この本の原題は「Occidentalism : the West in the eyes of its enemies」というらしい。「オクシデンタリズム:敵対者の眼差しの中の西洋」とか、あるいは「敵対者の目に映る西洋」とでもいうのだろうか。『反西洋思想』という訳題が付けられている。原題の方がイメージ通りかも。
筆者は序章の中でオクシデンタリズムを「「敵」によって描かれる非人間的な西洋像のこと」を呼ぶと書いている。現在ある恐怖の抗争、紛争の中に反西洋、西洋憎悪の根底があるとして、それを歴史的にも考察していく一冊だ。では、その西洋とは何なのかが読後まで曖昧に残ってしまう。ところが、それは一方では、いわゆる地理的西洋に止まらないという筆者の思考と一致しているのだ。つまり、西洋憎悪としながらも、射程は西洋のみではなく、憎悪が核に置かれる思想が権力と結びつくことでの悲劇的な状況に及んでいるのだ。
しかし、当然西洋の定義はある。「西洋すなわち世界の自由民主主義国家」と筆者は書く。そして、「我々の問題は、いかにして西洋すなわち自由民主主義国家という思想を、その敵から守るかである」と続けている。この「西洋」はアジアの未だ脆弱な民主主義国家も入る。さらに地理的西洋でありながらも、その国家が内部に抱えこむオクシデンタリズムも批判される。「西洋」だから「自由民主主義国家」だというわけではないのだ。むしろ「西洋」の思想の中に、それを受容することで生み出される「西洋嫌悪」=オクシデンタリズムがあると分析される。それが、様々な地域で様々な様相で対立構造を生み出していく。
ナチズム、毛沢東思想、クメール・ルージュ、イスラム原理主義。そこでは、悪や堕落の中にいるものと規定されたものへの「清浄」という攻撃が仕掛けられる。自由と平等を求めるものへの自由と平等の名の下の粛正とも言える大量破壊が実行される。行為者は歴史の中での自らの意味を見いだし、英雄的な死を受け入れる。微温的で非英雄的な日常は、まるで唾棄されるように脅かされる。
人が、人々が、社会がそれぞれの価値を共存させる状況にたいして、思想の衝突を敵対関係にしていく衝動、そして衝動を破壊行為に進める権力の危機をこの本は問うていく。
西洋をそのまま西洋と読むと、どうしても違和を感じてしまう。だが、筆者の批判の中心と分析の方向は西洋礼賛ではないのだ。西洋や東洋という対立軸の存在。その主体の置き場所によって、同じ言葉が対象を異ならせていき、価値の絶対化が他所の存在理由を剥奪しようとする。これは、どこにでもある、どこにでもおこる現象なのである。自らが、その行為によって何を脅かしているのかを自覚しない限りは。
「敵意が向けられる矛先」として考えられる対象を「都市」「西洋的考え」「ブルジョア階級」「不信心者たち」として章構成をしている。「ブルジョア階級」を扱った第2章「英雄と商人」が面白かった。
西洋中心主義的と批判を受ける一冊かもしれないが、西洋のもたらした近代と現在のグローバルという言葉のくくりの問題点もすかし見えるような気がした。
筆者は序章の中でオクシデンタリズムを「「敵」によって描かれる非人間的な西洋像のこと」を呼ぶと書いている。現在ある恐怖の抗争、紛争の中に反西洋、西洋憎悪の根底があるとして、それを歴史的にも考察していく一冊だ。では、その西洋とは何なのかが読後まで曖昧に残ってしまう。ところが、それは一方では、いわゆる地理的西洋に止まらないという筆者の思考と一致しているのだ。つまり、西洋憎悪としながらも、射程は西洋のみではなく、憎悪が核に置かれる思想が権力と結びつくことでの悲劇的な状況に及んでいるのだ。
しかし、当然西洋の定義はある。「西洋すなわち世界の自由民主主義国家」と筆者は書く。そして、「我々の問題は、いかにして西洋すなわち自由民主主義国家という思想を、その敵から守るかである」と続けている。この「西洋」はアジアの未だ脆弱な民主主義国家も入る。さらに地理的西洋でありながらも、その国家が内部に抱えこむオクシデンタリズムも批判される。「西洋」だから「自由民主主義国家」だというわけではないのだ。むしろ「西洋」の思想の中に、それを受容することで生み出される「西洋嫌悪」=オクシデンタリズムがあると分析される。それが、様々な地域で様々な様相で対立構造を生み出していく。
ナチズム、毛沢東思想、クメール・ルージュ、イスラム原理主義。そこでは、悪や堕落の中にいるものと規定されたものへの「清浄」という攻撃が仕掛けられる。自由と平等を求めるものへの自由と平等の名の下の粛正とも言える大量破壊が実行される。行為者は歴史の中での自らの意味を見いだし、英雄的な死を受け入れる。微温的で非英雄的な日常は、まるで唾棄されるように脅かされる。
人が、人々が、社会がそれぞれの価値を共存させる状況にたいして、思想の衝突を敵対関係にしていく衝動、そして衝動を破壊行為に進める権力の危機をこの本は問うていく。
西洋をそのまま西洋と読むと、どうしても違和を感じてしまう。だが、筆者の批判の中心と分析の方向は西洋礼賛ではないのだ。西洋や東洋という対立軸の存在。その主体の置き場所によって、同じ言葉が対象を異ならせていき、価値の絶対化が他所の存在理由を剥奪しようとする。これは、どこにでもある、どこにでもおこる現象なのである。自らが、その行為によって何を脅かしているのかを自覚しない限りは。
「敵意が向けられる矛先」として考えられる対象を「都市」「西洋的考え」「ブルジョア階級」「不信心者たち」として章構成をしている。「ブルジョア階級」を扱った第2章「英雄と商人」が面白かった。
西洋中心主義的と批判を受ける一冊かもしれないが、西洋のもたらした近代と現在のグローバルという言葉のくくりの問題点もすかし見えるような気がした。