はつい「いい格好をしたがる」のですぐに分かるそうだ。「気取った文章」とでもいえばいいのだろうか。
「漱石の”則天去私”にもあるとおり、(文章に)私心、競争心を出してはいけない」ということだそうだが、これはどうやら小林さんの趣旨と、一脈相通じるものがありそう。
現在のところ、ブログのおかげで文章を作る機会に恵まれており、幸い読んでくれる人もいるのでたいへんありがたいことだが、せめて「まずくても面白い文章」を心がけたいもの。