『千夜一夜物語』は、シェヘラザードが命を賭して語りつぐ物語なのだが、私たちも生きるためには、そこここに「見え隠れする物語たち」を感じていくのかもしれない。物語は始まる前であったり、終わった後であったりするのかもしれなし、いつ始まったか、これで終わりなのかもわからない、常に途上の物語なのかもしれない。そして、いつか物語に幻滅し、物語の存在を放棄したくなる、そんな物語になってしまうかもしれない。それでも気配が、そこにあるのなら、物語は紡がれるのを待ち、紡がれる物語は「私」をゆっくりと作っていく。
佐藤真里子さんの詩集『見え隠れする物語たち』は四つの季節で編集されている。「冬の物語」で始まり、春、夏、秋とめぐる。読者は、この「お茶会」に招かれる。
「春の物語」の章の一篇、「お茶会へどうぞ」。
夢から
覚めたはずなのに
鏡を覗けば
チェシャネコが
にやっと笑い
すっと消えるから
道のあちこちに
きっとある
わたしが墜ちた
うさぎ穴
そこへ
招待状を投げ入れて
今度は
わたしがみんなを招き
お茶会をひらこう
……招待状……
みなさん アリスのお茶会へ どうぞ おいで下さい
まわるテーブルで コーヒー 紅茶 ワイン 毒舌な
めらか茶も お楽しみいただけます もちろん 他に
も たくさん 用意しています 狂わないクルミ餅
空気が読めるクッキー パンツをはいたパンケーキ
などなどを やわらかに降り注ぐ お日さまの光の下
と、ここまで書いて
ふと
見上げる空が
やけに小さくまるい
もしかして
ここも
やっぱり
うさぎ穴かな
(「お茶会へどうぞ」全篇)
と、迷いこんだ、いえいえ、自分から入り込んだ「物語」の「穴」。物語るのは「私」で、物語を聞こうとするのも「私」で、でも、「私」で閉じているわけではなく、聞こえない「人」でないものたちのおしゃべりは、気配として、地続きでそこにあり、ずりずりと「私」は滑っていくのだ。
で、「翼の記憶」。冒頭の連は無くした翼の痛みの記憶で始まる。
背中が
少しだけ痛いのは
剥がれて消えた
翼のせいだ
羽根を持つ虫からの墜落あるいは妖精からの脱落か。
第三連から、
遠い日々には
わたしも飛んでいた
飛びながら
めぐる季節を
忙しなく描いていた
翼を失ったいまでも
季節が移る頃になると
早く描かなければと
透明な触覚がのびて
風に溶けている言葉を
つい、拾い集めてしまう
「触覚」が美しく見える。ただ、えっ、「言葉」を集めるのかと、少し不安になったが、この「言葉」は風の中にある言葉で、最終連、
人間ではないものたちの
おしゃべりが聞こえない
固い地面の上を
窮屈な靴で
歩きながら
(「翼の記憶」第一連、第三連から終連まで)
と、すでに「聞こえない」おしゃべりとなっている。だから、かえって、「拾い集めてしまう」のだ。しかも、「つい」、日々の暮らしの中で。「固い地面」に足をつけながら、重力を感じて、「歩きながら」。
この詩集の冒頭の詩は「フリ・フル・フレ」。雪が「降る」という動詞が、転じて降る雪の音、そして、何か視覚的なイメージも起こさせる。そうなのだ、動詞の活用とは文脈との使用法だけではなく、その動詞自体の自律性から自立性への道筋でもあったのかもしれない。
また、これがカタカナでくると外来語の「フリル」や「フラワー」や「フレア」と繋がっていく。
振り返ると
足跡も消えて
かいてもかいても
フリ・フル・フレと
降り積もる雪
どこに消えたの
あの色彩に満ちていた地上は
(「フリ・フル・フレ」)
日本語の音も繋がっている。「振り」、「返る」、「消え」と「フリ」、「フル」「フレ」。音と繋がる言葉、と地続きの「意味」の訪れ。
この最初の詩から連れだされた。
そう、詩集の「なかに沈んでいる物語が聞きたくて/そっと耳に近づければ/かすかに響く波の音が/わたしの底にも刻まれていた/同じ音を呼び覚まし」(「ヒマラヤの塩」)そうな気になってページをめくるのだ。
佐藤真里子さんの詩集『見え隠れする物語たち』は四つの季節で編集されている。「冬の物語」で始まり、春、夏、秋とめぐる。読者は、この「お茶会」に招かれる。
「春の物語」の章の一篇、「お茶会へどうぞ」。
夢から
覚めたはずなのに
鏡を覗けば
チェシャネコが
にやっと笑い
すっと消えるから
道のあちこちに
きっとある
わたしが墜ちた
うさぎ穴
そこへ
招待状を投げ入れて
今度は
わたしがみんなを招き
お茶会をひらこう
……招待状……
みなさん アリスのお茶会へ どうぞ おいで下さい
まわるテーブルで コーヒー 紅茶 ワイン 毒舌な
めらか茶も お楽しみいただけます もちろん 他に
も たくさん 用意しています 狂わないクルミ餅
空気が読めるクッキー パンツをはいたパンケーキ
などなどを やわらかに降り注ぐ お日さまの光の下
と、ここまで書いて
ふと
見上げる空が
やけに小さくまるい
もしかして
ここも
やっぱり
うさぎ穴かな
(「お茶会へどうぞ」全篇)
と、迷いこんだ、いえいえ、自分から入り込んだ「物語」の「穴」。物語るのは「私」で、物語を聞こうとするのも「私」で、でも、「私」で閉じているわけではなく、聞こえない「人」でないものたちのおしゃべりは、気配として、地続きでそこにあり、ずりずりと「私」は滑っていくのだ。
で、「翼の記憶」。冒頭の連は無くした翼の痛みの記憶で始まる。
背中が
少しだけ痛いのは
剥がれて消えた
翼のせいだ
羽根を持つ虫からの墜落あるいは妖精からの脱落か。
第三連から、
遠い日々には
わたしも飛んでいた
飛びながら
めぐる季節を
忙しなく描いていた
翼を失ったいまでも
季節が移る頃になると
早く描かなければと
透明な触覚がのびて
風に溶けている言葉を
つい、拾い集めてしまう
「触覚」が美しく見える。ただ、えっ、「言葉」を集めるのかと、少し不安になったが、この「言葉」は風の中にある言葉で、最終連、
人間ではないものたちの
おしゃべりが聞こえない
固い地面の上を
窮屈な靴で
歩きながら
(「翼の記憶」第一連、第三連から終連まで)
と、すでに「聞こえない」おしゃべりとなっている。だから、かえって、「拾い集めてしまう」のだ。しかも、「つい」、日々の暮らしの中で。「固い地面」に足をつけながら、重力を感じて、「歩きながら」。
この詩集の冒頭の詩は「フリ・フル・フレ」。雪が「降る」という動詞が、転じて降る雪の音、そして、何か視覚的なイメージも起こさせる。そうなのだ、動詞の活用とは文脈との使用法だけではなく、その動詞自体の自律性から自立性への道筋でもあったのかもしれない。
また、これがカタカナでくると外来語の「フリル」や「フラワー」や「フレア」と繋がっていく。
振り返ると
足跡も消えて
かいてもかいても
フリ・フル・フレと
降り積もる雪
どこに消えたの
あの色彩に満ちていた地上は
(「フリ・フル・フレ」)
日本語の音も繋がっている。「振り」、「返る」、「消え」と「フリ」、「フル」「フレ」。音と繋がる言葉、と地続きの「意味」の訪れ。
この最初の詩から連れだされた。
そう、詩集の「なかに沈んでいる物語が聞きたくて/そっと耳に近づければ/かすかに響く波の音が/わたしの底にも刻まれていた/同じ音を呼び覚まし」(「ヒマラヤの塩」)そうな気になってページをめくるのだ。