パオと高床

あこがれの移動と定住

詩誌「饗宴 VOL60」

2011-03-09 02:24:16 | 雑誌・詩誌・同人誌から
以前、この詩誌を紹介した時にも思ったが、誌名通りの饗宴。
今号には海外詩特集として、ルイーズ・グリック、サンドロ・ペンナ、リン・リーブスという人の詩と俳句が訳されている。
紹介するのは、巻頭の一編。木村淳子さんの「この飢え」。

北に向かって歩く
初冬の残照

この一連で、日射しが背後からと予想できる。後方左側からの残照か。前方に日だまりを作っているのか。が、同時に影も前方に伸びているのだろう。もちろん、北側に月はない。そこで、第二連、

信号の角を曲がると
かなたの中空に
白い まるい 月が
ピンクに染まった羊雲の陰から
ゆっくりと現れるー

ここで位置関係が動く。曲がると「中空」に月が現れるということは、右折して、月をとらえるということになるのだろうか。この位置関係の動きが気になるのは、これが同時に、広がりを感じさせる根拠になっているような気がするからだ。柿本人麻呂の有名な歌を思う。あの逆。また、蕪村の句のように「菜の花」はない。
時間は、「残照」から「ピンクに染まった」で徐々に流れている。そして、現れた月に向かって、

私は 思わず手をさしのべて
つかもうとした

中空にかかる
せんべいのような月まで
とって喰らおうとする
この飢えー

いまも私のうちで口を大きく開けて
満たしてくれるものを待ち受けている

「飢え」は存在している、が、明確な対象を持った「飢え」ではない。飢えというものがあり続ける。その飢えは対象を求める。ここでは、それは「月」である。だが、白い月。形は全なる姿を示すように「まるく」ないといけない。日射しが「残照」であってみれば、この月は薄い白から、強い光の白になっていくはずなのだろう。ところが、その明確になろうとする対象は隠れる。

やがて
紫を滲ませた雲は
マントを広げ
白い月を隠してしまった

「ピンク」から「紫」への時間の経過。夜になっていく。夜になれば、むしろ月の光は増す。それを隠すには「紫」の滲みた「雲」が必要となる。暗がりの気配がある。そこで、隠れた月を見つめて一連が一行で立ち尽くす。

私は立ち止まる

欲してしるのは
あの白い月なのだろうか
                    (木村淳子「この飢え」全)
飢えの対象が隠れるように、言葉で示された「月」も隠れてしまう。言葉が求めようとしたものへの「飢え」だけが残されるように。隠れた白い月を言葉は読者の頭のなかに残し続ける。
移動の足を止められるような感じがよかった。

村田譲さんの詩「太陽の花びら」は、前作の「はやぶさ」から「イカロス」へと宇宙を巡る詩が動いている。折り紙の技術を駆使した「宇宙ヨット」の「イカロス」はその構想といい、造形といい、想像力を刺激する。

それは一枚の薄い賭けだった
一辺が14Mの四角い風車
髪の毛よりもはるかに細い糸で
編みあげたイカロス
                  (村田譲「太陽の花びら」第一連)

「髪の毛よりも細い」想像力の糸をたぐるように、イメージで認識の極に向かおうとする。像を結ぶ方へと言葉を傾けていく姿勢なのかもしれない。

遠い物語を抱きしめて
宇宙ヨットが滑りだす
                 (最終行)
この詩誌では、他に「方舟―もりへ」「魚篇・鰊(にしん)」「転身譚」「花の国」「オホーツク」などの連作にも目がいく。
あっ、瀬戸正昭さんの「日録」にもだ。