パオと高床

あこがれの移動と定住

坂多瑩子「立ち話」(「ぶらんこのり 9号」2010/6/10)

2010-06-15 07:49:17 | 雑誌・詩誌・同人誌から
坂多瑩子さん、坂田子さん、中井ひさ子さんという三人の方の詩誌。

「立ち話」は冒頭の詩。書かれた言葉から、その言葉の中を動く楽しさを味わえる詩と、そこにある言葉からその言葉の背景に包まれることが何か立体感を伴って心地よい詩がある。もちろん、その一方にのみ傾斜していく詩があるように、その一方だけではなく両方のバランスを行き来する詩もある。言葉は記述されることを望むのか、記述されないことを望むのか。
この詩は、書かれた言葉が、その言葉を包み込む情感を醸し出して、その中にいることを感じとっていたい、その背景の中にいたいと思わせてくれる詩かもしれない。

献体を申し込んできたと
八十七歳になる一人暮らしの隣人が言った
死んだらすぐ行かなくちゃあならないから
とても忙しそうな顔をして
近所には内緒だそうだ
葬儀は身内だけで簡単にすませると言う
たしかに
献体は
新鮮さがいい
そうしなさい
ある朝 そうしゃべった
          坂多瑩子「立ち話」(全編)

抑制というか、その言葉の醸すユーモアのために、ある種、慎重に、言葉が出てくる。ひそひそ話の快感かな。「死んだらすぐ」や「とても忙しそうな顔」や「近所には内緒」が妙にリアルでおかしみをもっている。しかも、ただおかしみだけではなく、何かちょっとドキリとするものがあるのだ。だが、これは生きている側からの、生きている側が持つ確かさのようなものを持っている。そして、そのドキリという感覚は「献体は/新鮮さがいい」というフレーズに繋がっていく。レアな生ものの感覚。で、ラスト「ある朝 そうしゃべった」で、急に詩は物語空間の中に踏み出すような終わり方をする。この背景には立ち話の朝の空気があるのだ。晴れた朝のすがすがしい空気の中での立ち話の現場。そこで「私」がしゃべった言葉は「そうしなさい」。朝の、あっけらかんとした、存在を包み込むようで突き放している朝の空気が溢れる。

他に同じ作者の「母その後」では、夢の中に、夢の重さの実感を持って入りこませてくれる。また、中井ひさ子さんの「またなの」は、こんな書き出しの詩。

こんな日は
考える人になって と
公園のベンチに座っていたら

昨日言ってしまった
ひと事が
からだのすき間から
聞こえてきて
ちりちり 痛いよ

またなの と

ラクダが
けむたげな目をして
通り過ぎていく
          中井ひさ子「またなの」(一部)

この詩も書かれた言葉の背景に物語が溢れている。そして、読者を公園の空気の中に連れ出してくれる。そこには通り過ぎるラクダがいるのだ。
コメント
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