今日はまた、日中は夏日に迫る暖かさとなりました。こうなると、もう長袖シャツ全部が御役御免になってもおかしくない状況となってきています。
そんな暖かさに誘われて、様々な花が咲いています。我が家の近所でも
色鮮やかな山吹の花が咲いていました。
山吹の花といって思い出すのが、厚木の隣の伊勢原市に所縁の深い室町時代後期の武将・太田道灌(1432〜1486)の『山吹の里』伝説です。これは、かつて戦前の教科書には必ず載せられていた逸話です。
ある日、鷹狩に出かけた道灌は俄か雨に遭い、雨具の簑を借りようと一軒の農家に立ち寄りました。ところが、家から出てきた娘は
(月岡芳年『新撰東錦繪 太田道灌初テ歌道ニ志ス図』)
花が咲いた一枝の山吹を黙って差し出すのみで、彼女の意図を理解できなかった道灌は蓑を借りようとしたのに山吹の花を出されたことにたいそう腹を立てながら館に帰りました。
後でこの話を家臣にしたところ、それは後拾遺和歌集に載せられている兼明親王(かねあきらしんのう)の
「七重八重花は咲けども
山吹の実の一つだになきぞ悲しき」
という歌に掛けて、
「山間(やまあい)の茅葺きの貧しい家なので、お貸しする蓑(実の)ひとつ持ち合わせがないことが悲しい」
ということを奥ゆかしく答えたのだ…ということを教わりました。その話を聞いた道灌は古歌を知らなかった己の無学を恥じてそれ以後は歌道に励み、やがては歌人としても名高い人物になった…という伝承です。
この伝承の『山吹の里』とされる地は、現在では複数箇所存在しています。
道灌が江戸城を築城した東京都内では、豊島区高田の神田川に架かる面影橋近くに『山吹の里』の碑が建てられ、そこから1kmほど東へ行った新宿区内には山吹町の地名があるほか、荒川区三河島地域などが伝説地に比定されています。他に神奈川県横浜市金沢区六浦や、埼玉県越生町にも『山吹の里』と称する場所が存在しています。
しかしこの山吹伝説は、江戸時代に掛川藩主となった太田家が編纂した家譜である『太田家記』には見えず、伝説の初出が江戸時代中期に儒学者の湯浅常山(1708〜1781)が編纂した『常山紀談』まで下るため、話の信憑性には疑問が残るものとなっています。因みに古典落語には、この故事をもとにした『道灌』という演目があります。
事の真偽のほどはともあれ、『簑が無い』ということをここまで奥ゆかしく伝えられた農家の娘の才覚と品性は秀逸です。どうせ子どもたちに学校で古典を教えるなら、こうした機知に富んだ洒脱も盛り込むべきだと思います。
明日は、また雨が降るようです。