もう、いろいろなメディアで散々画像を流されているので忘れようもないのですが、今日は3月11日、あの東日本大震災が発生した日です。
奇しくも今日は『あの日』と同じ金曜日。だから余計に『あの日』のことが想起されます。
まだ拙ブログを開設する前だった『あの日』、私は午前のレッスンを終えてからこの店でランチをしました。ひとしきり御主人と他愛もない話をして会計を済ませ、午後のレッスンに備えて支度をしていました。
そこに、あの強烈な揺れが襲いかかってきました。
レッスン室のピアノが動き、本棚が揺れ、照明が大きく左右に振れていました。私はとりあえず全てのレッスン室と出入口のドアを開けてから出入口横の受付の机に上って、振り子のように振れている照明を落ちないように両手で掴んでひたすら揺れに耐えていました。
ものすごく長く感じられた揺れが収まってから、想像もつかないような事態が次から次へと起こりました。幸い私を含めた音楽教室の講師陣は、一駅隣のたまプラーザにある本店に避難し、そこで帰宅難民として一夜を明かしました。
ただ、移動の最中この店の前を通りかかったら、マスター御夫妻と何人かの親子連れが停電で真っ暗になった店内で途方に暮れておられました。無事を確認できたのはよかったものの、この店のシャッターが電動のもので戸締まりが出来ないということでした。そんな窮状を目の当たりにしながらも、体調を崩した講師がいたためにたまプラーザに移動しなくてはならなかったことに、今でも胸の奥が傷みます(後日伺ったら、その日の夜遅くに通電が再開して無事にシャッターを下ろすことができたとのことで、安堵しました)。
そんなことを思い出しながら、今日は抹茶のシフォンケーキとコーヒーを頂きました。
こうした美味しいコーヒーとケーキが普通に食べられること、インフラが整い電車やバスが普通に動いていること…あの震災が起きなければ考えもしなかった『物事が普通に動いていることの有り難さ』を、改めて噛み締める一日となりました。
あの震災では今でも千人単位の行方不明者がいます。そして、今でも海上保安庁のダイバーが捜索に当たられています。震災から5年の月日が流れ、捜索は難航を極めているそうですが、それでもここ3年の間に御一方の御遺体を発見したとのことで、彼等の使命感と情熱には頭が下がります。
私の従兄弟に自衛隊員がいますが、彼も震災直後から災害派遣で出動し通しでした。「我々が必要とされる時は国が危急の時だけだ」とは宮城に派遣されていた陸曹の言葉ですが、彼等自衛隊の尽力無しには今日の再建は無かったでしょう。どれだけ感謝しても感謝しきれません。
せめて、あの時の政権がもっとマトモな政党であれば、もっと出来ることが沢山あっただろうということが悔やまれてなりません。今はただ、犠牲者の皆様方の御冥福を心中より御祈念申し上げようと思います。
合掌。
奇しくも今日は『あの日』と同じ金曜日。だから余計に『あの日』のことが想起されます。
まだ拙ブログを開設する前だった『あの日』、私は午前のレッスンを終えてからこの店でランチをしました。ひとしきり御主人と他愛もない話をして会計を済ませ、午後のレッスンに備えて支度をしていました。
そこに、あの強烈な揺れが襲いかかってきました。
レッスン室のピアノが動き、本棚が揺れ、照明が大きく左右に振れていました。私はとりあえず全てのレッスン室と出入口のドアを開けてから出入口横の受付の机に上って、振り子のように振れている照明を落ちないように両手で掴んでひたすら揺れに耐えていました。
ものすごく長く感じられた揺れが収まってから、想像もつかないような事態が次から次へと起こりました。幸い私を含めた音楽教室の講師陣は、一駅隣のたまプラーザにある本店に避難し、そこで帰宅難民として一夜を明かしました。
ただ、移動の最中この店の前を通りかかったら、マスター御夫妻と何人かの親子連れが停電で真っ暗になった店内で途方に暮れておられました。無事を確認できたのはよかったものの、この店のシャッターが電動のもので戸締まりが出来ないということでした。そんな窮状を目の当たりにしながらも、体調を崩した講師がいたためにたまプラーザに移動しなくてはならなかったことに、今でも胸の奥が傷みます(後日伺ったら、その日の夜遅くに通電が再開して無事にシャッターを下ろすことができたとのことで、安堵しました)。
そんなことを思い出しながら、今日は抹茶のシフォンケーキとコーヒーを頂きました。
こうした美味しいコーヒーとケーキが普通に食べられること、インフラが整い電車やバスが普通に動いていること…あの震災が起きなければ考えもしなかった『物事が普通に動いていることの有り難さ』を、改めて噛み締める一日となりました。
あの震災では今でも千人単位の行方不明者がいます。そして、今でも海上保安庁のダイバーが捜索に当たられています。震災から5年の月日が流れ、捜索は難航を極めているそうですが、それでもここ3年の間に御一方の御遺体を発見したとのことで、彼等の使命感と情熱には頭が下がります。
私の従兄弟に自衛隊員がいますが、彼も震災直後から災害派遣で出動し通しでした。「我々が必要とされる時は国が危急の時だけだ」とは宮城に派遣されていた陸曹の言葉ですが、彼等自衛隊の尽力無しには今日の再建は無かったでしょう。どれだけ感謝しても感謝しきれません。
せめて、あの時の政権がもっとマトモな政党であれば、もっと出来ることが沢山あっただろうということが悔やまれてなりません。今はただ、犠牲者の皆様方の御冥福を心中より御祈念申し上げようと思います。
合掌。