5
虫になったグレーゴルの側からではなく、その家族の側から見たときに、まず読者であるボクらは異化される。虫に対して持つ人間の差別意識が克明に叙述されているからだ。虫をある社会から判断したときの異質なものと考えたときに、それに対する受け入れがたさ。そこで、異質なものを、むしろ生理的嫌悪を起こさせる認識しがたき対象に置くことで、ボクらの社会とボクらの意識の姿は引きずり出される。グレーゴルが虫になった事態当初のグレーゴルへの感情は、グレーゴルであることが、まるで家族の意識の側から消されていくように虫としての認識に代わり、嫌悪感を催すもの、厄介なものと変わっていく。ボクらは、そのありように気づかされる。
しかし、このグレーゴルを権力と読むことはできないだろうか。仮に、状況を生み出し、その状況を牽引する力を権力とおいたとき。あるいは、明確な権力者の力の管理ではない、システムとしての制度に宿る価値の掌握を権力と置いた場合。家族の側は、虫によって蹂躙される家族制度を維持する姿勢によって、虫という権力の存在に絡め取られる。権力というにはあまりに弱体化している権力。アドルノはこの権力との関係を奇妙な「ずれ」として書いている。
カフカの作品においてもっとも多く認められるもの、それは、際限のない
権力にたいする反応である。ベンヤミンはこの権力、暴威をふるう家父長の
権力を、寄生的となづけた。この権力は、みずからがのしかかっている生を
蚕食する。しかしこの寄生のモメントが、カフカにあっては奇妙にずれてい
る。南京虫になるのは父ではなくてグレゴール・ザムザなのだ。権力のほう
ではなくて無力なる主人公たちのほうが余計者に見えるのだ。
アドルノ『プリズメン』から「カフカおぼえ書き」渡辺祐邦、三原弟平訳
虫になる以前のグレーゴルは家族を支える存在であり、セールスマンとしての社会成因であることで、社会制度と家族制度を支えていた。しかし、虫になったあと、家族がそれを引き受けることになる。
このずれはひとつの全体を描き出しているが、そのなかでは、全体によっ
てすがりつかれ、また、彼らのおかげで全体が保たれているところの人々が、
余計者となるのである。
アドルノ『プリズメン』から「カフカおぼえ書き」渡辺祐邦、三原弟平訳
この社会の存在は、勤務に行けないグレーゴルを支配人が呼びに来ることで読者に印象づけられる。制度の中に人物はいるのだ。そして、見られているのである。誰に?相互に。そして家族間のやりとりの外に、支配人という存在があり、そこを通してグレーゴルに至る力の図式が連想される。ここには、王権や皇帝などによるのではない権力の非人称的移行を読み取ることが出来るのだ。もちろん、一九一二年執筆、一五年発表の『変身』は、まさに第一次世界大戦の時代であり、帝国主義国家の争いとハプスブルグの消滅にヨーロッパは向かっている。その一方、資本主義社会の加速、サラリーマンという階層の成立と官僚制の整備が進む中で、システムを維持する見えざる力の介在が捉えられていたのではないだろうか。
そして、虫となったグレーゴルは、その弱体化した様相がむしろ家族に変化を余儀なくさせ、異形の権力として存在してしまう。家計を支えるため社会的に家父長に戻った父は息子であり虫であるグレーゴルにリンゴを投げつけ、彼が死んだとき、家族は「神様に感謝」し、ピクニックに出かけるのである。こう読むと、虫に対する家族の姿勢を非人道的と見るのではない見方も可能なのではないだろうか。つまり、目前に権力として存在してしまったものからの解放と読めるのではないだろうか。しかし、それは権力の死などというレベルではなく、ただ単に、見えない権力への復帰なのだ。もちろん、これが、僕たちを振り回すあの存在がいなけりゃいいのだ、という、排除の言い訳にもなるのだが、相互に移行し合う力をさらに大きな力が掌握しているという権力構造が『変身』からも読み取れるのだ。
クンデラは『小説の精神』の中で、カフカの他の作品を引いて「カフカの作品において、家族の内輪の〈全体主義〉を、彼の大きな社会像の〈全体主義〉に結びつけている連続性」が見てとれると書いている。さらに、こう書く。
全体主義社会は、特に極端な形の場合には、公的なものと私的なものとの
境界を廃棄する傾向にあります。ますます不透明なものと化した権力は、市
民の生活がこの上なく透明なものであることを要求します。秘密のない生活
という理想は、典型的な家族の理想に対応しています。
ミラン・クンデラ『小説の精神』から「そのうしろのどこかに」
金井裕、浅野敏夫訳
もちろん、クンデラが〈全体主義〉という言葉を使うとき、その言葉の強度は強く響くのだが、家族が、虫になったグレーゴルという状況を抱えて回っていく様子はクンデラの指摘を頷かせるものがあるのだ。そして、ここに何とも怪しい雰囲気を漂わせる「間借人」が登場するのだ。その間借人に対して、家族はグレーゴルを隠して、間借人を含んだ家庭を築こうとしている。「秘密のない」理想的な「典型的」家族。しかし、虫自身によって守られるべき秘密は暴かれてしまう。この時点で待ち受けるのは死の受容だけになってしまうのかもしれない。
クンデラはグレーゴルの、そしてカフカの登場人物の「サラリーマン、役人」である職業に着目し、役人の官僚的世界は「服従の、機械的なものの、抽象の世界」であるとしながら、「このような世界の中に小説を位置づけること、これはまさに叙事詩の本質そのものに反するように見えます」と書き、むしろ、カフカが、その「まったく反詩的なひとつの素材を、極端に官僚化された社会という素材を、小説という偉大なポエジーに変容させ、凡庸きわまりないひとつの物語を、(中略)神話に、叙事詩に、かつて見られたことのない美に変容させることができた」という点に独創を見いだしている。
カフカは役所の背景をひとつの巨大な次元に拡大したあとで、彼が決して
知らなかった社会との、今日のプラハの人々の社会との類似性ゆえに私たち
を魅惑するイメージを、それと気づかずに創りだすことに成功したのでした。
ミラン・クンデラ『小説の精神』から「そのうしろのどこかに」
金井裕、浅野敏夫訳
クンデラの現代とカフカの時代が見事にクロスする、想像力の伝達が行われているのである。ここに、先見性と普遍性が立ち現れているのだ。
6
もう一度、『山月記』に思いはいく。『山月記』では、李徴の内部での虎と人の葛藤が描かれる。それがそのまま、人としての意識の喪失への時間経過を生み出していく。この内面の葛藤は凄絶である。
しかし、其の時、眼の前を一匹の兎が駆け過ぎるのを見た途端に、自分の
中の人間は忽ち姿を消した。再び自分の中の人間が目を覚ました時、自分の
口は兎の血に塗れ、あたりには兎の毛が散らばってゐた。
中島敦『山月記』
「眼」と「目」の漢字の使い分けがある。目覚めるの慣用かもしれないが動物的な眼光と人間の目の違いとも取れる。この意識を超えた身体の動きは『変身』にもある。虫の本性になってしまったグレーゴルの嗜好の変化や、体の動きはむしろ克明に描かれている。だが、この人と虎のせめぎ合いに見られる人間性の葛藤はないのだ。李徴には「一日の中に必ず数時間は、人間の心が還って来る」のであり、その「人間の心で、虎としての己の残虐な行のあとを見」ると、「最も情けなく、恐ろしく、憤ろしい」と感じてしまう。さらに、そう思う時間は短くなっていき、「どうして虎などになったか」という疑念は気が付けば「どうして以前、人間だったのか」の問いに変わっていることがあると記される。これが、李徴の、人間の「慟哭」へと繋がるのだ。
一方、カフカは三人称の語りの微妙な位置を維持していく。グレーゴルの視線に立って小説は描かれるのだ。そして、グレーゴルの動きを外から見るときには、作者の語りの三人称が使われる。日本の小説にある「私」語りからくる作者の小説内部への板付きは、堅守されるべき作法としては、ない。といって、作者の自在な視線を駆使するのではなく、より定点観測的な立場を維持することで、微妙な視線の移動を駆使しているかのようだ。そこでは、グレーゴルの意識は明晰に人である。しかし、身体は明らかに、虫なのである。
グレーゴルは自分にずっと、何てことはない、ちょっとした家具の移動に
すぎないと言いきかせていたが、まもなく、ほとほと思い知った。この女た
ちの往き来、小さな掛け声、家具が床にきしる音、そういったものがとっ拍
子もない、四方八方から近づいてくる騒乱として襲いかかってきた。
カフカ『変身』池内紀訳
「何てことはない」と自分に言いきかせるグレーゴル。作者はグレーゴルの内面に触れる。人間的な意識だ。だが、そのあとの「音」への反応は身体的、虫的反射である。さらに、微妙な外の視線が、内の視線との入れ替わりをしながらグレーゴルをその部屋に位置づけていく。
いまやグレーゴルは這い出てきた-女たちは隣室で書き物机を支えにして、
ひと息ついていた-クルリクルリと四度にわたり向きを変えた。とにもかくに
も何を守るべきか、自分でもはっきりしていなかった。すでにガランとした
壁にことさらめだって、毛皮を着た婦人像だけがかかっていた。グレーゴル
は大急ぎで這いのぼると、ガラスにからだを押しつけた。ぴったり寄りそっ
たかたちで、熱い腹にガラスの冷たさがここちいい。
虫がどうやって部屋の鍵を開けるかを、カフカが友人の前で実際に演じて見せたという挿話が、あとがきに書かれていたが、彼は部屋で実際に虫の格好をして這い回っていたのではないかと想像させる。「グレーゴルは這い出てきた」には部屋に他の人物はいない。これは這い出てきたグレーゴルの意識と取れる。しかし、同時に、誰もいない部屋に出てきたグレーゴルを捉える作者の目でもあるのだ。女たちを捉える。これはグレーゴルの目である。「ひと息ついていた」は意識とも取れるし、外の描写とも取れる。「クルリクルリと」向きを変える。向きを変えるグレーゴルを見ているようでもありながら、グレーゴルの視線の動き自体にもなれる。「四度」というのがおかしい。「何をまもるべきかはっきりしなかった」はグレーゴルの意識である。「守る」は人間の守ろうとする意識だろうか、虫の反射としての意識だろうか。グレーゴルの内面に入っている。だが、ここで虫が微妙に思案げに佇んでいる姿は浮かぶ。壁に視線がいく。視線がいくと考えた段階ではグレーゴルの視線になっている。だが、部屋の描写でもある。「這いのぼる」グレーゴル。ここにも同様のグレーゴルを見る目とグレーゴルの壁を追う視線が交差する。そして、「ぴったり寄りそったかたち」で「ここちよい」という一文が現れる。かたちを捉える外からの視線と感触を捉える内部の視線が文を作り上げている。
では、心と体が分裂しているのか。ここで、カフカのアクロバティクな先見性が発揮される。人間の本来性などが記述されないのだから、実際に心と体は分裂していても、虫と人の内的葛藤は生まれ得ないのである。「寄り添ったかたち」で「ここちよい」のように、それは、変な言い回しだか、存在として存在しているのだ。
この作者の微妙な視線は翻訳の影響があるのだろうか。確かに別の訳だと、「いまやグレーゴルは這い出てきた」が、「そこで彼は跳び出した」(城山良彦訳)となっていて、「クルリクルリと四度にわたり向きを変えた」が「走る方向を四度変え」(城山良彦訳)になっている。この訳では内部であり外でもあるといった微妙さは失われるような気がする。しかし、それでも、作者が外から見る視線とグレーゴル自身の内部の視線は往来しあっている。
また、「母」や「妹」ではなく「女」たちとなっている。ただ、外国語の場合の翻訳のうえでのことかもしれないが、これは虫ではなく、人の意識でありながら、「家族」としての距離の遠さが表れている表現とも読める。人の意識が捉えた関係の変化を表現したと考えられるのだ。
7
変身した人物の内的葛藤から離れた小説は、外部との間に生み出される関係に向かう。池内紀は次のように指摘する。
ショッキングな出だしのせいで、カフカの『変身』は虫になった男の物語
と思われがちだが、その変身自体は最初の一行で終わっている。むしろ主人
公が日常からズレ落ちたとたんにはじまる、べつの変身が問題だ。時間の変
身、家族の変身、親子や血のつながりの変身。すべてがみるまに変わってい
く。
池内紀『となりのカフカ』
家族の生活は変わっていく。父の変化、妹の変化、母の変化、そして家庭自体の変化。間借人が住み、手伝いの女性が来るようになる。関係の変化へのカフカの配慮は、例えば、グレーゴルの死と同時に、父や母といった記述がザムザ氏、ザムザ夫人に変わるところなどにもうかがえる。詳細に描かれる現実は、この幻想譚を夢物語にせず、むしろ夢の持つ妙な細かさで夢的設定を現実に結びつける。現実に対してのカウンターとしての力を発揮するのだ。そのひとつに、「時間」の扱いがあるのかもしれない。
カフカの克明さへのこだわりは、「時間」をないがしろにするわけにはいかなかったのだろう。彼はすでに「時間」というものが相対性を併せ持つものだと気づいていたのだ。チャップリンの『モダンタイムズ』は一九三六年の映画であるから、二十年ほど早いのだが、速度を増す社会は当然あったはずであり、その中で、時間の相対性はすでに認識されていた。ボクの時間はあなたの時間ではないと思えることが、時間の内容に関わるのではなく、時間の速度にも関わっているのだと知り得るために、僕らは特殊相対性理論をすでに現実で引き受けていたのである。
社会的時間と自己の時間が一致している場合、僕らは社会との齟齬を起こすことはない。むしろ、社会にとって有益である自身を示すことは社会的時間への一体化を求める。社会の目ざす目的と自身の目ざす目的がひとつであるという思いは、いつ幻想となり、崩れてしまったのだろう。
グレーゴルは虫になった朝にグチる。「なんてひどい仕事にとっついたものだ」と。寝返りできなくなった体。まだ、体の変化に対して意識はほとんど人間のまま変わっていない。意識が虫となった体になれて、明晰さと虫的意識を併せ持つようになる前の段階だ。「列車は五時」しかし、時計は「六時半」。慌てる。愚痴の中に「両親のことがなければ」や「親の借金を返しさえすれば」と、
働かなければならない動機が潜む。起こそうとする母の声もせかす。しかし、虫となった体は、そうそう動いてくれない。細かい時間の進行に、すでにグレーゴルのずれが描かれている。社会的時間から脱落していくのだ。それでも出てくるグレーゴルを、一章の最後で追い立て、傷つけるのは、父である。
二章は夕方になる。味覚は変わり、触覚にも慣れている。「夜ぴて彼はそこにいた。ときおりうとうとしかかると、そのつど空腹にせめられて目が覚めた」と、朝の一瞬の慌ただしい時間の流れは緩んでいる。腐りかけの野菜などが好物になる。「繊細さってものが薄れたのかな」と思いながら「ガツガツと」食べる。「ソファの下から這い出して」、グレーゴルは「毎日、食べ物にありついた」というようにして日々が過ぎていく。その中で、借金がありながら実は貯蓄があること。そうとしらずに、一家を支えて働いていたグレーゴルのことなどが綴られていく。この間、父は「人生の最初の休暇というべきこの五年間」を過ごしていたし、「喘息持ちの母」は金が稼げない。妹は化粧し、寝坊し、家事をして、ヴァイオリンを弾くといった生活を送っていた。しかし、今ではグレーゴルが部屋のソファの下にもぐり込んだり、部屋を這い回ったりして日々が過ぎていく。
そのうち、事情が変わってしまうのだ。「これがあの父であるか」と思えるように、「いつまでもベッドにもぐりこんで」いて、たまの休日に散歩に出ても、「遅れがち」に「とぼとぼとついてきていた」父が、銀行の守衛が着る「紺の制服に金ボタン」を付け、髪は「頭の真ん中で二つに分けられ」て「きちんと梳いてある」姿になっている。社会的時間に復帰しているのだ。家父長位の譲り渡し、移行が見られる。状況は虫であるグレーゴルに引っ張られながら、その関係が変化しているのである。グレーゴルの時間ではない家族の時間が成立している。部屋の区分けが領域の区分けになっている。そして、領域が侵されそうになった時、グレーゴルは追い立てられる。二章の終わりで、父は「小粒の赤いリンゴ」を次々にグレーゴルに投げつける。そのひとつがもろに背中に命中し、めりこんだままになる。
三章で、この傷が癒えるのに「ひと月以上もかかる」と書かれている。時間はさらに一ヶ月以上経過する。この段階では「もっかの哀れな、おぞましい姿であれ、グレーゴルは家族の一員であって、敵のように扱ってはならず、嫌悪をのみこみ、我慢すること、ひとえに我慢することこそ家族の守るべき戒律なのだ」となっている。この「戒律」は「義務であり掟」(三原弟平訳)あるいは「義務の命じるところ」(城山良彦訳)と訳されている。家族にとってのグレーゴルの位置が示されている。家族が背負い込んでしまったものになっているのだ。部屋からのぞき見る家族の暮らしは、「働きづめで疲れはてた」ものだ。グレーゴルと家族のあいだで、時間は完全に逆転している。グレーゴルの中では日々は消えている。グレーゴルは「もはや、ほとんど何一つ」食べない。これをグレーゴルの生への意志、執着の放棄ととることもできるだろう。だが、一方で単に食べないだけとも取れるのだ。むしろ、ただ生を終えようとしている段階にきているということかもしれない。
グレーゴルの見る光景は間借人と家族との食事の光景になる。ヴァイオリンを演奏する妹。間借人の三人は演奏に「失望し」、「飽きてしまい」ただ、「礼儀上から我慢している」だけである。そこで、グレーゴルが動き出してしまう。そして、家族とグレーゴルの最後の交錯になるのである。
時間の経過の中で変わっていく家族と家族との関係。そして、時間自体も、その主体のありかによって変わってしまう。木村敏は『時間と自己』で、「目覚し時計のような完全に私的な時計による現在時刻の告示でも、すこし考えてみればわかるように、結局は学校や職場などの公共の時間やそれに基づく統一的な行動に自己の時間や行動を統合するという目的をもっている」と書き、「共同体の制度的な時間や行動よりも自己の固有の時間や行動を優先させる人にとっては、目覚し時計の音は有害無益な騒音以外のなにものでもないだろう」と続けながら、しかし、それでも「制度的時間を認知することなしには、われわれはもはやなんらの社会的行動をもいとなむことができないのである」と指摘する。そう、まさに虫は社会的行動を不可能としているのだ。ところが、僕らはその社会的時間にどこか疲弊してしまっているのではないだろうか。僕らはどこか実存性を延期させたいという日々の中にいないだろうか。時間は相対的なものである。しかし、虫となって時間自体が変化してしまったグレーゴルは、社会的時間の中で生きられないことによって、人が社会的時間の中で生きているということを証す。一方、社会的時間の中でしか人が生きていられないということを突きつけるのだ。
切実な問題になるのは、実は時計の示す時間が私的で個人的な時間である
よりも、公共的な共同体時間だからなのではないのか。われわれが時計を見
なければならないのは、人間が社会的な動物であって、共同体の制度を内面
化することによってしか個人の生活をいとなむことができないからなのでは
あるまいか。
木村敏『時間と自己』
さらに制度としての時間の問題に触れながら、次のように論をすすめる。
真木悠介氏は、原始共同体の無限反復的な時間から、ヘブライズムにおけ
る線分的な(つまり始めと終りのある)時間とヘレニズムにおける円環的な
時間という二つの回路を経て、近代社会における計量的な直線的時間へと収
斂する時間観念の変遷を、「自然からの人間の自立と疎外、それによる自然と
の〈生きられる共時性〉の解体」と、「共同態からの個の自立と疎外、それに
よる共同態の〈生きられる共時性〉の解体」との二つの契機を軸にして明快
に解釈している(『時間の比較社会学』、岩波書店、とくに序章と第三章)。人
間と自然との、そして原始共同体内部での「生きられる共時性」が解体して、
「知られる共時制」が析出してくるところに時計が成立する。その意味では、
時計化され制度化された時間は、そのまま、物象化され客体化された時間だ
ということになる。
ここで難しいのは、このあと、木村敏はベルグソンの「純粋持続」を引いてきて、「理想的な原始共同体」での「生きられる共時性」とは「純粋持続」と同じものであって「まだあまりにも純粋すぎ」て、「時間」という「観念を許さないような状態ではないのだろうか」と続くのだ。こうなると、また別の理解、追求を必要としてくるのだが、時間が観念として誕生することは、つまり「純粋持続」では許されない状態であるので、「生きられる共時性」の解体となると考え、それを、「個々のいま」への「分節」が起こる状態とすれば、「いまの成立に立ち会うべき私自身が、そこではまだ共同体から析出してきていない」と考える。なぜなら、個々の「いまからいまへ」の「拡がりにおける運動」はまだ生じていないからである。それは、おそらく、「分節」がおこっている「いま」があっても、その「いま」を引き受ける「いま」のつながる「拡がり」をもった私自身がまだ誕生していない状態ということを、木村敏はいっているのではないだろうか。そこで、「時間の誕生と個我の誕生とは厳密に同時的であって、両者はともに人間の自然状態からの疎外の症状とみなさなくてはならない」という文章に繋がる。そう、「厳密」に「同時的」誕生が、「拡がりにおける運動」としての「いま」を引き受ける「私自身」の誕生になるのだ。しかし、その誕生は「自然状態からの疎外」となる。
そこで、「代補現象」としての次の指摘が続く。
時計とは、このように考えてみるとき、時間の成立をその必須症状として
伴うような個我の自立と疎外の過程が、失われた「生きられる共時性」を「知
られる共時制」の形態で埋め合わせようとしている代補現象とでも見るべき
であろうか。直接的自覚において原始共同体から独立した自己は、せめても
の間接的役割行動を通じて共同体との連累を保とうとする。時計はこの役割
行動にとって不可欠の道具となるのである。
虫になる以前のグレーゴルによって生きられていた「物象化され客体化された時間」は、今やグレーゴルが見る家族の中で流れる時間になる。文字通り、物象化され客体化されている。ここに、時間の本質性はない。しかし、「知られる共時制」での補填がきかなくなった状況は、時間からの脱落の宿命的な距離と、その脱落の不可能性にまとわれた現代人の憂鬱をあぶり出している。
虫になったグレーゴルの側からではなく、その家族の側から見たときに、まず読者であるボクらは異化される。虫に対して持つ人間の差別意識が克明に叙述されているからだ。虫をある社会から判断したときの異質なものと考えたときに、それに対する受け入れがたさ。そこで、異質なものを、むしろ生理的嫌悪を起こさせる認識しがたき対象に置くことで、ボクらの社会とボクらの意識の姿は引きずり出される。グレーゴルが虫になった事態当初のグレーゴルへの感情は、グレーゴルであることが、まるで家族の意識の側から消されていくように虫としての認識に代わり、嫌悪感を催すもの、厄介なものと変わっていく。ボクらは、そのありように気づかされる。
しかし、このグレーゴルを権力と読むことはできないだろうか。仮に、状況を生み出し、その状況を牽引する力を権力とおいたとき。あるいは、明確な権力者の力の管理ではない、システムとしての制度に宿る価値の掌握を権力と置いた場合。家族の側は、虫によって蹂躙される家族制度を維持する姿勢によって、虫という権力の存在に絡め取られる。権力というにはあまりに弱体化している権力。アドルノはこの権力との関係を奇妙な「ずれ」として書いている。
カフカの作品においてもっとも多く認められるもの、それは、際限のない
権力にたいする反応である。ベンヤミンはこの権力、暴威をふるう家父長の
権力を、寄生的となづけた。この権力は、みずからがのしかかっている生を
蚕食する。しかしこの寄生のモメントが、カフカにあっては奇妙にずれてい
る。南京虫になるのは父ではなくてグレゴール・ザムザなのだ。権力のほう
ではなくて無力なる主人公たちのほうが余計者に見えるのだ。
アドルノ『プリズメン』から「カフカおぼえ書き」渡辺祐邦、三原弟平訳
虫になる以前のグレーゴルは家族を支える存在であり、セールスマンとしての社会成因であることで、社会制度と家族制度を支えていた。しかし、虫になったあと、家族がそれを引き受けることになる。
このずれはひとつの全体を描き出しているが、そのなかでは、全体によっ
てすがりつかれ、また、彼らのおかげで全体が保たれているところの人々が、
余計者となるのである。
アドルノ『プリズメン』から「カフカおぼえ書き」渡辺祐邦、三原弟平訳
この社会の存在は、勤務に行けないグレーゴルを支配人が呼びに来ることで読者に印象づけられる。制度の中に人物はいるのだ。そして、見られているのである。誰に?相互に。そして家族間のやりとりの外に、支配人という存在があり、そこを通してグレーゴルに至る力の図式が連想される。ここには、王権や皇帝などによるのではない権力の非人称的移行を読み取ることが出来るのだ。もちろん、一九一二年執筆、一五年発表の『変身』は、まさに第一次世界大戦の時代であり、帝国主義国家の争いとハプスブルグの消滅にヨーロッパは向かっている。その一方、資本主義社会の加速、サラリーマンという階層の成立と官僚制の整備が進む中で、システムを維持する見えざる力の介在が捉えられていたのではないだろうか。
そして、虫となったグレーゴルは、その弱体化した様相がむしろ家族に変化を余儀なくさせ、異形の権力として存在してしまう。家計を支えるため社会的に家父長に戻った父は息子であり虫であるグレーゴルにリンゴを投げつけ、彼が死んだとき、家族は「神様に感謝」し、ピクニックに出かけるのである。こう読むと、虫に対する家族の姿勢を非人道的と見るのではない見方も可能なのではないだろうか。つまり、目前に権力として存在してしまったものからの解放と読めるのではないだろうか。しかし、それは権力の死などというレベルではなく、ただ単に、見えない権力への復帰なのだ。もちろん、これが、僕たちを振り回すあの存在がいなけりゃいいのだ、という、排除の言い訳にもなるのだが、相互に移行し合う力をさらに大きな力が掌握しているという権力構造が『変身』からも読み取れるのだ。
クンデラは『小説の精神』の中で、カフカの他の作品を引いて「カフカの作品において、家族の内輪の〈全体主義〉を、彼の大きな社会像の〈全体主義〉に結びつけている連続性」が見てとれると書いている。さらに、こう書く。
全体主義社会は、特に極端な形の場合には、公的なものと私的なものとの
境界を廃棄する傾向にあります。ますます不透明なものと化した権力は、市
民の生活がこの上なく透明なものであることを要求します。秘密のない生活
という理想は、典型的な家族の理想に対応しています。
ミラン・クンデラ『小説の精神』から「そのうしろのどこかに」
金井裕、浅野敏夫訳
もちろん、クンデラが〈全体主義〉という言葉を使うとき、その言葉の強度は強く響くのだが、家族が、虫になったグレーゴルという状況を抱えて回っていく様子はクンデラの指摘を頷かせるものがあるのだ。そして、ここに何とも怪しい雰囲気を漂わせる「間借人」が登場するのだ。その間借人に対して、家族はグレーゴルを隠して、間借人を含んだ家庭を築こうとしている。「秘密のない」理想的な「典型的」家族。しかし、虫自身によって守られるべき秘密は暴かれてしまう。この時点で待ち受けるのは死の受容だけになってしまうのかもしれない。
クンデラはグレーゴルの、そしてカフカの登場人物の「サラリーマン、役人」である職業に着目し、役人の官僚的世界は「服従の、機械的なものの、抽象の世界」であるとしながら、「このような世界の中に小説を位置づけること、これはまさに叙事詩の本質そのものに反するように見えます」と書き、むしろ、カフカが、その「まったく反詩的なひとつの素材を、極端に官僚化された社会という素材を、小説という偉大なポエジーに変容させ、凡庸きわまりないひとつの物語を、(中略)神話に、叙事詩に、かつて見られたことのない美に変容させることができた」という点に独創を見いだしている。
カフカは役所の背景をひとつの巨大な次元に拡大したあとで、彼が決して
知らなかった社会との、今日のプラハの人々の社会との類似性ゆえに私たち
を魅惑するイメージを、それと気づかずに創りだすことに成功したのでした。
ミラン・クンデラ『小説の精神』から「そのうしろのどこかに」
金井裕、浅野敏夫訳
クンデラの現代とカフカの時代が見事にクロスする、想像力の伝達が行われているのである。ここに、先見性と普遍性が立ち現れているのだ。
6
もう一度、『山月記』に思いはいく。『山月記』では、李徴の内部での虎と人の葛藤が描かれる。それがそのまま、人としての意識の喪失への時間経過を生み出していく。この内面の葛藤は凄絶である。
しかし、其の時、眼の前を一匹の兎が駆け過ぎるのを見た途端に、自分の
中の人間は忽ち姿を消した。再び自分の中の人間が目を覚ました時、自分の
口は兎の血に塗れ、あたりには兎の毛が散らばってゐた。
中島敦『山月記』
「眼」と「目」の漢字の使い分けがある。目覚めるの慣用かもしれないが動物的な眼光と人間の目の違いとも取れる。この意識を超えた身体の動きは『変身』にもある。虫の本性になってしまったグレーゴルの嗜好の変化や、体の動きはむしろ克明に描かれている。だが、この人と虎のせめぎ合いに見られる人間性の葛藤はないのだ。李徴には「一日の中に必ず数時間は、人間の心が還って来る」のであり、その「人間の心で、虎としての己の残虐な行のあとを見」ると、「最も情けなく、恐ろしく、憤ろしい」と感じてしまう。さらに、そう思う時間は短くなっていき、「どうして虎などになったか」という疑念は気が付けば「どうして以前、人間だったのか」の問いに変わっていることがあると記される。これが、李徴の、人間の「慟哭」へと繋がるのだ。
一方、カフカは三人称の語りの微妙な位置を維持していく。グレーゴルの視線に立って小説は描かれるのだ。そして、グレーゴルの動きを外から見るときには、作者の語りの三人称が使われる。日本の小説にある「私」語りからくる作者の小説内部への板付きは、堅守されるべき作法としては、ない。といって、作者の自在な視線を駆使するのではなく、より定点観測的な立場を維持することで、微妙な視線の移動を駆使しているかのようだ。そこでは、グレーゴルの意識は明晰に人である。しかし、身体は明らかに、虫なのである。
グレーゴルは自分にずっと、何てことはない、ちょっとした家具の移動に
すぎないと言いきかせていたが、まもなく、ほとほと思い知った。この女た
ちの往き来、小さな掛け声、家具が床にきしる音、そういったものがとっ拍
子もない、四方八方から近づいてくる騒乱として襲いかかってきた。
カフカ『変身』池内紀訳
「何てことはない」と自分に言いきかせるグレーゴル。作者はグレーゴルの内面に触れる。人間的な意識だ。だが、そのあとの「音」への反応は身体的、虫的反射である。さらに、微妙な外の視線が、内の視線との入れ替わりをしながらグレーゴルをその部屋に位置づけていく。
いまやグレーゴルは這い出てきた-女たちは隣室で書き物机を支えにして、
ひと息ついていた-クルリクルリと四度にわたり向きを変えた。とにもかくに
も何を守るべきか、自分でもはっきりしていなかった。すでにガランとした
壁にことさらめだって、毛皮を着た婦人像だけがかかっていた。グレーゴル
は大急ぎで這いのぼると、ガラスにからだを押しつけた。ぴったり寄りそっ
たかたちで、熱い腹にガラスの冷たさがここちいい。
虫がどうやって部屋の鍵を開けるかを、カフカが友人の前で実際に演じて見せたという挿話が、あとがきに書かれていたが、彼は部屋で実際に虫の格好をして這い回っていたのではないかと想像させる。「グレーゴルは這い出てきた」には部屋に他の人物はいない。これは這い出てきたグレーゴルの意識と取れる。しかし、同時に、誰もいない部屋に出てきたグレーゴルを捉える作者の目でもあるのだ。女たちを捉える。これはグレーゴルの目である。「ひと息ついていた」は意識とも取れるし、外の描写とも取れる。「クルリクルリと」向きを変える。向きを変えるグレーゴルを見ているようでもありながら、グレーゴルの視線の動き自体にもなれる。「四度」というのがおかしい。「何をまもるべきかはっきりしなかった」はグレーゴルの意識である。「守る」は人間の守ろうとする意識だろうか、虫の反射としての意識だろうか。グレーゴルの内面に入っている。だが、ここで虫が微妙に思案げに佇んでいる姿は浮かぶ。壁に視線がいく。視線がいくと考えた段階ではグレーゴルの視線になっている。だが、部屋の描写でもある。「這いのぼる」グレーゴル。ここにも同様のグレーゴルを見る目とグレーゴルの壁を追う視線が交差する。そして、「ぴったり寄りそったかたち」で「ここちよい」という一文が現れる。かたちを捉える外からの視線と感触を捉える内部の視線が文を作り上げている。
では、心と体が分裂しているのか。ここで、カフカのアクロバティクな先見性が発揮される。人間の本来性などが記述されないのだから、実際に心と体は分裂していても、虫と人の内的葛藤は生まれ得ないのである。「寄り添ったかたち」で「ここちよい」のように、それは、変な言い回しだか、存在として存在しているのだ。
この作者の微妙な視線は翻訳の影響があるのだろうか。確かに別の訳だと、「いまやグレーゴルは這い出てきた」が、「そこで彼は跳び出した」(城山良彦訳)となっていて、「クルリクルリと四度にわたり向きを変えた」が「走る方向を四度変え」(城山良彦訳)になっている。この訳では内部であり外でもあるといった微妙さは失われるような気がする。しかし、それでも、作者が外から見る視線とグレーゴル自身の内部の視線は往来しあっている。
また、「母」や「妹」ではなく「女」たちとなっている。ただ、外国語の場合の翻訳のうえでのことかもしれないが、これは虫ではなく、人の意識でありながら、「家族」としての距離の遠さが表れている表現とも読める。人の意識が捉えた関係の変化を表現したと考えられるのだ。
7
変身した人物の内的葛藤から離れた小説は、外部との間に生み出される関係に向かう。池内紀は次のように指摘する。
ショッキングな出だしのせいで、カフカの『変身』は虫になった男の物語
と思われがちだが、その変身自体は最初の一行で終わっている。むしろ主人
公が日常からズレ落ちたとたんにはじまる、べつの変身が問題だ。時間の変
身、家族の変身、親子や血のつながりの変身。すべてがみるまに変わってい
く。
池内紀『となりのカフカ』
家族の生活は変わっていく。父の変化、妹の変化、母の変化、そして家庭自体の変化。間借人が住み、手伝いの女性が来るようになる。関係の変化へのカフカの配慮は、例えば、グレーゴルの死と同時に、父や母といった記述がザムザ氏、ザムザ夫人に変わるところなどにもうかがえる。詳細に描かれる現実は、この幻想譚を夢物語にせず、むしろ夢の持つ妙な細かさで夢的設定を現実に結びつける。現実に対してのカウンターとしての力を発揮するのだ。そのひとつに、「時間」の扱いがあるのかもしれない。
カフカの克明さへのこだわりは、「時間」をないがしろにするわけにはいかなかったのだろう。彼はすでに「時間」というものが相対性を併せ持つものだと気づいていたのだ。チャップリンの『モダンタイムズ』は一九三六年の映画であるから、二十年ほど早いのだが、速度を増す社会は当然あったはずであり、その中で、時間の相対性はすでに認識されていた。ボクの時間はあなたの時間ではないと思えることが、時間の内容に関わるのではなく、時間の速度にも関わっているのだと知り得るために、僕らは特殊相対性理論をすでに現実で引き受けていたのである。
社会的時間と自己の時間が一致している場合、僕らは社会との齟齬を起こすことはない。むしろ、社会にとって有益である自身を示すことは社会的時間への一体化を求める。社会の目ざす目的と自身の目ざす目的がひとつであるという思いは、いつ幻想となり、崩れてしまったのだろう。
グレーゴルは虫になった朝にグチる。「なんてひどい仕事にとっついたものだ」と。寝返りできなくなった体。まだ、体の変化に対して意識はほとんど人間のまま変わっていない。意識が虫となった体になれて、明晰さと虫的意識を併せ持つようになる前の段階だ。「列車は五時」しかし、時計は「六時半」。慌てる。愚痴の中に「両親のことがなければ」や「親の借金を返しさえすれば」と、
働かなければならない動機が潜む。起こそうとする母の声もせかす。しかし、虫となった体は、そうそう動いてくれない。細かい時間の進行に、すでにグレーゴルのずれが描かれている。社会的時間から脱落していくのだ。それでも出てくるグレーゴルを、一章の最後で追い立て、傷つけるのは、父である。
二章は夕方になる。味覚は変わり、触覚にも慣れている。「夜ぴて彼はそこにいた。ときおりうとうとしかかると、そのつど空腹にせめられて目が覚めた」と、朝の一瞬の慌ただしい時間の流れは緩んでいる。腐りかけの野菜などが好物になる。「繊細さってものが薄れたのかな」と思いながら「ガツガツと」食べる。「ソファの下から這い出して」、グレーゴルは「毎日、食べ物にありついた」というようにして日々が過ぎていく。その中で、借金がありながら実は貯蓄があること。そうとしらずに、一家を支えて働いていたグレーゴルのことなどが綴られていく。この間、父は「人生の最初の休暇というべきこの五年間」を過ごしていたし、「喘息持ちの母」は金が稼げない。妹は化粧し、寝坊し、家事をして、ヴァイオリンを弾くといった生活を送っていた。しかし、今ではグレーゴルが部屋のソファの下にもぐり込んだり、部屋を這い回ったりして日々が過ぎていく。
そのうち、事情が変わってしまうのだ。「これがあの父であるか」と思えるように、「いつまでもベッドにもぐりこんで」いて、たまの休日に散歩に出ても、「遅れがち」に「とぼとぼとついてきていた」父が、銀行の守衛が着る「紺の制服に金ボタン」を付け、髪は「頭の真ん中で二つに分けられ」て「きちんと梳いてある」姿になっている。社会的時間に復帰しているのだ。家父長位の譲り渡し、移行が見られる。状況は虫であるグレーゴルに引っ張られながら、その関係が変化しているのである。グレーゴルの時間ではない家族の時間が成立している。部屋の区分けが領域の区分けになっている。そして、領域が侵されそうになった時、グレーゴルは追い立てられる。二章の終わりで、父は「小粒の赤いリンゴ」を次々にグレーゴルに投げつける。そのひとつがもろに背中に命中し、めりこんだままになる。
三章で、この傷が癒えるのに「ひと月以上もかかる」と書かれている。時間はさらに一ヶ月以上経過する。この段階では「もっかの哀れな、おぞましい姿であれ、グレーゴルは家族の一員であって、敵のように扱ってはならず、嫌悪をのみこみ、我慢すること、ひとえに我慢することこそ家族の守るべき戒律なのだ」となっている。この「戒律」は「義務であり掟」(三原弟平訳)あるいは「義務の命じるところ」(城山良彦訳)と訳されている。家族にとってのグレーゴルの位置が示されている。家族が背負い込んでしまったものになっているのだ。部屋からのぞき見る家族の暮らしは、「働きづめで疲れはてた」ものだ。グレーゴルと家族のあいだで、時間は完全に逆転している。グレーゴルの中では日々は消えている。グレーゴルは「もはや、ほとんど何一つ」食べない。これをグレーゴルの生への意志、執着の放棄ととることもできるだろう。だが、一方で単に食べないだけとも取れるのだ。むしろ、ただ生を終えようとしている段階にきているということかもしれない。
グレーゴルの見る光景は間借人と家族との食事の光景になる。ヴァイオリンを演奏する妹。間借人の三人は演奏に「失望し」、「飽きてしまい」ただ、「礼儀上から我慢している」だけである。そこで、グレーゴルが動き出してしまう。そして、家族とグレーゴルの最後の交錯になるのである。
時間の経過の中で変わっていく家族と家族との関係。そして、時間自体も、その主体のありかによって変わってしまう。木村敏は『時間と自己』で、「目覚し時計のような完全に私的な時計による現在時刻の告示でも、すこし考えてみればわかるように、結局は学校や職場などの公共の時間やそれに基づく統一的な行動に自己の時間や行動を統合するという目的をもっている」と書き、「共同体の制度的な時間や行動よりも自己の固有の時間や行動を優先させる人にとっては、目覚し時計の音は有害無益な騒音以外のなにものでもないだろう」と続けながら、しかし、それでも「制度的時間を認知することなしには、われわれはもはやなんらの社会的行動をもいとなむことができないのである」と指摘する。そう、まさに虫は社会的行動を不可能としているのだ。ところが、僕らはその社会的時間にどこか疲弊してしまっているのではないだろうか。僕らはどこか実存性を延期させたいという日々の中にいないだろうか。時間は相対的なものである。しかし、虫となって時間自体が変化してしまったグレーゴルは、社会的時間の中で生きられないことによって、人が社会的時間の中で生きているということを証す。一方、社会的時間の中でしか人が生きていられないということを突きつけるのだ。
切実な問題になるのは、実は時計の示す時間が私的で個人的な時間である
よりも、公共的な共同体時間だからなのではないのか。われわれが時計を見
なければならないのは、人間が社会的な動物であって、共同体の制度を内面
化することによってしか個人の生活をいとなむことができないからなのでは
あるまいか。
木村敏『時間と自己』
さらに制度としての時間の問題に触れながら、次のように論をすすめる。
真木悠介氏は、原始共同体の無限反復的な時間から、ヘブライズムにおけ
る線分的な(つまり始めと終りのある)時間とヘレニズムにおける円環的な
時間という二つの回路を経て、近代社会における計量的な直線的時間へと収
斂する時間観念の変遷を、「自然からの人間の自立と疎外、それによる自然と
の〈生きられる共時性〉の解体」と、「共同態からの個の自立と疎外、それに
よる共同態の〈生きられる共時性〉の解体」との二つの契機を軸にして明快
に解釈している(『時間の比較社会学』、岩波書店、とくに序章と第三章)。人
間と自然との、そして原始共同体内部での「生きられる共時性」が解体して、
「知られる共時制」が析出してくるところに時計が成立する。その意味では、
時計化され制度化された時間は、そのまま、物象化され客体化された時間だ
ということになる。
ここで難しいのは、このあと、木村敏はベルグソンの「純粋持続」を引いてきて、「理想的な原始共同体」での「生きられる共時性」とは「純粋持続」と同じものであって「まだあまりにも純粋すぎ」て、「時間」という「観念を許さないような状態ではないのだろうか」と続くのだ。こうなると、また別の理解、追求を必要としてくるのだが、時間が観念として誕生することは、つまり「純粋持続」では許されない状態であるので、「生きられる共時性」の解体となると考え、それを、「個々のいま」への「分節」が起こる状態とすれば、「いまの成立に立ち会うべき私自身が、そこではまだ共同体から析出してきていない」と考える。なぜなら、個々の「いまからいまへ」の「拡がりにおける運動」はまだ生じていないからである。それは、おそらく、「分節」がおこっている「いま」があっても、その「いま」を引き受ける「いま」のつながる「拡がり」をもった私自身がまだ誕生していない状態ということを、木村敏はいっているのではないだろうか。そこで、「時間の誕生と個我の誕生とは厳密に同時的であって、両者はともに人間の自然状態からの疎外の症状とみなさなくてはならない」という文章に繋がる。そう、「厳密」に「同時的」誕生が、「拡がりにおける運動」としての「いま」を引き受ける「私自身」の誕生になるのだ。しかし、その誕生は「自然状態からの疎外」となる。
そこで、「代補現象」としての次の指摘が続く。
時計とは、このように考えてみるとき、時間の成立をその必須症状として
伴うような個我の自立と疎外の過程が、失われた「生きられる共時性」を「知
られる共時制」の形態で埋め合わせようとしている代補現象とでも見るべき
であろうか。直接的自覚において原始共同体から独立した自己は、せめても
の間接的役割行動を通じて共同体との連累を保とうとする。時計はこの役割
行動にとって不可欠の道具となるのである。
虫になる以前のグレーゴルによって生きられていた「物象化され客体化された時間」は、今やグレーゴルが見る家族の中で流れる時間になる。文字通り、物象化され客体化されている。ここに、時間の本質性はない。しかし、「知られる共時制」での補填がきかなくなった状況は、時間からの脱落の宿命的な距離と、その脱落の不可能性にまとわれた現代人の憂鬱をあぶり出している。
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