図書館で「ハルビン」という書名を見て、手に取った一冊。
1909年に伊藤博文を銃撃した安重根について書かれた小説だ。
韓国で33万部のベストセラーになったらしい。
作者キム・フン(金薫)は1948年生まれの作家。
最近読んでいた韓国の小説家の中では年長者になる。
韓国小説が訳され出した頃から翻訳された作家だと思う。
漢字名を見たときに、ああ、彼か、と思ったからだ。
そのキム・フンが2022年、長い年月の思いを込めて書き上げたのが、この小説。
歴史で習った人物が、どう育ち、何を憤り、何を願って、
あの銃撃、射殺という行為に至ったか。
そして、その行為に人々は何を思い、また、作者は何を託そうとしたのか。
情感を抑え込んだ筆致が、読者を誘いだしながら、読者に考える時間を与える。
伊藤の時間と安重根の時間を交互に重ねながら、小説はハルビン駅に向かう。
そこがクライマックスかと思って読みすすめていたのだが、
周到に背景を書き込みながらも、展開は速い。
半分を過ぎ、3分の2ぐらいになりそうなところで、一つのピークは訪れる。
そして、そのあとは
捕らえられた安重根と取調官との相克や、神父、司教の態度、安重根の妻や周りの人々の話が書かれていく。
そこにも時代の力関係の動きとそれへの抗いが現れている。
安重根は、獄中で墨を擦って、獄吏に頼まれた文字を書いたとされている。
その文字が「弱肉強食 風塵時代」。この時代の中の青春が刻まれた言葉なのだろう。
作者はあとがきで書いている。
安重根の輝く青春を小説にすることは、私の辛かった青春の頃からの願いだった。
と。そして、
私は安重根の「大義」よりも、実弾七発と旅費百ルーブルを持ってウラジオストクからハルビンに向かった、
彼の貧しさと青春と体について書こうと思った。彼の体は大義や貧しさまでひっくるめて、敵に立ち向かって
いった主体である。彼の大義については、後世の物書きが力を込めて書かなくても、彼自らの体と銃と口がす
でにすべてを話しており、今も話している。
と、続ける。
周到で隣接していく調査や研究の果てに、作者は安重根という人物を、その出来事を小説にした。
そこには、大義だけへの言及ではない、生きた人間の、若者の青春そのものがあった。
そこが、小説だなと思わせる。小説の持つ力だなと思わせる。
常に変わらない敵との対峙の仕方。暴挙か、義挙か。
それよりも、そこから発せられる主体の強さが迫ってくる。
小説にこんな場面があった。
安重根が家を去り、ロシア領に向かう旅に出るとき、彼はウィルヘルム神父に挨拶に行く。
そこで、彼は火炉の灰の中をほじくりながら、
この世の一方の彼方でウィルヘルムが祈禱をし、その反対側の彼方で伊藤が白い髭を撫でている。そして、
その間の果てしない原野に死体が折り重なっている幻影が、その灰の上に浮かんだ。死体は飛び石のように、
その両端を繋ぎ合わせていた。
おそらく、彼は、その飛び石を踏みしめるような思いをしながら、光のウィルヘルムから離れ、
伊藤へと向かって、翔んでいったのだろう。
キム・フンは、あとがきをこう終わらせている。
安重根をその時代に閉じ込めておくことはできない。(略)安重根は弱肉強食の人間世界の運命に立ち向かいながら、
絶えず話しかけてきている。安重根は語り、また語った。安重根の銃は言葉だった。
作者は、そこにあった行為としての銃撃を、言葉に託す思いに賭けて、必死の変換を試みている。
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