音楽好きの方なら誰しも生涯に亘って愛聴する曲目というのがあると思う。
いくらクラシックといっても通常は一ヶ月ほども続けて聴くと飽いてしまうものだが、それこそ何度聴いても聴くたびに興趣が尽きず、コンコンと泉が湧いて出てくるような音楽。
自分にとってそういう曲目は何かと問われたら、まず咄嗟に出てくるのがモーツァルトの「ピアノ・ソナタ第14番K.457」。
この曲ばかりはもう「永遠の恋人」のような存在で、何か辛いことや不愉快なことがあってもこの曲を聴くと不思議に心が落ち着く。
音楽でも、オーディオでも「好み」というのは”人それぞれ”で滅多に一致することはないものだが、この曲に関してはコラムニストの「石堂淑郎」氏が次のように述べられている。
「モーツァルトを聴く~私のベスト1~」(1994年、リテレール誌)
「一生の間、間断なく固執して作曲したジャンルに作曲家の本質が顕現している。ベートーベンは9つの交響曲、32のピアノ・ソナタ、15の弦楽カルテットに生涯の足跡を刻み込んだ。
モーツァルトの真髄はオペラとピアノ協奏曲にありで同じく生涯に亘って作曲されたピアノ・ソナタは弟子の訓練用に作られたことから、やや軽いという憾みを残す」
と述懐されながらも「モーツァルトのベスト1」として挙げられたのがこの「ピアノ・ソナタ第14番ハ短調K.457」。
「湧き出る欲求の赴くままに報酬の当てもなく作られた故か不思議な光芒を放って深夜の空に浮かんでいる」。
嘆息するばかりの(石堂氏の)筆力だが、自分もわずか21分かそこらの小品、特に第二楽章(9分前後)の中に、それこそ果てしない宇宙の中に佇んでいるような感慨にとらわれることがある。
しかし、問題は演奏者である。モーツァルトのピアノソナタは物凄く演奏が難しい。
これに関してピアニストの「久元祐子」さんは次の著作の中でこう述べられている。
「モーツァルトはどう弾いたか」(H12.丸善(株)刊)
「モーツァルトの音楽は素晴らしいが弾くことはとても恐ろしい。リストやラフマニノフの超難曲で鮮やかなテクニックを披露できるピアニストがモーツァルトの小品一つを弾いたばかりに馬脚をあらわし「なんだ、下手だったのか」となることがときどきある。
~粗さ、無骨さ、不自然さ、バランスの悪さ~そのような欠点が少しでも出れば音楽全体が台無しになってしまう恐ろしい音楽である」。
オペラ「魔笛」(2時間半)を大河小説にたとえれば、このピアノ・ソナタはまるで俳句のような存在だが、それだけにたった一つの「音符=♪」の演奏のミスさえも許してくれない研ぎ澄まされた音楽。
しかもモーツァルトの音楽はどんなに美しくて悲しみに満ちた旋律が展開されても、演奏が終わった途端に”な~んちゃって”と、後ろを向いてペロリと舌を出す、まあ一種の「深刻さの裏返しの照れ」みたいな様子が(自分の目には)垣間見えるが、これら一連のピアノ・ソナタに限ってはそういう印象をまったく受けないのが不思議。
つまり作為性が感じられないということになるが、結局、これらの作品はモーツァルトの「独り言」みたいな存在なのだろうと勝手に言い聞かせている。
さて、若い時分から30年近く親しんできたこの曲だけにいろんな演奏家を聴いてきた。
グレン・グールド、マリア・ジョアオ・ピリス、内田光子、ワルター・ギーゼキングそしてクラウディオ・アラウ。
いずれも甲乙つけがたいほどの名演ばかりで「知力、気力、体力、技量」がそろったハイレベルのピアニストでなければこのピアノ・ソナタのデリケートなニュアンスはとても引き出せないが、やはり昔も今も一番のお気に入りはグールド。
この魔力に取り憑かれるともうダメ~。逃れる術はない。
待ち遠しいのがロシアのピアニスト「エフゲニー・キーシン」。早くモーツァルトのピアノソナタ全曲を録音してくれないものか。
首を長くして待っているが、簡単に録音しないところをみると、限りなく落し穴の多いこのソナタにさすがのキーシン(1971年10月10日生まれで当年39歳)も随分と慎重になっているようだ。
先日、福岡から我が家にみえた同じくキーシン・ファンのプロの音楽家のO君にこの件をズバリ訊ねてみても、「一流の演奏家になるほど録音には慎重になるからなあ~。モーツァルトのピアノソナタは初見で弾くのが一番で、考え込むとダメだという話をよく聞くよ」と言ってたが、まあ将来の楽しみとして大切にとっておこう。