詩集名の通り163篇の短い詩によって構成された詩集だ。それぞれの詩には数字だけが打たれていて題名はない。
「かけら」は最初から「かけら」としてあるのだろうか。作者はあとがきで書く。
かけらはかけらであるにすぎません。それらがいくつ寄り集まったとしても、
一つの統一体を為すことはありません。
ただ、「かけら」は統一された全体が崩れて「かけら」になったのではないだろうか。あらゆるものが存在しながら、
いや多分存在すら不明のものまでが含まれた全的な世界が崩壊したときに、詩人は紡ぐように「かけら」を生み出して
いくのかもしれない。日原さんが描き出した163の「かけら」に触れながら、崩れた世界の「かけら」から世界の影
に、世界の実相に触れようとする言葉の身震いのようなものを感じた。それは、作者が書くように「統一体」を為そう
とするものではないのかもしれない。なぜなら統一体として考えるには世界は矛盾に充ちている。他者を自己に取り込
む統一は欺瞞なのかもしれないという思考や、生に向かうように死にも向かうというベクトルの相反性への思い、言葉
に定着させた途端にすり抜けていく言葉たち、なくなることによってしか実在を証明できないかのような「もの」の群
れ、それらを感じる感性やそれらがよぎる思索には、統一し体系化される世界は、どこか強引すぎるものなのかもしれ
ない。むしろ、「かけら」が「かけら」としてある世界の姿こそが親和性が高いものなのかもしれない。
だから、詩語も相反する姿を見せる。詩的な喩などの修辞を嫌ったような詩句と詩的な言葉に吸引されていくような詩
句、詩と非詩が共生する。そして、そのことが言葉への信頼から不信を経て、言葉が世界であることの否応なさの中で
言葉を宿命的に引き受けなければならない詩人の姿と呼応する。
あなたは知っているか
詩人はことばの操り師ではない
ことばの栽培家ではない
ことばの飼育者ではない
彼はことばの家でことばと言い争った末に
ことばに絶望して家出した者だ
だが 結局
長いさすらいの末に
ことばへと帰ってきた者である
総身を
傷だらけの無言のままに
(125)
そして、この「無言」の帰宅をした者は、次の章でこう書きつける。
詩は 自分という家に住んでいる
自分のことを書くものではなく
自分という家から出てゆく
自分のことを書くものだ
花はひらいておのれの美しさを忘れ
鳥は飛んで空の深さを忘れる
(126)
帰還はない。美しさや深さから切り離される今と明日へ、投企し続けるしかないのだ。しかも、この投企はどうしよう
もなく死を宿しているが、今こそ、この時、には生である。
私は光の降りそそぐベランダに立つ
降りそそぐ光によって
立たされていると言っても同じことだ
私は生きている
生まれていない私とともに
死んでしまった私とともに
生かされている
(129)
思索的な詩を引用してしまったが、この詩集の魅力は思索の動きだけにあるのではない。それが詩句と絶妙のバランスを
取っている詩も魅力的なのだ。
深い木下闇のなかを
鼻先を青臭くさせて抜けてきた猫よ
死骸ではなく
死 は
どんなふうに匂うのか
(55)
とか、
夜の仄明るい窓から ぼくらが
揺れる樹の葉のさやぎをのぞくように
樹は 青黒い葉の窓からじっと
ぼくらの心のゆらぎをみつめている
樹がぼくらをさやぐのか
ぼくらが樹をゆらぐのか
世界にとっては同じことだ
(58)
なども。
この詩の「ぼくら」とは誰なのだろう。背後に静謐な死の気配がある。擬人法が遣われている。だから、まるで樹の気持ち
になっているようだが、そんなことはない。むしろこれは、実存の対峙である。見るー見られるの関係の逆転あるいは同質
性だ。サルトルなら嘔吐したのだろう。だが、詩人は、これを世界の側から見つめる。樹と「ぼくら」のいずれの自己にも
依拠しない。ただ、「みつめる」になろうとしている。そして受け入れようとする。それが静かな痛切感を滲ませる。
これは、こういう詩句も生みだす。
悲しい目で見あげても
嬉しい目で仰いでも
それがどうした
銀杏は
ただ単に銀杏である
黄金色だなんて言うな
(81)
突き放しているのではない。「ある」を「ある」に返しているとでも言えばいいのだろうか。
生まれて死ぬ。世界はそれを繰り返す。関係の糸が張りめぐらされ、関係づけられていくと同時に関係性と切り離されて
存在する「ある」の独自性を見つめる。しかし、それは独自性でありながら等質でもあるという非情さも抱え込んでいる。
それらを詩人は描きだしていく。決して傲慢にはならず。非情の眼差しを持ちながらも言葉はぬくもりを帯びている。だ
から、読者は深く考える前に飛び込んでくる言葉を受けとめることができる。そこから思考がゆらりと立ちあがってくるのだ。
どこに付箋をはるか。その時の心の状態が決めてくれるだろう。
「かけら」は最初から「かけら」としてあるのだろうか。作者はあとがきで書く。
かけらはかけらであるにすぎません。それらがいくつ寄り集まったとしても、
一つの統一体を為すことはありません。
ただ、「かけら」は統一された全体が崩れて「かけら」になったのではないだろうか。あらゆるものが存在しながら、
いや多分存在すら不明のものまでが含まれた全的な世界が崩壊したときに、詩人は紡ぐように「かけら」を生み出して
いくのかもしれない。日原さんが描き出した163の「かけら」に触れながら、崩れた世界の「かけら」から世界の影
に、世界の実相に触れようとする言葉の身震いのようなものを感じた。それは、作者が書くように「統一体」を為そう
とするものではないのかもしれない。なぜなら統一体として考えるには世界は矛盾に充ちている。他者を自己に取り込
む統一は欺瞞なのかもしれないという思考や、生に向かうように死にも向かうというベクトルの相反性への思い、言葉
に定着させた途端にすり抜けていく言葉たち、なくなることによってしか実在を証明できないかのような「もの」の群
れ、それらを感じる感性やそれらがよぎる思索には、統一し体系化される世界は、どこか強引すぎるものなのかもしれ
ない。むしろ、「かけら」が「かけら」としてある世界の姿こそが親和性が高いものなのかもしれない。
だから、詩語も相反する姿を見せる。詩的な喩などの修辞を嫌ったような詩句と詩的な言葉に吸引されていくような詩
句、詩と非詩が共生する。そして、そのことが言葉への信頼から不信を経て、言葉が世界であることの否応なさの中で
言葉を宿命的に引き受けなければならない詩人の姿と呼応する。
あなたは知っているか
詩人はことばの操り師ではない
ことばの栽培家ではない
ことばの飼育者ではない
彼はことばの家でことばと言い争った末に
ことばに絶望して家出した者だ
だが 結局
長いさすらいの末に
ことばへと帰ってきた者である
総身を
傷だらけの無言のままに
(125)
そして、この「無言」の帰宅をした者は、次の章でこう書きつける。
詩は 自分という家に住んでいる
自分のことを書くものではなく
自分という家から出てゆく
自分のことを書くものだ
花はひらいておのれの美しさを忘れ
鳥は飛んで空の深さを忘れる
(126)
帰還はない。美しさや深さから切り離される今と明日へ、投企し続けるしかないのだ。しかも、この投企はどうしよう
もなく死を宿しているが、今こそ、この時、には生である。
私は光の降りそそぐベランダに立つ
降りそそぐ光によって
立たされていると言っても同じことだ
私は生きている
生まれていない私とともに
死んでしまった私とともに
生かされている
(129)
思索的な詩を引用してしまったが、この詩集の魅力は思索の動きだけにあるのではない。それが詩句と絶妙のバランスを
取っている詩も魅力的なのだ。
深い木下闇のなかを
鼻先を青臭くさせて抜けてきた猫よ
死骸ではなく
死 は
どんなふうに匂うのか
(55)
とか、
夜の仄明るい窓から ぼくらが
揺れる樹の葉のさやぎをのぞくように
樹は 青黒い葉の窓からじっと
ぼくらの心のゆらぎをみつめている
樹がぼくらをさやぐのか
ぼくらが樹をゆらぐのか
世界にとっては同じことだ
(58)
なども。
この詩の「ぼくら」とは誰なのだろう。背後に静謐な死の気配がある。擬人法が遣われている。だから、まるで樹の気持ち
になっているようだが、そんなことはない。むしろこれは、実存の対峙である。見るー見られるの関係の逆転あるいは同質
性だ。サルトルなら嘔吐したのだろう。だが、詩人は、これを世界の側から見つめる。樹と「ぼくら」のいずれの自己にも
依拠しない。ただ、「みつめる」になろうとしている。そして受け入れようとする。それが静かな痛切感を滲ませる。
これは、こういう詩句も生みだす。
悲しい目で見あげても
嬉しい目で仰いでも
それがどうした
銀杏は
ただ単に銀杏である
黄金色だなんて言うな
(81)
突き放しているのではない。「ある」を「ある」に返しているとでも言えばいいのだろうか。
生まれて死ぬ。世界はそれを繰り返す。関係の糸が張りめぐらされ、関係づけられていくと同時に関係性と切り離されて
存在する「ある」の独自性を見つめる。しかし、それは独自性でありながら等質でもあるという非情さも抱え込んでいる。
それらを詩人は描きだしていく。決して傲慢にはならず。非情の眼差しを持ちながらも言葉はぬくもりを帯びている。だ
から、読者は深く考える前に飛び込んでくる言葉を受けとめることができる。そこから思考がゆらりと立ちあがってくるのだ。
どこに付箋をはるか。その時の心の状態が決めてくれるだろう。
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