原題は『あんにょん、酔っぱらい』という短編集で2016年出版ということである。
作者と切っても切り離せないのが「酒」であり、7編の短編はすべて「酒を飲むひと」が登場する。
と、これは「訳者あとがき」に書かれた作者の紹介である。「酒」を愛する作者と書かれた彼女は、
1965年生まれと略歴にあり、「386」世代にあたる作者。80年代の韓国民主化学生運動の世代である。
この短編集の中の短編が「春の宵」。日本語版の表題作になっている。
何だろう、確実に悲惨なのに、宵のような、春の宵のような雰囲気があり、何だかこの絶望にはそれを悲惨と
語りきってしまえない何か、「せめてもの」とか、「その先だから」といったほのあかりがある。
希望のあかりではない、ただ、絶望にもほのかな色彩があるのであり、そこにこわれ物としての人間の脆弱さと
それでも生を営んでいく日々のしなりが共存するようである。
帯からあらすじを抜くと、「生まれてまもない子どもを別れた夫の家族に奪われ、生きる希望を失った主人公ヨンギョン」。
その彼女はアルコールに依存していく。その彼女が出会ったのがスファン。二人は共に暮らすようになるが、
彼は健康保険に加入していないことなどから治療が遅れ、リウマチ性関節炎を悪化させ、療養所に入院。そしてヨンギョンも
依存症で同じ療養所に入院。「危うい同居」を始める。スファンは、その負い目のような意識から、飲酒に抜け出すヨンギョンを容認する。
そうして、ついにスファンは亡くなってしまうのだが、その時、ヨンギョンは外泊して飲酒し、スファンのことも忘れてしまう。
小説の中で、トルストイの『復活』から引いてきている「分数」の表現がある。
ひとがそれ自体で普通に完璧な存在が分母と分子が同じ状態、つまり1。これが十全の状態なのかもしれない。
で、ヨンギョンは語る。「分子にその人のいい点を置いて、分母に悪い点を置くと、その人の値打ちがわかるというわけよ。
いくら長所が多くても、短所のほうが多ければ、その人の値打ちは1より小さくて、もし逆なら1より大きいのよ」と。
韓国社会の中で、いや、現代社会の中で、ボクらは長所と短所の釣り合いきれない足し算をしているのだろうか。
それとも1からの限りない欠落を生きているのだろうか。
この小説の二人はお互いの欠点を語るお互いを受け入れ合う。欠点の大きさを語るお互いを、それは違うと認め合おうとする。
例え、周りからは救いのない絶望的な状況だと見えていても。
1でなければならない、その理想の状態から剝がされてしまったときに、それは本来の自分ではないとして蓄積された恨がある。
その解消を生の強いモチベーションと考える従来の価値ではない、
現代の、弱々しいが切なく、そこにあるための生きる処方のようなものが、この小説には漂っている。
訳者も書くように『あんにょん、酔っぱらい』という原題の「あんにょん」はこんにちはだろうか、さようならだろうか。
いつも楽しく、「こんにちは」であり、「さようなら」と、そう挨拶してお酒とはつきあいたいものだ。
それにしても韓国の小説は面白い。けれど、どこか強く傷ついたり、欠落したりする人が多い。
もちろん、それがあってこそ、小説だということもいえるのだろうが。