「音楽&オーディオ」の小部屋

クラシック・オーディオ歴40年以上・・身の回りの出来事を織り交ぜて書き記したブログです。

私のモーツァルト「ベスト5」

2024年12月16日 | 音楽談義

50年以上に亘って聴き込んできたモーツァルトの作品・・、自分で言うのも何だがもはや「自家薬籠中の物」だと思っている。

で、かって好みの「ベスト5」を公表したことがある。芸術に順位を付けるのは無意味だが、その人の愛好度を示すということで許して欲しい。

1位 オペラ「魔笛」 2位 オペラ「ドン・ジョバンニ」 3位 「ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲 K364」 4位 「踊れ、喜べ汝幸いなる魂よ K165」 5位 「ディヴェルトメント K136」

今でも不動のメンバーで、モーツァルトの晩年(30歳以降)の作品が2曲、中期の作品が1曲 初期(20歳前後)の作品が2曲と年代的にもバランスがとれていると思う。

で、この「ベスト5」に対して読者の中からさっそく反応を示されたのがMさんだった。

「私もモーツァルト・ベスト5に参加させてください」とメールが届いたが、いかにも熱烈なファンを彷彿とさせる内容だった。

タメになる話は繰り返し、繰り返し何度も反復させてもらうのが、このブログのモットーなので再掲させてもらおう!(笑)

第1位「ドン・ジョバンニ」

「魔笛」とは迷うところですが、ここ数年は「ドン・ジョバンニ」のほうを上にしています。ただ、ある日突然、逆になるかもしれませんが。

CDはあれこれと聴いてきましたが、結局はクリップス盤。シエピのドン・ジョバンニ、それを古いといいながらもステレオで聴けるのがなによりです。


なお「魔笛」は敢えてベスト5から外しました。


「ドン・ジョバンニ」との優劣をつけられるはずもないので、どちらか一つとしました。
モーツァルトのオペラを「魔笛」から入門したので外すには忍びないのですが。

第2位 13管楽器の為のセレナード「グラン・パルティータ」K361

これは不動の2位?

モーツァルトの作品の中で一番回数を聴いてきたのがこの曲で、とにかく、いつ聴いても、何度聴いても楽しい。

ただ、この曲をあげる人、特に専門家はいないようです。

たぶん曲としての出来がモーツァルトとしてはイマイチなのかも?

本当は1位にしたいのですが重量感に乏しい?よって1位ではなくて不動の2位ということで(笑)

演奏は。。。迷ったあげくコレギウム・アウレウム合奏団

第3位 弦楽三重奏の為のディベルティメント K563。

比較的若い時から、この曲に親しんできましたが、歳をとるごとにこの美しさ、純粋な音楽美が、心に染みるようになり第3位。演奏はフランス三重奏団。

第4位 ヴァイオリン・ソナタK526

クラシック音楽を聴き始めて間もなく何故かシェリングの全集を買い込みカセットに録音してクルマの中でも聴いていました。

当初はK304、K378、K379などを中心に聴いていましたが、今はK526がヴァイオリン・ソナタのベスト・ワンであり、全モーツァルトの作品のなかでもベスト5入りとなります。演奏は昔からなじんできたシェリング盤になります。

第5位 ピアノ・ソナタK331

やはりピアノソナタを外すわけにはいかないのです。曲は最初に聴いたK331。

一時はK576やK570などを好んで聴いていましたが、今は元に戻ってK331。特に第1楽章の主題と変奏曲が大好き。これを最初に聴いたのは中学時代。買ったのは25㎝盤で安かったバドゥラ・スコダの演奏。

毎日のように聴いていました。そのせいか今でも、この曲の第1楽章が鳴り出すと当時のこと、安物の電蓄の前で座って聴いていた自分を思い出します。

演奏は。。。極端に言うと誰の演奏でもいいかな?

と、言っては実もふたもないのでアリシア・デ・ラローチャのCDを取り出すことが多くなっています。

以上が私のベスト5となります。」

どうもありがとうございました。とてつもない「モーツァルティアン」がこの日本にもいらっしゃるようで、なんだか楽しくなりましたよ。

こういうご意見を頂戴すると、人それぞれに「モーツァルト・ベスト5」があっても少しも不思議ではないですね。

何しろ35歳で亡くなるまで600曲以上にも及ぶ膨大な作品群があり、ジャンルについてもオペラ、シンフォニー、ピアノソナタ、ヴィオリンソナタ、管楽器の協奏曲、歌曲まで多岐に亘っているのだから選ぶのに一苦労する。

ただし、そういう天才モーツァルトでも「根気と努力」の側面があることに気が付かせられたのがこの本の裏表紙。



図書館発の「モーツァルトのオペラ~全21作品の解説~」の裏表紙の画像だが、これで彼が作曲したオペラの歴史が一目でわかります。

力作が後半に集中しているのがよくわかるが、そこまでに至る過程でこれほど多数のオペラがあったなんてまったく意外の感に打たれた。

これらの死屍累々の「習作」があったからこそ晩年のオペラ群の傑作の花が咲いたともいえる。

まことに俗な言い方になるが「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」というわけ!(笑)

ただし、これはオペラに限らないようで、彼は生涯で600曲以上の作品を作ったが、現在よく知られているのはせいぜい100曲ぐらいで、秀作の確率は1/6程度となり打率は2割にも届かない。

あの天才と謳われるモーツァルトでさえもこれだからね~、ただし、2割のために残りの8割が役立っていることは論を待たない。

そういえば、人間の遺伝子だって90%以上は無駄な代物というか役に立っていないと何かの本で読んだことがある。しかし、それらはけっして無駄ではなくて、きっとひと握りの脚光を浴びる遺伝子の役に立っているに違いない。

この世の中には少数派と多数派の関係が蔓延している・・、たとえば金持ちとビンボー人、秀才と鈍才、美人と不美人・・等々だが、それぞれの互恵関係に微妙な思いを馳せるのもこれまた良きかな~。

このブログも「質より量」に方針を転換して、せっせと毎日更新している真っ最中だが、その根気と努力を誰か誉めてくれる人がいないかなあ~。

「好きでやってんだろ、誰が感心するか・・」、まあそう言わずに(笑)。



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「指揮のおけいこ」~読書コーナー~

2024年12月15日 | 読書コーナー

指揮者の「岩城(いわき)宏之」さん(1932~2006)といえば、N響の指揮者を中心に活躍された方だが、亡くなられてからもう18年が経つことに驚いた・・、光陰は矢のごとし。



指揮者の傍ら洒脱な「音楽エッセイ」を何本も執筆されている。このブログでも過去に「オーケストラのいじめの風景」を取り上げたことをご記憶でしょうか。

指揮者ならではの独特の見方は一読するに値すると思うので、たまたま図書館で見かけたこの本を読んでみた。



まずはネットのレヴューから。

「12冊目は名指揮者によるエッセイ。音楽家で文章もうまい人といえば山下洋輔ですがクラシック界ならこの人がピカイチです◆一日の指揮棒を振る回数を数えたり「大物指揮者に見える秘訣」を考えたり、さらには暗譜をめぐる議論から引退の時期まで「言われてみれば気になる」指揮者をめぐるトリビアが満載です◆印象的だったのは言葉をめぐる話。

どの指揮者も、母国のオーケストラを振るのが一番難しい。理由は「母国語だとリハーサルでしゃべりすぎるから」。不自由な外国語のほうが、かえって言いたいことを端的に伝えられるのだそうです。」

もう一つ。

「指揮者というお仕事紹介エッセー。オチョクリ四分の三、専門的な本音四分の一で、指揮台から落ちた話やらお菜箸を削って指揮棒を作る話など裏話から舞台上の失敗まで面白く教えてくれる。その根底には音楽への情熱がしっかりと読み取れる。

オーケストラの指揮に興味がある人向きとは思うが、昭和ヒトケタ生まれ男子が世界進出していく物語としても面白かった。昭和ヒトケタパワーは凄い。このエッセイの最終話が書かれたのが1998年。8年後、2006年に亡くなっている。晩年に書かれたものがあれば、また読んでみたい。」

続いて、ブログ主が興味を惹かれた部分を抜粋してみよう。

 大物指揮者になるための一番の近道はユダヤ人になることだ。指揮者に限らず世界的な演奏家の90%以上はユダヤ人である。どうしてあれほど音楽の才能、特に演奏の才能があるのだろう。

作曲家の場合はそれほどのパーセンテージではないかもしれないが、ヴァイオリンやチェロなどの弦楽器の大物の99%はユダヤ人だといっていだろう。

 もう一つ、世界的な大物の音楽家であるための強力な資格があるのだ。ホモセクシャルである。この割合も過半数をはるかに超える。チャイコフスキーをはじめKもBも、あの人もこの人もそうかと、うんざりするほど、偉大な男の音楽家のホモセクシャル率は大きい。

 30年ほど前、アメリカのあるオーケストラを客演した時、練習を終えて廊下を歩いていたら一枚の紙が落ちていた。アンケ―ト用紙だった。

質問は25項目あった。

「この指揮者の耳はどうか」「バトン・テクニックはどうか」「練習の時間の使い方はどうか」「たびたびゲストとして招くに値するか」「将来、常任指揮者になって欲しいか」・・、それぞれに10点までの採点をかくようになっている。アメリカのオーケストラはこうやって指揮者の勤務評定をしているのかと感心した。

最後の二つの質問が凄かった。「オーケストラメンバーのミスに追い打ちを掛ける、イヤな性質があるか」もう一つは「この指揮者はユーモアを理解する人間であるか、適当なジョークでリハーサルを円滑に行うか」

ぼくがこれまでに知っている大指揮者たちは、誰もが素晴らしいユーモアのセンスの持ち主だった。普段ニコリともしないコワーイ人でも、時にはちらっとジョークを飛ばして、硬い雰囲気をガラッと変えてしまうのだ。

というわけです。

芸術の殿堂であるはずのクラシック音楽界・・、外から見るのと内から見るのとでは様相が随分違うようで、かなり人間臭いところがありますな(笑)。



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「優雅な音」を求めて

2024年12月14日 | オーディオ談義

前々回のブログ「粗にして野だが卑ではない」は、なんと12月に入ってから最高のアクセス数でした。まったく予想外だったが、はたして、記事のどこが読者に受けたのか・・、定かではないけれど一部引用させていただいた「ウマさん」にまずは感謝です。

で、文中でとても優雅な人間にはなれないけれど「せめてオーディオだけは優雅な音を出したい」と、末尾に記載していたのをご記憶だろうか。

さっそく、有言実行といきましょうや(笑)。

で、今回は、ただひたすら「優雅」という視点に絞っての取り組みとなります。したがって、オーディオ機器についての過去記事の寸評とはまるっきり様相が違ってくるので、どうか(ブログ主を)「日和見主義」だと軽蔑しないようにねえ・・、まずは始めに慎重に予防線を張っておくとしよう(笑)。

ただし、その前に「優雅な音って何?」に言及しておかないと片手落ちというものだろう~。

で、別に定義はないと思っている、一言でいえば「優雅だなあ・・」と、リスナーが感じる音がそうだと言える。いわば、オーディオ愛好家の数だけ「優雅な音」がある。

結局、個人の主観に左右される話なので、正答はないし、誤答もない・・、そういう前提の下で「思ったまま」を率直に記してみよう。

さて、実際に(我が家の)6系統のシステムから、消去法でまず「優雅ではない音」を除去してみると、最初に該当するのが「JBL」の2ウェイシステムである。

周波数帯域の主な部分に金属のダイヤフラムを使ったホーンを使うと、何だかヒンヤリとした肌触りを感じてしまう。言い換えると、クラシック音楽への情熱に冷や水を かけるような覚醒的な音ともいえる。

そんなことなら、「お前はなぜ購入して使うんだ!」と、厳しい野次が飛んできそうだが、若気の至りというか・・、実際に使い、聴いてみないと分からないことだらけである、オーディオは・・。

というわけで、このシステムは気分転換にはときどき聴くのもいいが長く付き合う音ではない、と今回の「優雅な音」へのアプローチで思った次第~。何せ気分屋だし無法地帯だから、いつ覆るか分からないけどね~(笑)。

で、その流れで行くと、この音も「優雅」には程遠かった。



600ヘルツ以上をマルチセルラーホーンに任せているが、似たり寄ったりで言及の価値無し


そこで、ホーンを入れ替えてフルレンジ「スーパー10」で聴いてみた。



強力な赤帯マグネットに期待したんだけど、幾分「優雅」にはなったが、得心のいくものではなかった。これではどう頑張っても「優雅の域」には手が届きそうにない。ユニットのコーン紙が厚くて重たすぎる気がするが、もしかして鳴らし込みが足りないのかもしれない。

そこでアッサリ方向転換して「PL100」(英国:モニターオーディオ)を設置してみた。久しぶりの出番である。



メーカーの仕様はクロスオーバーが「2800ヘルツ」で、中高音域は「リボン」型式である。インピーダンスが4Ωで、能率が88dbだから明らかに高出力の「TRアンプ」の活用を想定した2ウェイスピ―カーである。

実はこれまで散々手こずってきて、改造しようにも全く手を付ける箇所が無いし、どうしても気に入るように鳴ってくれない曰くつきの問題児である(笑)。

今回は駆動するアンプに随分工夫した。忘れないように記録しておこう。

<中低音域(2800ヘルツ以下)>

DAC「エルガー プラス」(バランスアウトを利用して変換ケーブル使用) → プリアンプ「E80CC×2」 → パワーアンプ「TRアンプ」

<中高音域(2800ヘルツ以上)>

DAC
「エルガー プラス」(RCAアウト) → プリアンプ「12AU7×2」 → パワーアンプ「WE300Bシングル」(モノ×2台)

つまり、プリアンプ2台、パワーアンプ2台を動員したところに特徴がある。

ハラハラ ドキドキ ワクワク・・・しながら耳を澄ますと、椅子から転げ落ちんばかりに驚いた!

何という「優雅な音」なんだろう・・、さすがに英国発のスピーカーである。小口径のユニットによる音源のシャープさがメチャ利いていて醸し出される上品なハーモニーが実に美しい。

眼を瞑って聴いていると、小さな図体から出てくる音とはとても思えない、そしてスピーカーの存在を忘れていつの間にか音楽に聴き耽っている!

ユニットの低負荷、低能率をものともしない「WE300B」シングルアンプの能力全開といったところだが、アンプが良くなればなるほど本領を発揮するとは、さすがに、発売当時の定価が「50万円」だったスピーカーだけのことはありますな。

「優雅さ」だけでいけば「AXIOM80」が100点満点とすれば、95点はいくと思う。この5点の差は「音響空間に微かに漂う
余韻」の差に求められるが、これだけのレベルに達すれば言うことなし!

気紛れで、たまたま「優雅な音」を追い求めた結果、思わぬ拾い物が出現したのはありがたい限り。

オーディオ・サウンドに何を求めるか・・、ときどき思い切ってガラリと視点を変えることも必要な気がします。

ブログ主の場合は「朝令暮改」の傾向が強いので、あまり参考になりませんけどね~(笑)。



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「楽隠居」と「素隠居」の違い

2024年12月13日 | 独り言

つい先日のこと、オーディオ仲間と話していたら次のよう事が話題になった。


「人類の宿敵「ガン」だが、実際にテレビでIPS細胞を使って治癒する方法が示されており、そのうち実現すると公表されていました。医学の発達が目覚ましいのでガン患者でも諦めないで1日でも長く生きることが大切です」。

その「IPS細胞」の立役者「山中教授」だが、「ノーヴェル賞受賞時」のインタビューで、「10回のうち9回は失敗する、それでもくじけない」という趣旨のことを仰っていたのを記憶している。

「根気が大切」ということなんだろうが、一方では、9回も失敗してそれが許される環境というのも非常に大切だという気がした。


「物事の本質」というと大げさだが、それに類するものをある程度極めていくためには、本人の能力と情熱に加えて時間的、心理的なゆとりもある程度必要なのではという気がする。


これは、文化的な分野においても同じことが言えそうだ。

先日のNHK-BSで「伊能忠敬~国の要・日本地図への挑戦~」という番組をやってた。

周知のとおり、伊能忠敬(いのう ただたか)は、婿養子として入った下総の造り酒屋で財を成した後、50歳であっさり身代を後継者に譲って隠居生活に入り、その後は江戸に出て大好きな天文学に打ち込み、その知識を応用して56歳から72歳まで、ほぼ日本全国を踏破して測量したうえで画期的な日本地図を完成させた。

踏破した距離はおよそ4万キロでほぼ地球一周分。

当時(江戸時代後期)の欧米列強は未開の中国をはじめアジア諸国を次々に植民地化同然のことをしていったが、日本だけはそれを「ためらわせる」ものがあったという。その要因の一つとして当時としては画期的な日本地図があったことが挙げられると番組の中で言っていた。

来日した欧米人は日本地図の精密さに驚嘆したそうだが、それはいわば文明的に自立できる国民の証明みたいなもので、日本を畏怖させた地図の製作者として伊能忠敬の功績は実に大きい。

番組の解説者によると

「当時、浮世絵を始め世界に冠たる江戸の絢爛たる文化を担っていたのは市井の民だが、その中で大切な役割を果たしていたのが隠居だった。侍の場合は隠居料が支払われ、町民の場合は隠居するときに取り分が保証されていた。時代的に自由さを許す許容度がそのまま文化度に繋がっていた」

          


葛飾北斎しかり、歌川広重だって画業に専念できる隠居同然の身分だったし、それこそ伊能忠敬みたいな隠居が市井には溢れていて、何かにつけ、実際に手と足を動かし、口うるさく周囲に講釈を垂れていたことだろう。

毎日、きまった仕事に追われることがない、子供も成長して家族の世話をしなくていい、暇をたっぷり持て余して金儲けを考えずに好きなことに没頭できる隠居さんたち。時間的、心理的なゆとりに恵まれていたことは想像に難くない。

現代において、こういう隠居さんたちの活躍の場を提供できるアイデアがあるといいと思うが、一例として「You Tube」の活用なんかどうなんだろう・・、
もう既にやってるよという方が多数かもしれないですね。

ブログはもう時代遅れのような気がする~(笑)。

それはさておき、そういう隠居さんにも「楽(らく)隠居」「素(す)隠居」とがあるそうだ、「楽隠居」とはお金持ちの隠居のことであり、「素隠居」とはお金がない隠居を言うそうな。

たとえば広辞苑によると、「素」という言葉は「素顔」「素手」とあるように「ありのまま」という意味があり、さらに軽蔑の意味を込めて”みすぼらしい”とあって、「素寒貧」(すかんぴん)、「素浪人」などという用語例がある。

はたしてブログ主は「楽隠居」と「素隠居」のどっちなんだろう?

やはり、乏しい年金生活者なので「素隠居」なんだろうなあ!(笑)
 



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粗にして野だが卑ではない

2024年12月12日 | 独り言

一週間ほど前のブログ「優雅な暮らし方~クラシック音楽」の中の一節をまだご記憶だろうか? 

「芥川比呂志」氏のエッセイから

「優雅についてあれこれと論じるのは、どうもあまり優雅なことではないような気がする。


やさしく気品があって、しとやかで、美しいだけでは優雅とはいえない。

言葉づかい、立ち居振る舞い、生活のあらゆる面にわたって世俗の気を帯びず、前代の良い慣習や遺風をごく自然に身をつけている人でなくては、優雅な人とはいえない。すなわち優雅は、風流や伝統と切り離せない。


したがって、優雅は、人間ばなれや時代ばなれを起こし易い。優雅は薄気味悪さや滑稽と紙一重であり、鼻持ちならぬ嫌味とぴったり背中を合わせている。

イギリス人にとって優雅な狩猟とはたとえば次のようなものだ。

友人としかるべき話題(政治や宗教、とりわけ狩猟を除く)について、楽しいおしゃべりをしながら、ゆっくり歩いていく。

「今度のオリヴィエのシャイロックは少し悲劇的すぎやしないかい?」

「そう。しかし思い切って現代風にしたところがなかなか面白かったじゃないか」と、茂みから鳥が飛び立つ。それを横目で見ながら、平然と会話を続ける。(ここが大切)

「まあ、悪くはないがね」

それから素早く銃を構え、射程距離に逃れようとする寸前の鳥に向けて、引き金を引く。(この行動は一瞬のうちに行われなければならぬ。ここも大切)、再び会話をつづけながら、またゆっくりと歩き出す。

ある成果を上げるために費やした努力を、できるだけ隠し、人に感じさせぬこと。優雅はいつも涼しい顔をしていなければならぬ。」

これに対して、該当地の南スコットランド在住のウマさんからお便りがありました。

「優雅はいつも涼しい顔」…

難しいですよねえ、これ。

うちの近くを流れるニス河はサーモン釣りのメッカです。
ある時、川辺のベンチに腰掛け「優雅」にビールを呑んでいた。

遠くに釣り人が一人…
よく見ていると、キャッチ&リリースしてるんです。優雅だなあ。
そして、一匹だけ抱えてこっちに来られた。

彼の服装を見てびっくり…
腰まである長靴はわかるけど、なんとネクタイを着用しておられる。
う〜ん、唸ってしまった。
サーモンに敬意を表してるんですね。優雅だなあ…」

以上ですが、日本でいえばネクタイをして川釣りをするようなものですか~。そういう方を「テレビ」番組でさえもまだ一度も見たことがない! 

しかも、キャッチ&リリースして1匹だけ確保というのが素晴らしい。

ブログ主も青壮年の頃に海釣り、川釣りに興じたが、そういう心境には程遠かった。

貪欲に1匹でも余計に釣ってやろう・・、よって、優雅さとは程遠い人間であることがよく分かりました(笑)。

で、「優雅」の反対語は「粗野」だそうです。

「優雅」とは、行動に節度があって上品な様子を意味します。一方、「粗野」は、言動が荒々しく、下品で洗練されていない様子を意味します。

関連して、昔
粗にして野だがではない(言動が雑で粗暴であっても、決して卑しい行いや態度をとらない)」 と言った人が居ましたね・・、たしか、「石田礼助」氏(当時の国鉄総裁)だったと思う。

まあ、卑でなければ良しとさせてもらおう・・、しかしせ
めてオーディオぐらいは「優雅な音」を出したいものですねえ(笑)。


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楽しい「スピーカーのローテーション」

2024年12月11日 | オーディオ談義

周知のとおりオーディオは様々な固有の役割を持った機器の一連の流れによって構成されているが、その中で音質の変化が一番大きいとされているのはスピーカーで、巷では最終的に音声信号を音に変換することから「変換系」と言われている。

いわば急所に当たる部分なので弄るのがメチャ楽しいが、その是非となると簡単ではなく3つの見解に分かれるようだ。

 メーカーが総力を挙げて作ったスピーカーを一介の市井の徒、すなわち素人同然の人間が簡単に弄っていいのか、もっとメーカーを信頼しろ!

 メーカーだって営利企業なんだから利益が目的のはず、必ずコストに妥協して手を抜いているところがある、その盲点を改善したいだけだ!

 メーカーの製品といっても所詮は万人向けに作ったプレハブ住宅のようなものだ、自分好みに改造して何が悪い!

いわば1が圧倒的なメーカー信頼型、2が部分的な否定型、3が全否定型といえる。

もちろん、ブログ主がどれに属するかお分かりですよね(笑)。

で、そのスピーカーだが、本妻を後生大事に大切になさる方、あるいは手当たり次第に浮気するタイプと様々ですね。

我が家は後者に当たり、いつも出番を待っているスピーカーが6系統ある。それぞれに美点があってなかなか整理する気にはならず、つまり、本妻と5人の美女に取り囲まれてハーレム状態を楽しんでいるが、いつまで体力が持つことやらと、ちょっと心配(笑)。

大体、4~5日ほど楽しんでから次のスピ-カーにチェンジするわけだが、その順番となると、まったく行き当たりばったりでそのときの気分次第による~。器量を優先するか、スタイル優先か、気立て優先か・・。

で、現実論に入ると、昨日(9日)までは小振りの「JBL2ウェイ」だったが、その前はウェストミンスターを中心としたシステムだった。

       

グラマナスな図体
に少々飽きたので、引き締まったスリムなボディにシフトしたいという思惑があったのかもしれない。

そして、現在は「AXIOM80」(復刻版)へと昨日(10日)変更した。これで「アウェイ」からようやく「ホームグランド」(本妻の元)へ戻った感じ~。



さすがに、フルレンジだけあってハーモニーが自然で実に美しい・・、やっぱりいいなあと、つい胸がキュンとなってウットリ~。

やっぱり、スピーカーは情感に訴えかけるところが無いとちょっと淋しいね。

アンプは「WE300Bシングル」(モノ×2台)で決まり、「AXIOM80」専用というか、フルレンジ専用である。このアンプを周波数帯域の一部分だけ使うのはもったい限りだからね~(笑)。

何度も繰り返すようだが、「WE300B」真空管を理想的な前段管「SP〇〇」(英国エジソンマツダ)で駆動している世界で唯一のアンプである。

金額に換算すると分かりやすいかもね・・、たとえば150万円で譲ってくれと言われてもダメ、200万円なら一晩考えて結論を出そう、かな。もちろん、10万でも買わんぞという人が居ても不思議ではないけどね(笑)。

あっ、そうそう最後にプリアンプにひと工夫加えたことを記載しておこう。



お気に入りのプリアンプだが、さらにもっと良くなってもらおうと「カップリング・コンデンンサー」の「ビタミンQ」に手持ちの「マイカコンデンサー」をパラってみたところ、確実に音に艶やかさが増した気がする。

何とか少しでも現状を打破したいという意欲の持ち主にはお薦めです。

エッ、こんな格好の悪いことはしたくないですって・・、その気持ち半分くらい分かります(笑)。



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「江戸川乱歩賞」受賞作に思う

2024年12月10日 | 読書コーナー

「江戸川乱歩賞」とは・・、1954年、日本ミステリー界の始祖ともいえる江戸川乱歩が私財を投げ打ってつくった基金を運用して、日本推理作家協会により探偵小説を奨励するために制定された文学賞。

今年で創立70年を迎えており、過去に受賞した作家の一部を挙げると、

「西村京太郎」「森村誠一」「井沢元彦」「高橋克彦」「東野圭吾」「桐野夏生」「池井戸 潤」「荘田 寛」

といった、錚々たる作家を輩出している。

ちなみに、個人的に歴代の最高傑作と思うのは「写楽殺人事件」(高橋克彦)ではないかな~。今だに正体不明の謎の人物とされる浮世絵師「写楽」の人物考証と殺人事件が見事に融合した歴史ミステリーの快作だった。

そして、この賞の魅力は何といっても多額の「賞金」で随分長いこと「1000万円」だったが、近年は「500万円」に落とされている模様・・、随分と世知辛い世の中になった(笑)。

それが原因かどうかはわからないが、どうも最近の受賞作はイマイチの感が強いんだよねえ~。昔は受賞作といえば「百発百中」のように優れた作品が目白押しだった。

もちろんブログ主の読解力が衰えている可能性も十分考えられるので、以下あくまでも個人的な意見として読んで欲しい。

オーディオで本人がいくら「いい音」だと主張しても、他人が聴くと「それほどでもない」という、よく似たケースがごまんとありますからね(笑)。

で、はじめてそういう気にさせられたのが「カラマーゾフの妹」という受賞作だった。当時、「こういうのが受賞作とは乱歩賞も落ちたもんだ」とガッカリしたことだったが、これを皮切りに次から次に「こんな作品が・・」と出現してくるのだ。

たとえば、「蒼天の鳥たち」「老虎残夢」と枚挙に暇がないが、令和6年受賞の最新の「遊郭島心中譚」には本当にがっかりした。



読み進んでいくうちにワクワクさせるものがない、もう救いようがない作品だと思うが、こんな作品を7名の「審査員」(現代作家)たちが寄ってたかってよくもまあ推したものだと不思議~。

で、大いに期待して読んだだけに、その反動も大きくなる(笑)。

くそっと思いながら、過去の受賞作品をまとめて4冊借りてきて改めて検証することにした。これはオーディオで思うような音が出ないときの荒療治に等しい(笑)。



女性作家が3名を占めている! この世界でも女性の進出が目覚ましいようだが、結論からいえば、少し救われた思いがした。どれもこれも結構面白いのだ(笑)。

それぞれの感想はネットから引用。

「北緯43度のコールドケース」

「博士号を持っている警察官、沢村は、事件解決までの糸口を見つけたり、監察官調査での対応などで知性を感じさせる。しかし、どこか不器用で他の人とのやり取りや社会に対する不信感などは共感する。

終盤の展開はすべてが繋がっていって大変面白かった。古びた倉庫で見つかった少女の遺体が、事件に巻き込まれてとはいえ、あまりにも悲しく辛い。次巻の数学の女王も読んでみたい。」

「此の世の果ての殺人」

「2ヶ月後、地球に落下する隕石のために破滅が確定している世界で起きた殺人事件。それを追う小春とイサガワはどちらも名前の一部しか明かされないので性別誤認トリックかと思ったけど違いました。

人物の造形にやや極端さと掘り下げ不足を感じるのと、ポストアポカリプスの一歩手前の世界観のはずなのに、この日本でここまでイカれた状況になるかなという疑問はあるものの、総じて言えば面白かったです。史上最年少での乱歩賞受賞者とのことで、これからに期待します!」

「完盗オンサイト」

「オンサイト(=クライミング用語で、初めてのルートを一切の情報を持たずに初見で完登すること)をタイトルに掲げた通り、クライミングの話ではあるが、その対象が岩山ではなく皇居というのがユニーク。子供を置いてくる部分は酷い気がしたし、そのほかにもいくつか気になる部分はあったものの、全体的には読みやすく面白かった。」

「襲名犯」

「連続殺人犯の死刑執行後、同じ異名を現場に記した事件が発生。犯人は何を継いだのかが気になり読み進めた。過去の事件記録から主人公との接点が浮かび、時折挟まれる回想シーンでは誰が誰かを考えさせられ推測する面白さがあった。

しかし被害者の数は多く、主人公が抱える心の闇が物語全体を覆っていてどんよりと重い、乱歩賞らしいムードだ。後半オリジナル犯の足跡が明らかになると、主人公との共通点を意識させられ、さらに類友というワードが浮かんだ。模倣犯だけれど、動機はすべからく本人のものとして犯行に至った同化が興味深かった。」

結局、以上を通して「江戸川乱歩賞」受賞作品ははじめから完成された作品として読むのは不適当で、まさにプロ野球の「新人賞」クラスとして扱うべきものだと悟った。

「いまさら気付くのが遅い!」と言われそうだが(笑)

そりゃそうだよねえ、過去の蓄積と人生経験に乏しい新人が最初から「MVP」並みの力を発揮できるはずがないもの。

で、過去の受賞者から推測すると売れっ子作家に成長するのは1/10くらいで、プロ野球のドラフト上位選手がその後に活躍するのと同じくらいの確率でしょうか。

「筆力=書く才能」も「運動神経」と同様にやはり難しい世界だと思いました。

その意味で、まったくアイデアなどの発想の枯渇が感じられない「東野圭吾」さんは敬服に値しますね~。



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俳句が変えた人生~ウマさん便り~

2024年12月09日 | ウマさん便り

こちら(南スコットランド)のお葬式は教会で執り行われるが、その昔、驚いたことがあった。

教会に入った途端、びっくりや! 
なんと大音量でロックが流れているのよ。なんで?

葬儀で、故人の好きな音楽を流すことは珍しくないと知った。
僕がメルヘン爺ちゃんと呼んでいたヒュー爺さんは、星を観察しながらモーツァルトのソナタを聴く人だったので、葬儀では、ピアニストがずっとモーツァルトのピアノソナタを演奏していた。

それと葬儀では、必ずB5サイズほどのチラシが配られる。
故人の写真やプロフィールなどに加え、故人作の俳句が紹介されていることも珍しくない。

Haiku は、もう日本だけのものではない。
俳句の授業がある中学校があるし、毎年、師走に入ると、スーパーや本屋のカレンダーコーナーに、俳句カレンダーが並ぶ。まず、草書で書かれた俳句(もちろん縦書き)…それの読み方(ローマ字)…その意味…そして、七五調で英語に訳したもの…

ところで…
地元ダンフリースの市営ジムにはちょくちょく行く。ま、たまには筋トレもするけど、いちばんの楽しみはサウナ。銭湯大好き人間が、銭湯のない国で、せめて銭湯代わりに行くのが、ジムのサウナというわけやね。

いつだったかなあ…サウナで派手な花柄ビキニを着た婆さんと出逢った。
とても立派な体格に花柄ビキニ…いいじゃない!自分の体型を気にせず、派手な花柄ビキニを着用しておられる。

こんな方って、裏おもてのない方じゃないか?と、とても好印象を抱いたね。


ついでに言うと…

人間ってさあ、体形と年齢を気にするのが必要な場合と、それらを忘れていい場合があるように思う。

それらを気にして節制したり体力作りに励むのはいいことだけど、それらを全然気にすることなくやりたいことをやる…これもいいことだと思う。例えば…


僕の大好きな画家、堀文子さん…
100歳まで作品作りに励んだ彼女、ご自分の年齢を気にしたことないんじゃないかなあ。
69歳でイタリアへ移住、トスカーナ地方にアトリエを構える…(イタリア語は出来ない…)
77歳の時、アマゾン旅行、マヤ遺跡、インカ遺跡など探訪…
82歳の時、ヒマラヤ登山、念願だった幻のブルーポピーを探しに行く…(のちに作品となる)
どお? 年齢を気にしてたら、こんな行動ちょっと無理じゃない?

で、サウナの婆さん、自分の年齢と体型を顧みず、派手な花柄ビキニ…立派だと思うなあ。

挨拶を交わしてすぐ、その婆さん、僕に…「あなた、日本人?」
ええ、そうですと答えると、エライコッチャ、あんた、とんでもないことが起こったのよ…
いや、驚いた。

そのビキニの婆さん、僕が日本人だとわかると、もう、ニコニコ…

なんと、俳句を暗唱しだした。しかも日本語や!

「フルイケヤ〜…カワズ…トビコム…ミズノオト〜…」

もう、びっくり! 呆気にとられてしもた…

そして、僕は、彼女が語る「俳句が変えた人生」に惹き込まれてしまった…

学生時代は、バイロンやジョン・キーツ、ボードレールなどの詩に親しんだとおっしゃる。
だけど、エドガー・アランポーの詩にも惹かれたと言うので、あれ?と思った。
「エドガー・アランポーって、詩人じゃなく推理小説家じゃないんですか? ほら、モルグ街の殺人…」
「そう、でも、彼は素晴らしい詩人でもあるのよ」
「エドガー・アランポーが詩人? 初耳や。昔、日本の推理小説家が、自分のペンネームをエドガワ・ランポにしましたよ」

俳句を知ったのは、今から50年以上前、造船所に勤めていた御主人が事故で亡くなった頃だという。

落ち込んでいた彼女に、友人がくれた一冊の本が「俳句入門」だった。

そして、その本で、芭蕉を知ったことが大きな転機になったとおっしゃる。言葉の戯れごとだった俳句を芸術の域まで高めたのが芭蕉だった。芭蕉なくして俳句はない。

こちらの俳句ファンは、芭蕉をニックネームのバナナと呼んでいる。昔、僕の祖父が果物のバナナをバショウと言ってたのを思い出す。


ビキニ婆さんは言う…
その「俳句入門」を読んでるうちに、シンプルな表現の中に様々な感情が込められているのが分かるようになった。
そして次第に俳句に惹かれるようになり、とうとう自分でも俳句を詠むようになった。
すると、過去を振り返ることがなくなり、悲しみとサヨナラすることが出来たとおっしゃる。そして常に前を向くようになったとも…
俳句なくして今の自分はないとまでおっしゃる。

僕の友人の数学者で芭蕉の研究家として知られるロナルド・ターンブルを紹介してあげたらすごく喜んでいた。
後日、彼が芭蕉のことを書き、僕の書が掲載されたトレッキング雑誌を彼女に進呈することになる。

ほかに人がいなかったせいか、サウナで汗を拭きふき、随分話し込んじゃった。
別れ際、彼女の名前を尋ねた…

その次に彼女に会ったとき、彼女の名前を筆で和紙に書いたのをプレゼントした…
彼女の名前ティナのティを「茶」とし、古池のある奈良の「奈」を加えて「茶奈 (ティナ)」…
緑茶が大好きだと言うティナ、もう飛び上がらんばかりに喜んでくれた。そしてハグハグ、ハグ…ちょっときついハグだったけど…

PS: 僕の葬式のチラシに載せる俳句はもう決めてまっせ…

「…まあ、しゃーない、三途の川のお出迎え…」(季語なし)… 上田敏子さんや、これ英語に訳してくれへん?

僕には俳句を詠む素養はないなあ。学生時代、友人のK君と車で北海道へ行った。

札幌から旭川を過ぎ、最北端の街、稚内(わっかない)を目指した。途中、サロベツ
原野で、雲にかすむ利尻島の利尻富士を望んで詠んだ一句…

「利尻富士…見えるかどうか…わっかない…」…K君、ドテッ!…

おあとがよろしいようで…。

最後に、ブログ主から~、

俳句じゃないけれど、文豪「スタンダール」(フランス)の墓碑銘は「書いた、愛した、生きた」と簡潔なものですが、もしかしてウマさんにピッタリじゃないかなあ。

ちなみに、ブログ主では「聴いた、読んだ、生きた」でしょうか。

読者の皆様も3語で己の人生を表すとしたらどうなんでしょう。

まさか「食べた、飲んだ、生きた」じゃないとは思うけど~(笑)。



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我が家の「オーディオ三原則」と未知との遭遇

2024年12月08日 | オーディオ談義

口幅ったい言い方かもしれないが、この50年ほどオーディオの栄枯盛衰をつぶさに見てきた愛好家の一人である。

当時、オーディオ御三家と言われて時代を謳歌した「山水」「トリオ」「パイオニア」は統合されたり廃業したりで今やもう影も形もない。

その中で特筆すべきと思うのは真空管の時代が終わらなかったことかな。1980年代初頭のCDの登場によってデジタル独特の無味乾燥で蒸留水のような音質に「潤い」を与える役割があったことも無視できない。

TRアンプが登場した時に、残留ノイズなどの物理的な数値がはるかに真空管アンプを凌駕したために「もう真空管の時代は終わった」と言われたものだった。

ところがどっこい、現在でもしぶとく生き残っており、むしろオークション市場では「TRアンプ」よりも人気が高いのだからむべなるかな~。

このことは「物理的な数値」は参考にはなるけれども、決め手にはならず、人間の情感に深く訴えかけてくる「サウンド」の本質はいまだに見極め難いことを物語っている。

そこでの話だが、何と言っても趣味の世界である。オーディオ愛好家の数だけ好き嫌いがあったり理屈があったりで、どれが正解かは容易に結論が出るものではない。

そういう中で自分なりの「オーディオ三原則」を立てている。つまり、これに一つでも合致しない人とはなるべく同じ土俵に上らないことにしようというわけ。もちろん良い悪いとは別の話~。

その三原則とは、

1 クラシック音楽愛好家

2 真空管アンプ愛好家

3 AXIOM80愛好家(使用中とは限らない)

なぜ、こういう誓いを立てたかといえば、その昔この拙ブログにも他者から盛大な攻撃を受けた事があり、難癖ともいうべき内容だったものの、年甲斐もなく応戦したわけだが、後になって考えてみると「同じ土俵に上る」のがそもそも間違っていたと深く反省したことだった(笑)。

最初からボタンを掛け違っているのに話が合うはずがない・・、というわけでこの「三原則」を戒めとして作った次第。

これら3つの条件の中で、特に重視しているのが「真空管アンプ愛好家」で、おそらく会った当初から「100年の知己」みたいな感じを抱くのではないかなあ~(笑)。

その真空管について、昨日(7日)、北国の真空管博士と会話を交わしたので、ごく一部をご紹介しよう。

「英国の名門ブランド「エジソン・マツダ」が製造した送信管の中で出力管に使えそうなのを見つけましたよ。年明けにはスペインから送ってくる予定です。どうもNATOに納めた軍事用の球みたいです」

「え~っ、まだ発掘されていない古典管があるんですか?」

「ハイ、沢山ありますよ。特に送信管の中で5極管を3極管接続にするとオーディオ用に使える球を発掘するのが凄く楽しいです。まるで未知との遭遇です。それらはまだ有名ではないだけにお値段も安いのが特徴です。アメリカと違ってヨーロッパの送信管はオーディオ用に使えるのが沢山あります。」

「アンプの組み立てが終わったらぜひ試聴させてください。未知との遭遇にワクワクします。ヨーロッパはまるで古典管の宝庫みたいなところですね。」

大好きな真空管の話は尽きないです・・、で、最近よく聴いているのがこのシステム。



ウェストミンスターの雄大な低音もいいけれど・・、しばらく経つとアッサリした低音を聴きたくなる(笑)。

「JBL」コンビのsimpleな2ウェイである。「D123」(口径30cm)を700ヘルツあたりでハイカット、「175ドライバー」を1000ヘルツあたりでローカットしている。

ポイントは「175ドライバー」を駆動する真空管アンプで、2台のうちどちらがいいのか興味津々で実験を重ねた。

   

左側が出力管「371A」アンプ、右側が出力管「LS7」アンプ。

まったくどちらも甲乙つけ難しの感じだけど、強いて言えば「371A」が清純そのもの可憐な乙女タイプ、そして「LS7」が少し厚化粧の妖艶な年増タイプかな。希少な名管ぞろいでいえば断然「LS7」だけどね。

結局、最終的には楚々とした「371A」アンプに軍配を上げました。JBLの中では一番らしくない「175」だけど、飽きが来そうにないのが第一の理由です。

この歳で「清純さ」を求めるなんておかしいかな~(笑)。



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優雅な暮らし方=クラシック音楽

2024年12月07日 | 読書コーナー

日本経済新聞の「土曜・日曜」版は、日頃のお堅い「経済記事」のほかに読書や音楽などの誌面が充実していてなかなか楽しい。

こういう記事があった。



「文豪 芥川龍之介のご子息「芥川比呂志」さんのエッセイは話題に滋味があるだけでなく、上質なユーモアとウィットに富んでおり、そして文章に魅力がある」とくれば、放っておくわけにはいかない。



さっそく2冊のエッセイを借りてきてここ2日ばかり読みふけった。

タイトルは「憶えきれないせりふ」「肩の凝らないせりふ」

読後感想としては、期待したほどではなかったが「流石!」と頷けるものだった。

どういうエッセイか試しに小編をご紹介するので気が向いた方はご一読を。

タイトルは「優雅散録」。(「憶えきれないせりふ」255頁)

「優雅についてあれこれと論じるのは、どうもあまり優雅なことではないような気がする。

やさしく気品があって、しとやかで、美しいだけでは優雅とはいえない。

言葉づかい、立ち居振る舞い、生活のあらゆる面にわたって世俗の気を帯びず、前代の良い慣習や遺風をごく自然に身をつけている人でなくては、優雅な人とはいえない。すなわち優雅は、風流や伝統と切り離せない。


したがって、優雅は、人間ばなれや時代ばなれを起こし易い。優雅は薄気味悪さや滑稽と紙一重であり、鼻持ちならぬ嫌味とぴったり背中を合わせている。

イギリス人にとって優雅な狩猟とはたとえば次のようなものだ。

友人としかるべき話題(政治や宗教、とりわけ狩猟を除く)について、楽しいおしゃべりをしながら、ゆっくり歩いていく。

「今度のオリヴィエのシャイロックは少し悲劇的すぎやしないかい?」

「そう。しかし思い切って現代風にしたところがなかなか面白かったじゃないか」と、茂みから鳥が飛び立つ。それを横目で見ながら、平然と会話を続ける。(ここが大切)

「まあ、悪くはないがね」

それから素早く銃を構え、射程距離に逃れようとする寸前の鳥に向けて、引き金を引く。(この行動は一瞬のうちに行われなければならぬ。ここも大切)、再び会話をつづけながら、またゆっくりと歩き出す。

ある成果を上げるために費やした努力を、できるだけ隠し、人に感じさせぬこと。優雅はいつも涼しい顔をしていなければならぬ。

~以下、省略。

が~んと頭を殴られた感じがした。

そういうイギリス人がつくったスピーカー「AXIOM80」・・、たしかに「優雅の極み」ともいうべき音を出してくれるのだが、溺愛している自分はといえば「優雅」とは程遠く、あまりに落差が激しすぎる・・(笑)。

涼しい顔どころか、ギラギラした一連の「オーディオ闘争録」がそれを物語っている。

とはいえ、あからさまに書かないと、とうてい読者にはわかってもらえそうもないしね~。どういう表現が適切でベターなのか、このエッセイを読んでちょっぴり考えさせられました。

とはいえ・・、文中にあるように

優雅は、人間ばなれや時代ばなれを起こし易い。優雅は薄気味悪さや滑稽と紙一重であり、鼻持ちならぬ嫌味とぴったり背中を合わせている。

現代は「SNS」に象徴されるように「質よりも量」が重視され「できるだけ早く広範に」が売り物になっている、それに出世するためにはアピール力も必要だ・・、こういう時代には優雅な言動はますます縁遠くなるばかりで、第一「かったるい」よね(笑)。

とはいえ、視点を変えて、老いも若きも、そしてお金持ちや貧乏人の区別なくクラシック音楽を聴くことは「優雅な暮らし方」の象徴ではないですかね~、そう思いませんか?(笑)。



※ 芥川比呂志さんは1981年に61歳で死亡(肺結核)。「劇団四季」の創設者で演出家兼俳優。「ハムレット」の名演技は今でも語り草になっているとのこと。



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「モーツァルト天才説」を考える

2024年12月06日 | 音楽談義

あるとき「テレビ番組」で「学校で教えてくれない音楽の知られざる秘密」というタイトルで特集を組んでいた。

一般の人にはちょっと敷居が高いとされるクラシック音楽を身近に分かりやすく解説してもっと親しんでもらおうという目論みで、解説はヴァイオリニストの「葉加瀬太郎」氏。

冒頭に「すべての芸術は音楽の状態に憧れる」(イギリスの文学者)という言葉が紹介された。

その意味とは、たとえば同じ芸術の範疇にある文学の場合はどうしてもその時代の道徳とか社会のルールに制約を受けてしまう、一例をあげると一夫多妻制の国と一夫一妻制の国とでは、複数の女性を愛したときの文章表現がどうしても変わってしまう。

その点、音楽は音符の組み合わせによって調べを作るだけなので、言語の違いなどを含めて何ら制約を受けることなくあらゆる国境を乗り越えて人の心に沁みこみ親しまれるという趣旨だった。

さらに葉加瀬氏が「モーツァルトは天才です。次から次に楽想が浮かんで音符を書くのが追いつかないほどで彼の楽譜に接するたびに天才と対面している思いがします。」と言っていた。

これまで「モーツァルト天才説」は耳にタコができるほど聞かされてきたが、はたしてほんとうの意味で天才だったのだろうか?

モーツァルトのファンの一人として大いに興味があるところだが、格好の著作がある。

以下要約すると、

「ご存知のとおり、人間一人ひとりは生まれながらにして風貌も違えば五感すべての感受性も違うし、運動能力にも天地の違いがある。 

そして、その差が遺伝子の相違に起因することは疑いがない。さらに人間はこの遺伝子に加えて生まれ育った環境と経験によっても変容を遂げていく。そうすると、一人の人間の人生行路に占める遺伝子の働きの割合は”どのくらい”と考えたらいいのだろうか。 

本書ではこの興味深いテーマを天才の代名詞ともいうべきモーツァルトを題材にして解明を試みた。                           

自然科学の実験結果のようにスパッとした解答が出ないのはもちろんだが、脳科学専攻の大学教授の間でも説は分かれる。

「知能指数IQの60%くらいは遺伝に依存する」との説。「脳の神経細胞同士をつなげる神経線維の増やし方にかかっているので、脳の使い方、育て方によって決まる」との説などいろいろある。

集約すると「およそ60%の高い比率で遺伝子の影響を受けるとしても残り40%の活かし方で人生は千変万化する」とのこと。

モーツァルト級の楽才の遺伝子は極めて稀だが、人類史上数百人に宿っていたと考えられ、これらの人たちが第二のモーツァルトになれなかったのは、生まれた時代、受けた教育も含めて育った環境の違いによるとのこと。

この育った環境に注目して
「臨界期」
という興味深い言葉が本書の52頁に登場する。

これは、一定の年齢以下で経験させなければ以後いかなる努力をなそうとも身に付かない能力、技術というものがあり、物事を超一流のレベルで修得していく過程に、「年齢」という厳しい制限が大きく立ちはだかっていることを指している。

顕著な一例として、ヨーロッパ言語の修得の際、日本人には難解とされるLとRの発音、および聴き取りの技術は生後八~九ヶ月が最適期であり、マルチリンガルの時期は八歳前後というのが定説で、0歳から八歳までの時期が才能開発のための「臨界期」というわけである。

もちろん、音楽の才能もその例に漏れない。

ここでモーツァルトの登場である。
幼児期から作曲の才能に秀で、5歳のときにピアノのための小曲を、八歳のときに最初の交響曲を、十一歳のときにオペラを書いたという音楽史上稀に見る早熟の天才である。

モーツァルトは産湯に漬かったときから父親と姉の奏でる音楽を耳にしながら育ち、三歳のときから名教師である父親から音楽理論と実技の双方を徹底的に叩き込まれている。

この父親(レオポルド)は当時としては画期的な「ヴァイオリン基本教程試論」を書いたほどの名教育者であり、「作曲するときはできるだけ音符の数を少なく」と(モーツァルトを)鍛え上げたのは有名な話。

こうしてモーツァルトは「臨界期」の条件を完璧に満たしたモデルのような存在であり、この父親の教育をはじめとした周囲の環境があってこそはじめて出来上がった天才といえる。

したがって、モーツァルトは高度の作曲能力を「身につけた」のであって、「持って生まれてきた」わけでは決してない。群百の音楽家に比して百倍も千倍も努力し、その努力を「つらい」とか「もういやだ」と思わなかっただけの話。

そこで結局、モーツァルトに当てはまる「天才の秘密」とは、育った環境に恵まれていたことに加えて、「好きでたまらない」ためにどんなに困難な努力が伴ってもそれを苦労と感じない「類稀なる学習能力」という生まれつきの遺伝子を持っていた。

というのが本書の結論だった。


「好きでたまらない」ことに伴う苦労を楽しみに換える能力が天才の条件のひとつとすれば、かなりの人が臨界期の環境に恵まれてさえいれば天才となる可能性を秘めているといえるような気がする。天才とは凡人にとって意外と身近な存在であり、もしかすると紙一重の存在なのかもしれないですね。

というわけで、「天才」という言葉は「天賦の才」という意味であって、人工的に手を加えられた才能ではないので、巷間「モーツァルト天才」説を聞くたびにいつも違和感を覚えてしまう。

ただし、世の中には幼少の頃天才と謳われても、成人になると凡人になってしまう例がごまんとある。

したがって「類稀なる学習能力を極めながら高みに登っていくことこそ天才の証しだ」と、反論される方がいるかもしれない。


皆さまはどちらに与(くみ)しますか?(笑)



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読者からの反響~運転免許証の更新~

2024年12月05日 | 独り言

先日のブログ「運転免許証の更新」は比較的身近な話題とあって、読者の方々からいろんなメールをいただきました。そのうち2件ほど紹介させていただきます。匿名ということで、無断掲載お許しください。

まずは、「I」さんから~。

「運転免許の認知症検査、憂鬱ですよね。拙ブログ、今年の3月9日の「認知症検査受けました」から、一部引用します。

『検査の内容は、示された16枚の絵が何の絵だったのかを答える

「記銘力の検査」配点80点 と、今年は何年ですか?等、五つの質問による

「現実見当識の検査」配点20点 というものです。

で、合格ラインは36点です。これはサービスラインかな?(笑)

「現実見当識の検査」が20点取れない人は、相当ヤバイ人なので、

まず、この20点はゲットできるものとします。

すると、実質的には、合格ラインまで、残りは16点です。

「記銘力の検査」は、16枚の絵のうち、ノーヒントで回答できると1枚5点、4枚正答で20点です。

ヒント付きで回答できると1枚2.5点、8枚正答すれば20点です。

これで40点。合格です。』

以上ですが、やっぱり憂鬱ですよね。私も3年後が憂鬱です。

〇〇さん、覚え方を書いておられましたね。

この「ストーリー」で覚えるのは大変じゃないですか?

参考までに、私の記憶法を書かせていただきます。

ヒントの分類です。

似たものを集めて4つに分類します。「似たもの」は、自分が覚えやすい分類でいいと思います。

私は、こう記憶しました。

Aグループ「戦いの武器」「楽器」「乗り物」「電化製品」

Bグループ「動物」「鳥」「昆虫」「花」

Cグループ「文房具」「大供道具」「家具」「台所用品」

Dグループ「体の一部」「衣類」「果物」「野菜」

と分類しました。

この16の方が覚えやすいです。実質4つの分類を覚えればいい感じです。

あとは、試験に出る、それぞれ四つ「もの」を暗唱して頭に入れておきます。

試験では、結構時間をかけて図を見せてくれますので、当日の図(もの)を暗唱していきます。

で、「書いてください!」 となったら、四つの分類(16種類)順に書いていきます。出てこなかったらぬかして、最後まで行ったら、また、頭からやります。

四つ正解で合格です。ゴチャゴチャして判りにくいですね。

2~3日あれば、使えそうな方法ですので、ストーリー式がうまくいかない場合は、お試しください。

私は、これで、100点でした。これが書きたい訳ではありません(笑)。

アハハ・・、アドバイスありがとうございます。たしかに、これが正攻法ではないかと思います。ただし、私はストーリー方式で4パターン覚えてしまいましたのでこれで行きましょう。

次いで、千葉の「M」さんからのメールをご紹介、

「高齢者の免許更新は昨年行いました。

絵を記憶する問題はいきなりですと自信はなかったのですが、ホームページに4つのパターンが公開されていたので、4パターン×16、64個を全て、受験時代の暗記術?を駆使して覚えていきました(笑)

高得点の必要はなく、4個くらいの正解で問題はないのですが覚えておけば気分的に楽でしたから。

手足を使い、頭も使う運転はボケ防止には有効かと思います

特に私の場合は6MTのロードスターなのでアクセルとブレーキの踏み間違えはないのです(^_-)-☆

音楽の件も書き添えておきます

ベートーヴェンのピアノ・ソナタというとやはり28番以降の後期の作品となり特に作品111は最高峰なのですが(バックハウス、アラウ、それに初めて聴いたバレンボイムのEMI盤)、どうも最近は歳のせいか手強すぎる感が強くなり作品31の第16番、18番などを取り出すことが多くなりました。もしかするとピアノ・ソナタより弦楽四重奏曲のほうを好む私の嗜好からくることかもしれません。」

「6MTのロードスター!」とは、大いに拘りを感じます。おそらく免許証の返納はずっと先のことでしょう(笑)。

この画像はネットからの引用です。



それから、手足を自由自在に使い、交通の流れを先読みして常に注意力を怠らない「運転」は、かなり「神経=頭」を使うのかもしれません。お説のとおりです。

つまり運転はボケ防止になる・・、近所の例で免許証を返納した老人たちが一様に元気が無くなるのもその辺にあるのかもしれません。

というわけで、私も返納はギリギリまで粘ろうかな~(笑)。

それから、ベートーベンの晩年の作品について「手強すぎる」は私も同感です。

実は、近年、「You Tube」で気楽に「エンヤ」サウンドを聴き流していることが多いのが実状です。

ン、音の追及は・・、適当に「表向きの顔」と「裏向きの顔」とを使い分けています、ここだけの話ですよ(笑)。



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「幹」と「枝葉」を区分する考え方の是非

2024年12月04日 | オーディオ談義

ここ3か月余りのややエキセントリックなオーディオ騒動で何となく得心したことがあった。

それは「幹」の部分と「枝葉」の部分の区分を峻別すること。

ちょっと手を広げ過ぎた感がある我が家のオーディオだけに通用する話かもしれないが・・。

どういうことかというと、「幹」の部分は根源的なことなので大いに拘る、その一方「枝葉」の部分は「枝葉末節」という言葉があるように大勢に影響がないのでそれほど拘わらないでいい・・、言い換えると、「枝葉」の部分には手間もお金もあまりかけないでおこう、「ま、いっか」と妥協する考え方だ(笑)。

具体的には我が家のエース「AXIOM80」に関連する事柄が「幹」に当たり、それ以外のスピーカーに関することは「枝葉」に過ぎないという考え方になる。

そうすると、何だか気持ちがスッキリして迷いが無くなった気がする~。

実例を挙げてみよう。



どんなに気に入った音が出ていようと、脳はマンネリを嫌う。

久しぶりに浮気の虫が沸き起こったので(笑)、「AXIOM80」から画像のようなシステムを構築してみた。

周波数の帯域区分は、

低音域「~200ヘルツ」まではウェストミンスターが担当

中音域「600ヘルツ~」はコーラルのドライバー+マルチセルラーウッドホーン

高音域「1万ヘルツ~」はJBL「075ツィーター」

実際に聴いてみると、なかなかの音で大いに気に入りました。AXIOM80と同等の良さがありますな(笑)。

欲を言えば、コーラルのドライバーの帯域を600ヘルツから300ヘルツあたりまで下げたいところだが、データ上でのクロスオーヴァーは「500ヘルツ」となっているのでそれ以下はちょっと無理かな~。

で、オークションを覗いてみると、タイミングよく100ヘルツまで下げられるドライバーが見つかった。



「YLアコースティック」の「551ドライバー」である。再生帯域は「100~6000ヘルツ」とあり、まさにピッタリ!

100ヘルツまで下げられるドライバーなんて極めて珍しいのではなかろうか。たとえば、JBLの2インチ・ドライバー「375」でさえ、500ヘルツですからね。

欲しいなあ~(笑)。

開始価格は「1円スタート」だから、あわよくばビンボー人にもチャンスが巡ってくるかもしれないと「捕らぬ狸の皮算用」~。

しかし、みるみるお値段(入札価格)が上がってすぐに10万円以上に跳ね上がったので早々に諦めた。所詮は「幹」ではなくて「枝葉の部分」だからね~(笑)。

結局、最終落札価格は「21万円」だった。

深入りしなくて正解といきたいところだが、はたしてそうかな・・、結果は神のみぞ知る~(笑)。

まあ、どんなにドライバーがいい音を出してくれようと、ホーンからは「80」のように水も滴るようなヴァイオリンの音色はとうてい無理だからね、と自分を慰めておくとしよう。

ただし、やっぱりオーディオは甘くないようで、この「幹と枝葉」理論はまったくアンプには通用しないのである。

たとえば・・、

今回のシステムに使ったアンプは低音域が「TRアンプ」だが、600ヘルツ以上は真空管アンプ2台を使った。

まずは、コーラルのドライバーには「171A」シングルアンプを。



前段管は「12AX7WA」(英国:BRIMAR)、出力管「371A」(米国:カニンガム)、整流管「80」(米国:カニンガム)という構成。

そして、ツィーターの「075」(JBL)を鳴らすのはこのアンプ。



前段管は「AC/HL」(英国:エジソンマツダ)、出力管「LS7」(英国:GEC)、整流管「OK-X 213」(米国:メッシュプレート)という陣容だ。

この二台のアンプは、低音域はやや物足りないけど、中高音域に限っては我が家のエース級の「WE300B」シングルや「PP5/400」シングルを軽く凌駕するのである。

「110db」前後の能率の高いドライバーには質のいい小出力の真空管アンプがベストという我が家の経験則が見事に当てはまった。

つまり、小出力の真空管アンプは総合力では劣るけど部分的には上回るので、絶対に「枝葉」という取り扱いは出来ないというわけですね。

しかも比較的お値段が安いのにこの奮闘ぶり・・、ビンボー人の悲哀を味わい尽くしているブログ主には大いに肩入れしたくなるのでありますわいなあ(笑)。



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人生に必要なすべてをミステリーに学ぶ

2024年12月03日 | 読書コーナー

小さい頃からなぜかミステリーが大好きで、江戸川乱歩やコナン・ドイルにはじまって、名作「Yの悲劇」で有名なエラリー・クィーン、あるいは推理作家の登竜門といわれる江戸川乱歩賞受賞作品まで内外の話題作はほとんど読んでいるつもり。

我が読書の原点になるわけだが、もちろん謎解きの面白さに加えて雑学的にもタメになることが多いのも特徴だ。


で、偶然読む機会があって面白いと思ったのが次の本。



  著者は馬場啓一氏。この中の「古今東西”音のエチケット”」が特に印象に残ったので紹介しよう。

さて「マフィアに”おなら”」とかけて何と解く?

ご承知かと思うが欧米では身体から発する音は全てエチケット違反である。おならに限らず、ゲップもダメ、お腹が鳴る音もだめ、ものを飲み込む音でさえもアウト。

これらを我慢するのは日本人にとっては結構苦労するものだが、なにしろ生活上のルールだから彼らとお付き合いをする以上従わなければしようがない。

当然スープを飲む音もダメでバリバリとかバシャバシャと噛む音も絶対ダメなのである。欧米人には民族的歴史や経験の違いがあるのだろうが、彼らは固いフランスパンだって音もなく食べてしまう。

深田祐介氏のエッセイに部下にラーメンを音を立てて食べろと命令するのがある。ところがこの部下が英国人であったから、この命令がとてつもなく大きな意味を持ってくる。

取り澄ました紳士の代名詞である英国紳士に、音を立ててラーメンを食べさせようというのである。さあ、どうなる?

結果は英国人の負けで、彼はどうしてもズルズルと音を立てて食することが出来なかったのである。もちろん、英国人だってラーメンをズルズル食べることは可能である。

しかし、それは英国人である誇りとメンツを失うに等しい、というのがその部下の本音だったのであろう。彼の歯と口には音を立ててものを食するというデータがインプットされておらず、それを行うには民族としての誇りを失う必要があったのである。こうして「エチケット=マナー」には意外と深い意味が込められているのだ。

冗談でよくいわれるのは、もし日本が太平洋戦争に勝っていたら、食後に歯を楊枝でシーハーする作法を世界中の人々が学ばねばならなかっただろうという話で、この逸話はマナーというものには絶対的な基準というものがなく相対的な存在であることを示している。

戦争に強いアングロ・サクソン系のマナーが、幸か不幸か世界の一般的常識となってしまったのでやむなく我々東洋人もこれに右を倣えしなくてはならないのだ。

さて随分と寄り道をしたが「マフィアに”おなら”」への解答である。

リチャード・コンドンの書いた「プリッツイズ・ファミリー」でいつでも好きなときに低音から高音まで自由自在に音を発する”おなら”の名人が登場し、マフィア・ファミリーの余興の人気者になる。

西洋人にとって大切なルールを平気で破る芸をあえて賞賛することで治外法権といえば大げさだが”ムラ”的な存在であるマフィアと”おなら”とが、彼らの中で一本ちゃんとつながっているのが分る。

したがって「マフィアに”おなら”」とは、「ファミリー独自のルール=マナーでお互いに結束を確認し合っている」と解く

これを敷衍すると、よく洋画などで登場人物がヒックをしたりゲップをしているシーンを時折見かけるが、あれはその人物がルールに従わない人間であることを暗示しており、またその場に相手がいる場合にはその人物を軽んじていることを示唆していると受け取れる。

で、そもそも論だが「なぜ身体から発する音はタブーなのか?」

久しぶりに「チャットGPT」の出番です。

身体から発する音がタブーとされる理由は、文化的、社会的な要因が大きく影響しています。具体的には以下の点が考えられます。

1 社会的なマナーと礼儀: 多くの文化において、身体から発する音(例えば、げっぷ、音を立てて食べる、排泄音など)は、公共の場で不快感を与えるとされています。これは、周囲に不快感や不快を与えることを避けるため、個人の礼儀や社会的なマナーとして重視されているからです。

2 他者への配慮: 身体から出る音(特に食事中や会話中)には他者への配慮が求められます。音が大きい、または不快な場合、他の人々に迷惑をかけることになるため、そのような行為を避けることが推奨されるのです。例えば、げっぷやおならなどは、周囲の人々に対して不快感を与えかねないため、できるだけ避けるべきだとされます。

3 「自然なもの」としての捉え方: 身体から出る音は自然な現象であるにもかかわらず、それを公然と聞かせることは、不自然であるとされることがあります。これには、社会的なルールや常識が影響しており、「静かにするべき」という価値観が根底にあるといえます。

 恥の文化: 日本をはじめとする多くの文化では、他人の前で恥をかかないようにすることが重要視されています。身体の音もその一環として、他人に聞かれることが恥ずかしいと考えられることが多いです。特に、プライベートな部分に関わる音(例えば、おならやげっぷ)は、その発生が恥ずかしいとされる傾向があります。

5 清潔さと衛生意識: 排泄音やげっぷなどが公共の場でタブー視されることの一因として、清潔さや衛生に対する意識もあります。身体から発する音が「不衛生」や「不快」と結びつけられ、タブーとされることがあります。

以上のように、身体から発する音がタブーとされる背景には、社会的な規範、他者への配慮、文化的な価値観が大きく影響しています。

ということでした。

話は変わるけど、我が家の近くに「観光名所」として「別府湯煙展望台」があり、バス停終点から徒歩(10分程度)で歩いてくる欧米人がしょっちゅう自宅の前を通っていく。



で、感心なことにきちんと「右側通行」を守っている人たちが大半である、その一方日本人を含めて東南アジア風の人たちとなると「てんでんばらばら」で左側通行もかなり見受ける。

おそらく、欧米人は日頃から「左側通行時の交通事故の責任割合」などに配慮している可能性が高い。

意識の高さ・・、こりゃやっぱり戦争に負けるはずだわいなあ(笑)。


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運転免許証の更新~塗炭の苦しみ~

2024年12月02日 | 独り言

来年は3年おきの運転免許証更新の年に当たる、そしてブログ主の誕生日は3月7日。(奇しくも3と7は大好きな素数です!)

ということは、6か月前の10月に「運転免許証の更新について」という警察からの葉書が舞い込むんですよねえ。

3年が経つのは実に早い、そして気分的に重くなるのも前回と同様・・。

そう、75歳以上は免許更新に当たって「認知症テスト」があるんです!(笑)

いちばん苦手なのが、何の脈絡もない絵柄を16枚見せられてその後にどのくらい覚えているか「書き出してみろ」というやつ。

ただでさえ記憶力が衰えているのにそんな無茶な~(笑)。

で、ベストの方策なのはこの際「免許証を放棄します」ことなんだけど、好きな時に好きな場所に行けるという自由ばかりは手放すわけにいかない、まだそれほど運転が危険になっているつもりも毛頭ないし~。

この小規模な団地(160戸前後)でこれまで免許証を手放す高齢者を限りなく見てきた。そして、そのうち大半の方々が手放してから2~3年もしないうちに心身ともに急に老ける印象を受けた・・、しかも確実といっていいほど引っ越しされていく。

都会と違って地下鉄もないし交通の便が悪いので、買い物も不便極まりない場所であり、田舎でクルマを放棄することは死活問題に近い~。

つい先日の読売新聞でもこういう「人生案内」が掲載されていた。



運転を止めさせたい家族と止めたくない高齢のご本人との凌ぎあいである。非常に身につまされます。

ブログ主の場合は、目安としてせめてブログの投稿が困難になるまでは免許を放棄しないつもりです(笑)。

言い換えると、それまでは何とかして粘りたい・・、そこで、受験対策を講じることにしました。



これで、わかったことはいちばん難関の「図柄記憶テスト」について、問題は4パターンに限られていて、そのうちの1つが当日シャッフルされて出題されるということ。

で、それらを事前に覚えておけば「OK」という話になる。

たとえば、次の通り。



右ページの「パターンA」のケースでは「1~16」までの図柄が御覧の通り提示される。

そこで、1から順に関連付けて覚えることにした。奇想天外な連想ほど記憶に残るそうなのでストーリーは矛盾だらけで構わない。

たとえば、

近くの演習場で「大砲」がズドンと発射された。その砲弾が間違って我が家の「オルガン」に命中した。ドカ~ンと凄い音がして「耳」が一時聞こえなくなった。「ラジオ」も聴けないくらいなので、野外を散歩することにした。

すると、木の枝に「テントウ虫」が止まっていた。綺麗だなあと見つめていたら何と「ライオン」が茂みの中から飛び出して飛びかかってきた。

ヒェーッと、間一髪避けたらテントウ虫がライオンの眼に張り付いた。驚いたライオンはまっしぐらに逃げて茂みの中に走り込んだ。

後を追いかけてみると、何と大きな「タケノコ」が植わっていた。しめしめと掘り出して家に持って帰り、「フライパン」で焼くことにした。食べてみるとメチャ美味しい。

お隣の奥さんにおすそ分けしたところ、大喜びして「大きなタケノコねえ・・、測ってみようかしら」と「ものさし」を持ってきた。

測り終えると、この物差しはお礼にあなたに上げるわ~。よく見てみると、凄い高級なものさしだった。

試しに中古屋さんに持っていくと、これは水晶で出来た物差しでメチャ高価ものですよ、で、それじゃ軒下に置いてある「バイク」と交換してくれませんか、と交渉すると店主がハイいいですよと一つ返事。

しめしめ、バイクを乗り回していたら、「ブドウ」狩りの一団が居たが中に赤い「スカート」を履いた女性が居た。そのスカートに興奮したのだろうか、近所の「鶏」が駆け寄ってきた。

こらっと、追い払うと方向転換してこんどは「薔薇の花」をつつきだした。とても美しいバラの花だったので持っていた「ペンチ」で切り取り、家に持って帰って「ベッド」のそばの花瓶に生けて惚れ惚れしながら見入ったことだった。

以上、16個の絵柄のストーリーを組み立てて、ウォーキングの最中に反芻しながら覚えること3週間余り~。ようやく3つのパタ~ンを覚えました。残るは1パターンだけである。

12月中旬の試験を目指して、それまでに4パターンをすべて覚えておかねばならない。

毎日、オーディオ、読書、ブログなどで目が回るほど忙しいのに、そのうえ図柄の記憶となるともう「頭」が破裂しそうだなあ~(笑)。

お気楽な皆様も、そのうち「塗炭(とたん)の苦しみ」を味わうことになりますからね!



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