パオと高床

あこがれの移動と定住

六月博多座大歌舞伎

2010-06-08 23:26:15 | Weblog
本当に久しぶりに歌舞伎に行った。
いつ行ったのかなと思ったら、平成十四年だから、八年ぶりになるのかな。
中村吉右衛門に引かれ引かれてなのだ。
夜の部で行ったので、演目は「鬼平犯科帳 大川の隠居」と「恋湊博多諷 毛剃」と「勢獅子」。ご存じ長谷川平蔵と毛剃を演じる吉右衛門は、結局三時間をこえる長丁場。昼の部では石川五右衛門もやっているので、それはもう凄いのなんの。貫禄と洒脱さと気品があって、とても満足な時間を過ごした。

歌舞伎の演目になると鬼平は、じゅうぶん現代劇で、よくできた脚本だと思った。シャモ鍋や初鰹といった食も出てきて、何か江戸情緒も感じられた。何だか粋な時間が流れているようなのだ。そして、終幕の平蔵と友五郎の掛け合い。これは微妙に変わる気持ちの流れと底を流れる変わらない情がかみ合って、お見事。また、「毛剃」も貫禄ある海賊の親分で、セットの雄大さと場面の華やぎとも相まって、楽しい芝居だった。今回、初めて踊りの芝居である「勢獅子」というのを見たが、祭の場面での入れ替わり立ち替わりの踊りの披露という設定で、約三十分、踊りが続けられるのだが、これもまた楽しいものだと思った。市川染五郎、踊り姿がきれいで、華がある。

歌舞伎は楽しいよ。もちろん、幕間のお弁当も含めて。
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岡耕秋「樹木」(「千年樹 42号」2010/5/22)

2010-06-01 10:19:59 | 雑誌・詩誌・同人誌から
誌名そのままに、刻みつけるように年輪を重ねることへの思いがこもる詩誌である。「樹木」は、詩誌それ自体を表しているような、発行者の詩である。この詩には自然を織りなすものの厳しさと優しさ、そしてなにより、その美しさが描かれている。また、時の流れの中で去りゆくもの、失われたものへの沈むような思いが沁みている。

系統樹という樹がある
宇宙樹という樹がある
樹々はこの星を満たし彩り
地平の姿を変える

生きている樹はその年輪を見せない
厚いごつごつとした樹皮をまとい
厳しげな樹影を象り
あるいは優しいすべらかな木肌に
すらりとたちならぶ優しい木陰を与える

生命を絶たれた樹木が見せる年輪は
その秘められた歴史
うすぐらい森のなかで
しっかりと大地をつかんだ根をのこしたまま伐られ
あらわになった年輪

そこに見るのはもはや失われた青空か
暗い大地の底で息絶えて行く細根のあがき

あるいは
そのひと輪ひと輪の美しい造形に秘められた
その年々の季節の息吹の記憶
亭々と天空に聳えた梢や枝をそよがせた風の音
さんさんと降り注ぐ陽光
暖かい春 酷暑の夏 豊穣の秋 氷結の厳冬

考古学者*は古い建造物の
古材の年輪から年代を読む
古い史書に記されたことがら
その時に生きていた人々の姿を
同心円の中にくっきりととらえる

だが
この老いた痩躯に年輪はなく
残る気力も無い
亭々と滑らかに天空に祈ることもなく
さらに清らかに朽ちることも出来ぬ

今日 種子の日から朽ち果てるまでの
全ての日々に美しい
樹々の年輪を羨む
          岡耕秋「樹木」(全編)

ここにも幻を見る幻視がある。三連の「生命を絶たれた樹木が見せる年輪は」という一行が、心に痛い。刻まれた時間である年輪はすでに絶たれた時にしか姿を現さない。

同じ作者のもうひとつの詩「ある画家」はワイエスに向けての詩だが、ワイエスの絵をとらえようとする詩の言葉が静かな力強さを持っている。
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