今日3月29日は父親の7回忌の法事が行われ久し振りに兄弟夫婦が集結した。今回は父親の母(私の祖母)33回忌も兼ねたもので有ったが出席者は甥や姪が出席したので其の子供達も来て日頃会わない者や初対面の子供も居た。親父も祖母も90歳を越すまでの長生きをしたし兎に角 元気な人で有った。
初代の分家した曾祖父は質素倹約を旨とした其れなりの財を築いたらしいが(私は顔も知らない)世間良くある話で2代目は仕事もよくしたらしいが結構な遊び人で女姉妹の中で最後に出来た男児で大事にされ過ぎたのか?好き放題をしたらしい。当時の遊びと言えば今と違い「酒と、・・・・、・・・、」が定番、今もそうなのかな?私には縁が無かったので解らないが・・・聞く所に寄ると貧農の二代目が当時ポマードを使って綺麗どころを連れて遊んで居たらしいから驚きである。
しかし孫の私から見ると酒はよく飲んでいたが余り怒らない気の良い爺さんだった。しかし私が小さい頃から既に仕事はせずに朝は日向で新聞を二部を隅から隅まで読み特に貧農の家に似つかわぬ産業経済新聞をとっていた。(株を遣っていた様子は無いので今思うと不思議なのだが)昼からは小説を読んだり昼寝をして3時が来ると銭湯の一番風呂に入りに行き、帰り掛けに近所の一杯飲み屋へ立ち寄りキューと一杯遣る日課を「羽ノ浦町の庄助さん」を地で行く生活を忠実に実行していた。
此の爺さんは今思うと結構な道具マニアで有ったので我家には子供の時から工作をする為の道具が色々有ったので私は結構自由に使わせて貰い色んな物を作って楽しんでいたので同級生と比較したら其れ等は得意な方で私が工業高校へ進む大きな要因に成ったし農家の爺さんの割りには博識で特に世界の情勢等が詳しく小さい頃に外国の話を聞いたりしていたので私の海外に向けての興味は其の頃の影響があったのかも知れない。
よく聞く世間の話の「家の浮沈」は3代目に有ると言われるが貧乏くじを引いたのは私の親父で農家の長男に生まれたが為に(当時の農業は現在の様に機械化されておらず人力を頼りの農繁期は1~2ヶ月を要していた。)現在の兼業農家の様に会社勤めをする事も出来ずに専業農家の状態であった。そして3男2女の子沢山、今、私も2人の子育てが終わり此の歳に成ると其の大変さを理解する事が出来るが定期収入の無い父親にとっては可也、厳しいもので有ったろう事は容易に推測する事が出来る。
兎に角若い頃は近所の子供達に「原爆親父」と恐れられる存在で可也厳しく育てられた。当時の我家は隣近所と比べれば経済的には少し落ち込んでいた様に思え、父親は私には一言も言わなかったが子供心に「近所の何処の子供にも負けるな」と期待して子育てをしていた様に思う。只残念な事に上の4人の子供は近所の誰にも負けないずば抜けて優秀だったが最後の私だけは私の人生が全てそうだが「今一の感」賢明な親父は其の事を察知していたのだろう私にはプレッシャーを与えなかったが私は上の兄を見ながら其れ等を肌で感じていた。
三男坊と言う事も有って何時か家を出て行く身、長男の兄と比較すると親父からの制約も無く自由気侭な生活を送っていたが結婚問題で「花の三男坊」で婿養子の話が有ると私は余り拘りは無かったので母親に冗談に「屋敷の4隅にアンテナ・タワーを建てれる広さとアマチュア無線を思い切り遣らして貰える所なら何処でも良いよ」と言っていたら『お前は何を考えとるじゃ!』と親父に怒られた。其の時にしみじみと此の家も4代目に入ろうとしているのに幹が一枝も出ていない。親爺の自身弟は高知へ婿養子に行き、自身息子の私の兄は私が見ても婿養子に行くタイプには見えなかったが相手に請われて婿養子に入ったので残ったのは私だけ、折角、男子を3人も作ったのに枝葉が無いのは情けない婿養子に行く事は駄目だと釘を刺されてしまった。実家の兄と比べたら制約無く自由に遣らせて貰ったので親父の唯一の頼みを無視する事も出来ずに名も無い日下の家を分家する事を決心をした。
今思うと一人の人生、然程大した事は無い様に思われるが名も無い一組の夫婦から5人の子供が生まれ、其々に伴侶が付いて10人に成り、其々に孫が生まれて12人、其の孫が其々に結婚して20人に成りひ孫が現時点で20人に成っている。現在は未婚の孫も居るのでひ孫の数は最終的に25人近くになる予定で玄孫の代になると100人近くに成るに違いない。私は輪廻転生は信じないが古いと言われそうだが薄く成りながらも血筋は今後も脈々と繋がる事を考えると人として生まれて来た意義を感じるし、そして其の中でも苗字が伴う流れを思う親父の気持ちも此の歳に成ると十分理解する事が出来る。親父の墓を大勢で参りながら其の様な事を感じる今日一日であった。