東十条探偵団2

明日は何を撮りに行こうかな?

圓通寺の記号は土に埋没

2020-06-05 | 散歩
  次に向かったのは毎日見ながら通勤している円通寺、
  昭和通りを通勤しているけど三ノ輪あたりから南千住にかけては
  お寺さんがたくさん見られる。
  でもここは幕末の遺物がある有名な寺である。


  

     昭和通りを三ノ輪から南千住辺りまで帰ったところにある「円通寺」。
     
     東日本大震災発生の翌日、私は無事だったのでとりあえず職場に向かいました、
     もちろん電車は動いていません今と同じように自転車で。
     西新井橋を渡ったころから道路を歩く人たちの列が目に入り始めました、
     日光街道へ出るとその数は膨れ上がり行列はいつ果てるともなく延々と続いていました。
     電車が無く徒歩で家に向かう人たちの列。疲れ果てた顔、空ろな目、無気力にただ俯いて歩くだけ、
     その異様な光景は今でも生々しく思い出されます。

     職場も異常が無かったので電話で会社に報告したあと私も帰路に、
     ここに差しかかったときこの観音様の姿が目に入りました。
     思わず自転車を降りて前に立ち手を合わせました、が
     なにを祈ったのか思い出せません、こんな状況では祈る言葉も思いつかなかったかも。




  

     さて、入ってすぐの左側に石柱があります、「百観音碑」です、
     この台座に「几号(きごう)水準点」が彫られているはずですが。




  

     台座は土に埋まっていてよく見えません、
     この「几号(きごう)水準点」を探すのに参考させてもらったブログの管理人さんが
     「少し土を掘って見やすくした」と記されていたのでならば私も・・・。
     いや掘ったままになっていたのでさらに数センチ掘っただけです、許してちょんまげ。




  

     ここには幕末の激動期の遺物もあり、
     彰義隊士の墓とか寛永寺の総門であった黒門などが見られます。




  

     上野戦争の敗北によって幕府軍は多くの遺体を残して敗走したが
     供養するものもなくそのまま打ち捨てられていた。
     ここ円通寺の和尚はそれらを集め火葬に処しここに埋葬して供養した。




  

     その戦いの舞台となったのは上野寛永寺あたり、
     寛永寺の総門であった黒門と呼ばれた門が移築されている。
     おびただしく残る弾痕がその戦争の激しさを物語っている。




  

     内側から見た黒門。
     最盛期の寛永寺は30万5千坪、寺領11,790石を賜り
     その広さはというと今の上野動物園の約2倍の広さだった。
     明治維新後その広大な境内地は没収され上野駅や
     上野動物園となった。
     幕府軍最後の砦であった寛永寺の総門が真っ黒に塗られた黒門であった。




  

     ここは寺にも関らず狛犬が置いてある、
     いやこんな寺は結構あるけどちょっと面白いね。

     ここの「几号(きごう)水準点」は半ば土に埋もれていたため
     掘り出したりして見ましたが、
     次は堂々と神社の鳥居に彫られていました。
     最後に向かうのはこれもお馴染み素戔嗚神社です。

          data: PowerShot G12。 撮影 5月30日 荒川区・円通寺
          
コメント (2)
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