今日は文化の日、明治天皇の誕生日である天長節です。文化の日は別名『晴れの特異日』ともいわれていますが、その名の通り今日も抜けるような快晴の秋晴れの日となりました。
ところで、明治天皇の誕生日である今日は、日本国歌《君が代》が宮中で初披露された日でもあることをご存知でしょうか。
今日歌われている《君が代》は宮内省伶人長の林廣守(はやしひろもり/1831〜1896)が雅楽の壱越調旋律の音階で作曲したものですが、実際には林廣守の長男林広季と、宮内省式部職雅樂課伶人の奥好義(おくよしいさ/1857〜1933)がつけた旋律を基に、廣守が曲を起こしたものであることが認められています。後にこの曲に、
当時のプロイセンから音楽教師として来日していた作曲家フランツ・エッケルト(1852〜1916)が
西洋風の和声を付けて吹奏楽用に編曲しました。
この《君が代》は明治13(1880)年の10月25日に試演され、翌26日に軍務局長上申書である『陛下奉祝ノ楽譜改正相成度之儀ニ付上申』が施行されて、礼式曲としての地位が定まりました。そして同年11月3日の天長節に初めて宮中で伶人らによって演奏され、公に披露されました。
その後この《君が代》は1893(明治26)年に、時の文部省文部大臣であった井上毅の告示を受けて以降様々な儀式に使用され、1930(昭和5)年には国歌として定着しました。ただ、正式に日本の国歌として法制化されるには1999(平成11)年に制定された『国旗及び国歌に関する法律』の施行を待たなければなりませんでした。
《君が代》の歌詞は、10世紀初頭における最初の勅撰和歌集である『古今和歌集』の「読人知らず」の和歌
我が君は
千代に八千代に
さゞれ石の
巌となりで苔のむすまで
を初出としていて、世界の国歌の中でも作詞者が最も古いといわれています。当初は単に『祝福を受ける人の寿命』を歌ったものでしたが、その後転じて『天皇の治世』を奉祝する歌となりました。
戦後、日章旗とこの《君が代》を巡っては様々な論争がなされ、特に教育現場で国旗を掲揚するかしないか、《君が代》を歌うか歌わないかが社会問題に発展したこともありました。現在でも入学式や卒業式といった学校の式典で国旗掲揚や《君が代》の斉唱を拒否する教師がいるようですが、私に言わせればとんだ的外れな愚行であるとしか思えません。
彼らの主張は
『日章旗は軍国主義の象徴であり《君が代》は天皇賛美の歌であるから、それを強要することは戦前教育への反省の観点からも受け入れられない』
というものですが、本気でそんなことを考えているなら教職課程からやり直してきたらいいと思わざるを得ません。それに、たとえ《君が代》の歌詞が天皇賛美だとしても、そのことに何ら問題は無いはずなのです。
日本国憲法において天皇は『日本国の象徴』であると定められています。であるならば『君が代=天皇の代=日本国の代』という解釈が成り立ちますから、国の象徴としての天皇陛下の弥栄を歌う《君が代》の歌詞は日本国という国体の弥栄を歌うものでもありますから、何ら問題にはならないのです。
ついでに言うと、白地に赤丸の日章旗が定着したのは源平合戦からといわれています。
源氏と平氏が雌雄を決する源平合戦では、互いに自分たちこそが日本国の覇者となることを胸に戦っていました。その戦に臨む際に、平氏は赤地に白丸の、源氏は白丸に赤丸の日章旗を掲げて戦いました。
そして源氏が勝利して以来日章旗は白地に赤丸が定着し、以降天下の覇権を争う場面では各武将が白地に赤丸の日章旗を掲げて
「吾こそは日本国の覇者である」
という意志を示していましたが、もし源平合戦で平氏が勝利していたら、今頃日章旗は赤地に白丸だったのかも知れないのです。現在の教職員で、こうした逸話を理解している人間がどれくらいいるのでしょうか。
それに、そんなに日章旗と《君が代》が気に食わないのなら、それに代わる対案を示してから文句をつけるべきです。もっとも彼らに、源平合戦から連綿と使われ続けてきた千年単位のデザインである日章旗と、平安時代の和歌を基にした千年単位の歌詞をもつ《君が代》を駆逐するような妙案があるとは思えませんが。
そんなわけで文化の日である今日は、日本国歌である《君が代》に今一度思いを馳せていただきたいと思います。一部諸外国の国歌のように『戦いの勝利』や『先人たちの血』という言葉がひとつも出てこない日本国ならではの典雅な国歌を、これからも大切にしていってもらいたいものです。