クオンの「新しい韓国の文学」の一冊。短編集『美しさが僕をさげすむ』の中の一編。
ウン・ヒギョン。1959年全羅北道生まれと、略歴に書かれている。全羅道というと料理がおいしいことをすぐ連想するけれど、それはまた、別の話で。
以前にも、この短編集の小説についてブログに書いたけれど、今回はまた別の小説。
主人公は少女B。どこにでもいそうな、夢見がちな、妄想をする女の子。
少女Bは、いつの日か世間をあっと言わせるんだと思っていた。その
内容が何なのかは自分でもわからなかった。それでも、いつか突然、事
件か何かが起きるに違いないと確信していた。このまま一生が終わって
しまうとしたら、自分の人生はあまりにもつまらない。
この気持ちは、それ自体としては平凡だ。そして、それは、「見ず知らずの遠い親戚から莫大な遺産を受け取る」ことだったり、庭先で宝物を見つけることだったり、道を尋ねてきた大人が、子役を探している映画監督だったりとなり、妄想は膨らむ。境界から別世界に行くという四次元の世界にまで及ぶ。このあたりの具体性の積み上げが結構面白いのだ。テレビドラマや映画では、この妄想部分で、導入の掴みを実現してしまうかもしれない。
日々の中に、そんな妄想の種が溢れていて、
ああ、人生はなんてたくさんの暗号にあふれていて、わたしたちは人
生で、なんと多くの謎を解かなければならないのだろうか。
だが、妄想のもととなる実生活は、困難の連続だ。少女の家も貧しい。親は別れ、Bは母についていくことになる。そこでも、少女は夢を見る。この自分の変化を知っているものはいない、「以前の平凡なB」を知るものはいないので、別人になるのだと。だが、転校した少女を訪れるのは足長おじさんではなく、借金取りなのだ。そして、借金取りを家の母の元に連れていく間も、Bは妄想する。しかし、母は妄想を裏切るように、あまりにも自然に借金取りに対処する。平凡はBから離れない。人生は思い通りにならないが、平凡だ。
ああ、こんなにたくさん人生の暗号を解読したというのに、この世に
驚くようなことは何一つないのだろうか。
や、
「全身を縛られたままどこか知らない暗がりに流されていく、そうい
うのが人生ではないか」。これはBが本から書き写した一節だ。
といった部分を、Bの想像の中に織り交ぜながら、平凡を小説にしている。唐突な災厄や都市の不条理にさらされながら生きている現在にあって、一方で、徹底的な平凡さの中にも包まれている現在という時間。現代人にとって、現代小説は現代を生き抜く処方箋でもあるのかもしれない。記憶違いかもしれないが、アーヴィングはそんなことをいっていたような気がする。そして、否応なしに別の世界に行ってしまう時は訪れる。その死までも見つめながら、小説はシニカルに記述される。その距離感が、心地良い。