今日も時折雨の降る、蒸し暑い一日となりました。折角例年より早く梅雨明けしたのに、まるで梅雨末期のような不快な天候が続いていると何だか気分が滅入ります。
さて、今日小学校の社会の授業で小田原について調べる時間がありました。ただ、教室が蒸し暑かったことと夏休み前の短縮授業ということもあって、何となく子どもたちもダラけ気味でした。
そんな中で、一人の生徒が
「先生(私)、小田原のことで何か知ってることありますか?」
と質問してきたのです。それで、ちょっと考えたのですが
「『小田原』っていう地名は読み間違いからついたって知ってますか?」
と言ったら
「えっ!?読み間違い?」
と素っ頓狂な大きな声を出したのです。
はじめはその子にだけ話していたのですが、その子があまりにも大きな声で反応したため、周りの子たちも
「何だ何だ!?」
という感じでザワつき始めてしまいました。しかも、質問してきた子が
「『小田原』って読み間違いでついたんだって!」
と大きな声で言い放ったため、教室中が大騒ぎになってしまい、結局私がその場で全員にどういうことかを説明することとなってしまいました(汗)。
『小田原』という地名の由来には諸説ありますが、一番有名で有力なのが『草書体の読み間違いからついた』というものです。これは
PHP文庫から出ている《神奈川県民も知らない地名の謎》という本にも書かれていることで、表紙にもそのことが書かれています。
古来、小田原一帯は『こゆるぎの郷』と呼ばれていました。今でも大磯町から小田原市国府津にかけての相模湾一帯の海岸で「小余綾(こゆるぎ)」という表示名を見かけることがありますし、小田原駅の駅弁にも
『こゆるぎ弁当』という名前の商品があります。
この『こゆるぎ』という言葉には『しょっちゅう揺るぐ所=地震が頻発する所』という意味があります。今でも相模湾近辺は地震の多いところですが、それは昔も同じだったようです。
この『こゆるぎ』という地名は歌にも謳われていて、奈良時代に編纂された万葉集では相模国の『餘綾郡(よろぎのこおり)』の海岸を『餘呂伎能波麻(よろぎの浜)』と詠い、平安時代に編纂された古今和歌集ではそれに接頭語の『小』をつけて、『小輿呂木(こよろぎ)の磯』と詠っています。後に『餘綾郡』が『淘綾郡(ゆるぎのこおり)』と改められた後の和歌集では『こゆるぎの磯』と詠われ、更に平安時代中期から鎌倉時代の和歌の世界では小田原近辺の地名を離れて、広く相模湾沿岸を指す懸詞や枕詞として使われるようになりました。
さて、その『こゆるぎ』がどうやって『小田原』になったのかという謂れですが、《新編相模国風土記稿》によれば『小田原』という地名が『こゆるぎ』を漢字表記した『小由留木』という文字の草書体を誤読したことに由来する…と言う説を紹介しています。
『小由留(る)木』を縦書きの草書体で書くと
となりますが、こう見ると『由』の字が『田』に見えなくもありません。更に、『る木』と『原』を草書ならではの連綿体で書いたものを見比べてみると
右が『る木』、左が『原』ですが、こうして並べてみると確かに似ています。
では、いつ頃から『小田原』と呼ばれるようになったのかでしょうか。
戦国武将のひとりとして有名な北条早雲が小田原城に入城したのが1495年のことてすが、実はそれ以前の1418年には駿東から侵略してきた大森頼春が、現在の小田原城よりもやや北部に小田原砦や小田原館を築いています。これより以前の鎌倉時代、この地域には松田氏・河村氏・曽比氏・栢山氏・曽我氏・成田氏などの武士集団がいて現在でも小田原市とその周辺に地名や駅名として残っていますが『小田原氏』という御家人や豪族はいないため、恐らく鎌倉時代にはこの地域を総称して『小田原』と呼んでいたのではないかと推測されています。
本来ならば、地元の地名を読み間違いされるということは、住民にとっては不名誉なことだろうと思います。それでもその読み間違いが受け入れられたということの背景には、『こゆるぎ=地震頻発地域』という他所から聞いたら何とも危なっかしそうに聞こえてしまう地名を、上手いこと誤魔化してしまうチャンスととらえた人がいたのではないでしょうか(あくまでも個人的憶測です)。
そんなわけで、『小田原』という地名は『小由留木』の読み間違いからついたもの…というのが最も有力な説です。因みに、栃木県大田原市とは何の関係もありません(笑)。
それにしても意図せぬこととは言え、またしても教室をザワつかせてしまいました。後で担任の先生にはよくよくお詫び申し上げましたが、あまり出過ぎたマネをしないように気をつけようと思います…。