2012年4月25日発行の短編集である。収録作品は、2010年1月発表の表題作、2011年1月発表の「峠の我が家」、そして、2011年4月号から12月号までに発表された「星降る夜に」「お伽草子」「ダウンタウンへ繰り出そう」「アトム」の全6篇だ。
物語を生きる、書く、読む、そして、忘れるという、それぞれをめぐる物語である。それが、ボクらが現在を生きるということと何故か、交差してくる。さらに、そこに物語でなければ生きられないという思いが滲み、痛さがこぼれてくる。
「さよならクリストファー・ロビン」は、こう書き出される。
ずっとむかし、ぼくたちはみんな、誰かが書いたお話の中に住んでい
て、ほんとうは存在しないのだ、といううわさが流れた。
でも、そんなうわさは、しょっちゅう流れるのだ。
そして、浦島太郎や赤ずきんのお話をパロディにしながら、誰かの「お話」を生きているボクたちの消失を描き出していく。それは、物語が「虚無」と戦う道筋を示しだす。が、同時に、物語自体が「虚無」であり、そうでありながら、「虚無」に吸い込まれていくものだという切実なジレンマを呈示する。
ある時、ひとりの天文学者が、星の数が減っていることに気づいた。
(中略)星は生まれ、成長し、死んでゆくものだった。だから、時に、
その数は増え、またある時に、その数は減ったりもした。だが、(略)星
たちは、どこの時点からか、一定の割合で減り続けていた。
宇宙が「無」によって喰われていく。SFやファンタジーの文脈を取り込みながら、消えていく物語の中で、消えていく作者と登場人物を描き出す。確か、アメリカの作家で、短編でエントロピーを扱った作品があったが、それを高橋源一郎は援用しているのかもしれない。
そして、世界は消失する。ボクらの世界は、誰かの意識の中で、お互いの意識の中で出来ている。日々、膨大な意識が世界を形づくり、膨大な死が、意識の消失が、世界を消していく。その「虚無」を前にして、高橋源一郎は、彼の特徴のひとつである少年性で、リリカルに戦う。
「あれは『虚無』というものさ」と、ぼくに教えてくれたのは、そし
て、「世界は『虚無』にどんどん浸食されている。どうしようもない」と
もいってくれたのは、誰だったろう。
それが誰だったにせよ、その誰かも、もういないのだ。
ねえ、クリストファー・ロビン。
それでも、ぼくたちは、頑張ったよね。
世界が誰かの物語であるなら、そして、自分たちが誰かの「お話の中の住人」にすぎないのなら、「おれたちのお話を、おれたち自身で作ればいいだけの話さ」という方法を戦いの方法として、最後の人となった「ぼく」と「クリストファー・ロビン」は「最後のお話」を書こうとする。この小説「さよならクリストファー・ロビン」を冒頭に、他5篇の小説が続く。
誰かが作った登場人物たちが集まってくる「ハウス」で、作者の死と作者によって作られた者の死の同時性を切なく綴った「峠の我が家」。これも、世界が消えるということはどういうこことなのかに、謙虚さと羞恥をもって触れているのかもしれない。
それにしても、この2篇を読んだとき、今、テレビで放送されている『泣くな、はらちゃん』と結びついた。岡田惠和は、この小説、読んでいるんじゃないかな。もちろん、テイストは全く違うけど。いや、全くって、ほどでもないかな。あっ、ドラマ、たいへんたいへん、面白い。
「星降る夜に」では、今度は、物語を語り聴かせる。という設定を使う。物語作者の死と登場人物の死から、誰かに物語を語り聴かせる、その相手の死に対して、物語はどこに向けて語られるのかを、これもまた切なく問うている。
また、蓄積ではなく忘却へ、進行ではなく退行へと時間を逆に進む状況を描く「お伽草子」。
死者が生者の世界に来て、生者と共に過ごす時間を描いた「ダウンタウンへ繰り出そう」。
世界と世界の『つなぎ目』でのアトムとお茶の水博士の出会いを軸に、『つなぎ目』での人称の錯綜や時間軸の交錯を描き出した「アトム」。
どの作品にも、じわりと涙が溜まりそうな痛さがある。これは、ボクたちがどんなところまで来て、どういうところに今立っているのかに思い至らせるからであり、その取り返しのつかなさへの痛切な思いを呼び起こすからである。
生きている者を描き出していくことで、死と再生を描こうというリアリズムではない手法で、生と死の境界を跨いで、境界線を綱渡りしていく。その綱渡りのバランスの中に再生への願いのようなものが、かすかに、かすかに漂ってきた
高橋源一郎は、ケリー・リンクやブラッドベリなどの味わいを持ちながら、バーセルミのように物語自体の関節をはずしながら小説を作りだしていく。そして、さらに抒情の滲み出しがあって、少年少女小説の衣裳も羽織ってみせるのだ。様々な作品をパロディ、コラージュしていきながら作られるタカハシワールド。読むと、やっぱり、刺激的だ。
あっ、それと、この人の小説がいいのは、この人の持つ羞恥心のようなものもあるのかなと思う。実際の人物が傲慢かどうかはわからないが。
物語を生きる、書く、読む、そして、忘れるという、それぞれをめぐる物語である。それが、ボクらが現在を生きるということと何故か、交差してくる。さらに、そこに物語でなければ生きられないという思いが滲み、痛さがこぼれてくる。
「さよならクリストファー・ロビン」は、こう書き出される。
ずっとむかし、ぼくたちはみんな、誰かが書いたお話の中に住んでい
て、ほんとうは存在しないのだ、といううわさが流れた。
でも、そんなうわさは、しょっちゅう流れるのだ。
そして、浦島太郎や赤ずきんのお話をパロディにしながら、誰かの「お話」を生きているボクたちの消失を描き出していく。それは、物語が「虚無」と戦う道筋を示しだす。が、同時に、物語自体が「虚無」であり、そうでありながら、「虚無」に吸い込まれていくものだという切実なジレンマを呈示する。
ある時、ひとりの天文学者が、星の数が減っていることに気づいた。
(中略)星は生まれ、成長し、死んでゆくものだった。だから、時に、
その数は増え、またある時に、その数は減ったりもした。だが、(略)星
たちは、どこの時点からか、一定の割合で減り続けていた。
宇宙が「無」によって喰われていく。SFやファンタジーの文脈を取り込みながら、消えていく物語の中で、消えていく作者と登場人物を描き出す。確か、アメリカの作家で、短編でエントロピーを扱った作品があったが、それを高橋源一郎は援用しているのかもしれない。
そして、世界は消失する。ボクらの世界は、誰かの意識の中で、お互いの意識の中で出来ている。日々、膨大な意識が世界を形づくり、膨大な死が、意識の消失が、世界を消していく。その「虚無」を前にして、高橋源一郎は、彼の特徴のひとつである少年性で、リリカルに戦う。
「あれは『虚無』というものさ」と、ぼくに教えてくれたのは、そし
て、「世界は『虚無』にどんどん浸食されている。どうしようもない」と
もいってくれたのは、誰だったろう。
それが誰だったにせよ、その誰かも、もういないのだ。
ねえ、クリストファー・ロビン。
それでも、ぼくたちは、頑張ったよね。
世界が誰かの物語であるなら、そして、自分たちが誰かの「お話の中の住人」にすぎないのなら、「おれたちのお話を、おれたち自身で作ればいいだけの話さ」という方法を戦いの方法として、最後の人となった「ぼく」と「クリストファー・ロビン」は「最後のお話」を書こうとする。この小説「さよならクリストファー・ロビン」を冒頭に、他5篇の小説が続く。
誰かが作った登場人物たちが集まってくる「ハウス」で、作者の死と作者によって作られた者の死の同時性を切なく綴った「峠の我が家」。これも、世界が消えるということはどういうこことなのかに、謙虚さと羞恥をもって触れているのかもしれない。
それにしても、この2篇を読んだとき、今、テレビで放送されている『泣くな、はらちゃん』と結びついた。岡田惠和は、この小説、読んでいるんじゃないかな。もちろん、テイストは全く違うけど。いや、全くって、ほどでもないかな。あっ、ドラマ、たいへんたいへん、面白い。
「星降る夜に」では、今度は、物語を語り聴かせる。という設定を使う。物語作者の死と登場人物の死から、誰かに物語を語り聴かせる、その相手の死に対して、物語はどこに向けて語られるのかを、これもまた切なく問うている。
また、蓄積ではなく忘却へ、進行ではなく退行へと時間を逆に進む状況を描く「お伽草子」。
死者が生者の世界に来て、生者と共に過ごす時間を描いた「ダウンタウンへ繰り出そう」。
世界と世界の『つなぎ目』でのアトムとお茶の水博士の出会いを軸に、『つなぎ目』での人称の錯綜や時間軸の交錯を描き出した「アトム」。
どの作品にも、じわりと涙が溜まりそうな痛さがある。これは、ボクたちがどんなところまで来て、どういうところに今立っているのかに思い至らせるからであり、その取り返しのつかなさへの痛切な思いを呼び起こすからである。
生きている者を描き出していくことで、死と再生を描こうというリアリズムではない手法で、生と死の境界を跨いで、境界線を綱渡りしていく。その綱渡りのバランスの中に再生への願いのようなものが、かすかに、かすかに漂ってきた
高橋源一郎は、ケリー・リンクやブラッドベリなどの味わいを持ちながら、バーセルミのように物語自体の関節をはずしながら小説を作りだしていく。そして、さらに抒情の滲み出しがあって、少年少女小説の衣裳も羽織ってみせるのだ。様々な作品をパロディ、コラージュしていきながら作られるタカハシワールド。読むと、やっぱり、刺激的だ。
あっ、それと、この人の小説がいいのは、この人の持つ羞恥心のようなものもあるのかなと思う。実際の人物が傲慢かどうかはわからないが。
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