フィリピンのダバオ市ミンタルで生まれた。目が覚めると山の中の横穴だった。その日から昼は山の中に身を潜め、夜行動した。多くの日本人たちの中に両親と11歳、9歳、7歳の姉、5歳の兄、そして3歳の私がいた。
ある夜、やっとたどり着いた川のほとりで一休みしていた時、ダッダッダッ……と速射砲の音。同時に母の悲鳴が。太ももに弾のかけらが剌さったのだ。麻酔もかけず、父が護身用のナイフで金属のかけらを取り出したという。
お日様が昇るまでに川を渡らなければ命が危ない。動けない母は、手のかかる私と自分を残して前に進むよう父に懇願したらしい。無言のまま父は5人で川を渡り、長姉と2人引き返してきて父が母を、姉が私を背に再度川を渡り、やっと山の中にたどり着いたのだった。
移動が難しい私たちは数日後、その場所で一緒にいた数家族の人たちとアメリカ兵に見つかり、捕虜となった。
若いアメリカ兵に抱きかかえられた時、私は栄養失調で頭髪が半分以上抜け、泣く力もなかったらしい。
その時、一粒の甘いものが□に入れられた。それがドロップだった。
何ともいえなかったあの味とともに、私たち家族の終戦は訪れた。
今もドロップを口に入れると、かすかな記憶と姉から聞かされてきた苦難の日々が思われる。
山□県美祢市 矢田部トモ子・68歳 2009/8/30 女の気持ち掲載
ある夜、やっとたどり着いた川のほとりで一休みしていた時、ダッダッダッ……と速射砲の音。同時に母の悲鳴が。太ももに弾のかけらが剌さったのだ。麻酔もかけず、父が護身用のナイフで金属のかけらを取り出したという。
お日様が昇るまでに川を渡らなければ命が危ない。動けない母は、手のかかる私と自分を残して前に進むよう父に懇願したらしい。無言のまま父は5人で川を渡り、長姉と2人引き返してきて父が母を、姉が私を背に再度川を渡り、やっと山の中にたどり着いたのだった。
移動が難しい私たちは数日後、その場所で一緒にいた数家族の人たちとアメリカ兵に見つかり、捕虜となった。
若いアメリカ兵に抱きかかえられた時、私は栄養失調で頭髪が半分以上抜け、泣く力もなかったらしい。
その時、一粒の甘いものが□に入れられた。それがドロップだった。
何ともいえなかったあの味とともに、私たち家族の終戦は訪れた。
今もドロップを口に入れると、かすかな記憶と姉から聞かされてきた苦難の日々が思われる。
山□県美祢市 矢田部トモ子・68歳 2009/8/30 女の気持ち掲載
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