「想像せよ」
「想像するんだ」
「何が起こるんだ?」
「しっ」
「きっと消えていくんだ」
声を聴く。そして、場所に宿る感覚を感じとる。そういったことをここしばらく考えていた。人の話を聞けとかそんなことではなく、飛びかい消えいく声を聴く。
また、いたはずの何者かが消えてしまったとき、その場所に、ある物に、宿る感覚は、単にいたはずの何者かへの記憶だけなのだろうかとも考える。そこにいた者が消えたとき、いた者にとっての世界は消える。しかし、今いる者にとっては彼の消滅が彼の世界の消滅とはならない。依然として、そこには彼の不在の世界が残る。それだけなら、喪失は喪失としてある。消えた彼の重力は空間の補正力のようなもので修復される。心に穴を残して。そして、その穴へと、光さえも飲み込まれてしまうような、失われた者一人分の重力の欠落へと、周囲の重力は働きかける。時も、そこへと流れこんでいく。経過していく時間が心を癒すかはわからない。しかし、間違いなく時は流れこんでいく。だが、それで消えた者の世界が消えてしまうわけではない。そこにいたはずの者がいる感覚を感じとる。彼らの言葉を感受する。「想像せよ」。それは生者の傲慢か。で、あったとしても、そこにいたはずの彼の、彼女の声を想像せよ。
いとうせいこうは、小説というからくりを使って生者と死者の重層的な空間を創り出した。それは、事故、事件、災厄によって瞬時に発生する世界でありながら、瞬時には消えない世界である。彼は、その世界を死者の側から語り出すという力業をやってみせる。
地震後の津波によって杉の木に引っかかり、生者ではなくなった芥川冬助は、そこからリスナーである死者へと言葉と音楽を届けるDJになる。名前は方舟というDJアーク。開始時刻は午前2時46分。あの大震災が発生した時刻を午後から午前へと転回させている。
彼は自らの妻や子へ語りかける。また、死者たちはDJである彼へと語りかけ、彼は死者の言葉を代弁する。
五章構成の奇数章は彼のDJで進む。一方の偶数章は生者である「私」が、そのDJを聴き取ろうとする生者の章になっている。
では、死者のラジオをどうやって聴くか。
あなたの想像力が電波であり、マイクであり、スタジオであり、電波
塔であり、つまり僕の声そのものなんです。
そして、それを感受するのは
そう考えると今まで僕が想像力こそが電波と言ってきたのは不正確で、
本当は悲しみが電波なのかもしれないし、悲しみがマイクであり、スタ
ジオであり、今みんなに聞こえている僕の声そのものかもしれない。
悲しみの力ともいえるものだ。そして、いとうせいこうは、今ある世界をこうとらえようとする。
「生き残った人の思い出もまた、死者がいなければ成立しない。だっ
て誰も亡くなっていなければ、あの人が今生きていればなあなんて思わ
ないわけで。つまり生者と死者は持ちつ持たれつなんだよ。決して一方
的な関係じゃない。どちらかだけがあるんじゃなくて、ふたつでひとつ
なんだ」
「そうそう、ふたつでひとつ。だから生きている僕は亡くなった君の
ことをしじゅう思いながら人生を送っていくし、亡くなっている君は生
きている僕からの呼びかけをもとに存在して、僕を通して考える。そし
て、一緒に未来を作る。死者を抱きしめるどころか、死者と生者が抱き
しめあっていくんだ。さて、僕は狂っているのかな?泣き疲れて絶望し
て、こんな結論にたどりついていて」
共にある場を作りだすために未来は構想される。それは、聴くという行為から始まるのかもしれない。
この小説は、第二章で死者の声を聴くという生者の傲慢さをめぐる議論を展開する。小説の構造、仕掛けを小説の中で処理し、小説の中に異なる声を持ち込む。そのことで小説は、一方的な傲慢さを排除している。
また、四章は会話だけで成立している。しかも、それは「私」と私が愛した女性との会話だ。「私」は、それを作家として記述するという構成になっている。そこに、想像力を記述し、記録する小説作家の、作家としての気概と、その結実を見出すことが出来る。
「想像ラジオ」、感嘆した。
49日があるように死者がはなれていく。それまでは、
あの世にあなたを送る方にとって、あなたを失ったことはしばらく
そうであるような、ないようなことであって欲しいんだ
そして、その先へと向かおうとすることばがある。
「想像するんだ」
「何が起こるんだ?」
「しっ」
「きっと消えていくんだ」
声を聴く。そして、場所に宿る感覚を感じとる。そういったことをここしばらく考えていた。人の話を聞けとかそんなことではなく、飛びかい消えいく声を聴く。
また、いたはずの何者かが消えてしまったとき、その場所に、ある物に、宿る感覚は、単にいたはずの何者かへの記憶だけなのだろうかとも考える。そこにいた者が消えたとき、いた者にとっての世界は消える。しかし、今いる者にとっては彼の消滅が彼の世界の消滅とはならない。依然として、そこには彼の不在の世界が残る。それだけなら、喪失は喪失としてある。消えた彼の重力は空間の補正力のようなもので修復される。心に穴を残して。そして、その穴へと、光さえも飲み込まれてしまうような、失われた者一人分の重力の欠落へと、周囲の重力は働きかける。時も、そこへと流れこんでいく。経過していく時間が心を癒すかはわからない。しかし、間違いなく時は流れこんでいく。だが、それで消えた者の世界が消えてしまうわけではない。そこにいたはずの者がいる感覚を感じとる。彼らの言葉を感受する。「想像せよ」。それは生者の傲慢か。で、あったとしても、そこにいたはずの彼の、彼女の声を想像せよ。
いとうせいこうは、小説というからくりを使って生者と死者の重層的な空間を創り出した。それは、事故、事件、災厄によって瞬時に発生する世界でありながら、瞬時には消えない世界である。彼は、その世界を死者の側から語り出すという力業をやってみせる。
地震後の津波によって杉の木に引っかかり、生者ではなくなった芥川冬助は、そこからリスナーである死者へと言葉と音楽を届けるDJになる。名前は方舟というDJアーク。開始時刻は午前2時46分。あの大震災が発生した時刻を午後から午前へと転回させている。
彼は自らの妻や子へ語りかける。また、死者たちはDJである彼へと語りかけ、彼は死者の言葉を代弁する。
五章構成の奇数章は彼のDJで進む。一方の偶数章は生者である「私」が、そのDJを聴き取ろうとする生者の章になっている。
では、死者のラジオをどうやって聴くか。
あなたの想像力が電波であり、マイクであり、スタジオであり、電波
塔であり、つまり僕の声そのものなんです。
そして、それを感受するのは
そう考えると今まで僕が想像力こそが電波と言ってきたのは不正確で、
本当は悲しみが電波なのかもしれないし、悲しみがマイクであり、スタ
ジオであり、今みんなに聞こえている僕の声そのものかもしれない。
悲しみの力ともいえるものだ。そして、いとうせいこうは、今ある世界をこうとらえようとする。
「生き残った人の思い出もまた、死者がいなければ成立しない。だっ
て誰も亡くなっていなければ、あの人が今生きていればなあなんて思わ
ないわけで。つまり生者と死者は持ちつ持たれつなんだよ。決して一方
的な関係じゃない。どちらかだけがあるんじゃなくて、ふたつでひとつ
なんだ」
「そうそう、ふたつでひとつ。だから生きている僕は亡くなった君の
ことをしじゅう思いながら人生を送っていくし、亡くなっている君は生
きている僕からの呼びかけをもとに存在して、僕を通して考える。そし
て、一緒に未来を作る。死者を抱きしめるどころか、死者と生者が抱き
しめあっていくんだ。さて、僕は狂っているのかな?泣き疲れて絶望し
て、こんな結論にたどりついていて」
共にある場を作りだすために未来は構想される。それは、聴くという行為から始まるのかもしれない。
この小説は、第二章で死者の声を聴くという生者の傲慢さをめぐる議論を展開する。小説の構造、仕掛けを小説の中で処理し、小説の中に異なる声を持ち込む。そのことで小説は、一方的な傲慢さを排除している。
また、四章は会話だけで成立している。しかも、それは「私」と私が愛した女性との会話だ。「私」は、それを作家として記述するという構成になっている。そこに、想像力を記述し、記録する小説作家の、作家としての気概と、その結実を見出すことが出来る。
「想像ラジオ」、感嘆した。
49日があるように死者がはなれていく。それまでは、
あの世にあなたを送る方にとって、あなたを失ったことはしばらく
そうであるような、ないようなことであって欲しいんだ
そして、その先へと向かおうとすることばがある。
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