勧められて読んだ一冊。言葉と人間の関係を描いた近未来連作小説といえばいいのだろうか。
書名の『言壺(ことつぼ)』が持つ、斬新さと含謎感(造語)と、何か妙にアナログ的でノスタルジックな感じが、どの連作小説にも漂っている。
もともと実体を抽象したり、実体が不在であってもイメージとして手渡したりできるものとして発達した言葉。人間は言葉を使う位置にある。しかし、言葉は言葉の体系を持ち、逆に名指すことで世界を成立させてきた。人間は、言葉のない世界を想像することができなくなる。世界は言葉でできている。一方、言葉は実体から離れて世界を成立させることができる。人間は不在の実体の中で、言葉のもたらすイメージの中だけで生きてしまう仮想性を持ってしまう。また、言葉は、その言葉が作り出した世界に人間を馴化させてしまう。技術は、それを助長し、その仮想性をより疑似現実化する。そこに近未来の危機を感じ取ったのが、この連作群なのかもしれない。
ワーカムという文章作成支援機能がついたソフト(?)が、登場する。このワーカムは作者とダイアローグをするようにして、文章の作成を手助けしていく。ところが、これは単なる誤謬の訂正だけではなく、作者の文体の癖や思考や傾向性をインプットしながら、小説としての不備を指摘して作品を仕上げていくのだ。
「綺文」という冒頭の小説では、解良翔という作家が、どうしても入力したい文章を、ワーカムが論理矛盾をついて自動変換してしまうという人対機械の戦いが描かれる。これを変換の笑いにすれば清水義範の豊穣な世界にもなるのだろうが、「おれたちの通常の言語空間で理解しようとすると、こちらの言語空間が崩壊していくような、そんな気分にさせる、小説」を書きたいとする作者の自由は、ワーカムの言語体系つまりはそれを支える世界の構造によって拒否される。そこで、彼はむしろ、その一文を何らかの方法で入力できれば、言語のシステムを崩すことで、世界を崩壊させられるのではないかと考える。これが、『言壺』全体を貫く小説の背骨、神林長平という作家のこの連作集への気宇ではないだろうか。
連作は、微妙な関連を持ちながら、様々な意匠をまとう。
嗅覚に働きかける未来言語を描いた「似負文」。現実と仮想についての論を展開しながら、その小説自体が仮想性に滑り込んで境界をなくす「被援文」。ここでは、ワーカムと人との使う使われるの関係の逆転が描き出されている。「没文」では、リアルが回想や研究による追体験として描かれる。「綺文」の一文の、その後が書かれている「跳文」。
「栽培文」は、コンピューター死滅後の言葉の世界が物語られる。ここでは、言葉は言葉ポットで栽培される。言葉が植物のイメージで視覚化されている。言葉の森と、そこで言葉を集める樵という発想がよかった。言葉と文字と呪文の区別を巡る会話が溢れる。言葉の実体は一つで、文字は「言葉の実体から派生した」無数の「影」というとらえ方。コンピューターを、言葉を文字に似たコードに変容させ呪文にしたものと語り、その呪文が言葉に戻る能力を身につけ、言葉がヒトやコンピューターの意志から離れ社会が崩壊したという話。さらに、言葉に気持ちは封じ込められないというやりとり。言葉と人間と世界の関係が、温かさと抑制されたかなしみを持って書かれていた。言葉の実体を取り戻し、森を再生させる娘に、何だか『風の谷のナウシカ』を連想した。
そして、小説の中に潜り込んで、真実のありかが崩れている「戯文」。「綺文」とつながるのかもしれない、Kという人物がでる「乱文」。小説の書き終わりを刻む「碑文」と続く。
1988年から94年にかけて書かれた小説。バブルからその崩壊に至る過程の中で、先取られた小説は、ネット社会の現代に生きている。
それにしても、言葉で世界を作る小説が、このテーマに挑んでいく困難を、むしろ小説だからこそ、あるいは小説だけが、可能だとしている作家の力業に満足した。
書名の『言壺(ことつぼ)』が持つ、斬新さと含謎感(造語)と、何か妙にアナログ的でノスタルジックな感じが、どの連作小説にも漂っている。
もともと実体を抽象したり、実体が不在であってもイメージとして手渡したりできるものとして発達した言葉。人間は言葉を使う位置にある。しかし、言葉は言葉の体系を持ち、逆に名指すことで世界を成立させてきた。人間は、言葉のない世界を想像することができなくなる。世界は言葉でできている。一方、言葉は実体から離れて世界を成立させることができる。人間は不在の実体の中で、言葉のもたらすイメージの中だけで生きてしまう仮想性を持ってしまう。また、言葉は、その言葉が作り出した世界に人間を馴化させてしまう。技術は、それを助長し、その仮想性をより疑似現実化する。そこに近未来の危機を感じ取ったのが、この連作群なのかもしれない。
ワーカムという文章作成支援機能がついたソフト(?)が、登場する。このワーカムは作者とダイアローグをするようにして、文章の作成を手助けしていく。ところが、これは単なる誤謬の訂正だけではなく、作者の文体の癖や思考や傾向性をインプットしながら、小説としての不備を指摘して作品を仕上げていくのだ。
「綺文」という冒頭の小説では、解良翔という作家が、どうしても入力したい文章を、ワーカムが論理矛盾をついて自動変換してしまうという人対機械の戦いが描かれる。これを変換の笑いにすれば清水義範の豊穣な世界にもなるのだろうが、「おれたちの通常の言語空間で理解しようとすると、こちらの言語空間が崩壊していくような、そんな気分にさせる、小説」を書きたいとする作者の自由は、ワーカムの言語体系つまりはそれを支える世界の構造によって拒否される。そこで、彼はむしろ、その一文を何らかの方法で入力できれば、言語のシステムを崩すことで、世界を崩壊させられるのではないかと考える。これが、『言壺』全体を貫く小説の背骨、神林長平という作家のこの連作集への気宇ではないだろうか。
連作は、微妙な関連を持ちながら、様々な意匠をまとう。
嗅覚に働きかける未来言語を描いた「似負文」。現実と仮想についての論を展開しながら、その小説自体が仮想性に滑り込んで境界をなくす「被援文」。ここでは、ワーカムと人との使う使われるの関係の逆転が描き出されている。「没文」では、リアルが回想や研究による追体験として描かれる。「綺文」の一文の、その後が書かれている「跳文」。
「栽培文」は、コンピューター死滅後の言葉の世界が物語られる。ここでは、言葉は言葉ポットで栽培される。言葉が植物のイメージで視覚化されている。言葉の森と、そこで言葉を集める樵という発想がよかった。言葉と文字と呪文の区別を巡る会話が溢れる。言葉の実体は一つで、文字は「言葉の実体から派生した」無数の「影」というとらえ方。コンピューターを、言葉を文字に似たコードに変容させ呪文にしたものと語り、その呪文が言葉に戻る能力を身につけ、言葉がヒトやコンピューターの意志から離れ社会が崩壊したという話。さらに、言葉に気持ちは封じ込められないというやりとり。言葉と人間と世界の関係が、温かさと抑制されたかなしみを持って書かれていた。言葉の実体を取り戻し、森を再生させる娘に、何だか『風の谷のナウシカ』を連想した。
そして、小説の中に潜り込んで、真実のありかが崩れている「戯文」。「綺文」とつながるのかもしれない、Kという人物がでる「乱文」。小説の書き終わりを刻む「碑文」と続く。
1988年から94年にかけて書かれた小説。バブルからその崩壊に至る過程の中で、先取られた小説は、ネット社会の現代に生きている。
それにしても、言葉で世界を作る小説が、このテーマに挑んでいく困難を、むしろ小説だからこそ、あるいは小説だけが、可能だとしている作家の力業に満足した。