「古代ギリシャの学問とは何か」「古代ギリシャ哲学、その学びかたへの招待」(悠季真理 学城所収)読み返しています。
自身のアタマを如何に創っていくべきかを示してくれる論文であるだけではなくて、古代中国哲学(思想?)の学びの導きの灯ともなる論文であるとの思いします。
「古代ギリシャの学問とは何か」「古代ギリシャ哲学、その学びかたへの招待」は古代ギリシャ哲学の誕生の謎を説(説)いてくれる、ほとんど唯一の論文であると思えます。
それだけに「個体発生は系統発生をくり返す」べく自身のアタマを創って行く道筋を示してくれる論文であると思えます。
またそれだけでは無くて、東洋医学の原点である古代中国哲学(思想?)を学ぶ上で、どうしても学ばねばならない論文であると思えます。
それには大きく二つの意義あると思えます。一つは人類の古代という時代の社会に生まれて発展していく古代ギリシャ哲学と古代中国哲学(思想?)との同似性の故、どのように中国古代哲学(思想?)を捉えるべきかという視点を教えてくれる、例えば漸くに認識を言語化、文章化出来る様になった段階の古代の人類の認識のレベルを現代の人類と同レベルで考えてはならない等々、という面で役立つという面。
もう一つは、人類の学問・文化・精神の歴史の王道である、古代ギリシャ・ゲルマンという流れの原点としての古代ギリシャ哲学を知ることで、人類の学問・文化・精神の歴史の傍流である中国思想(東洋医学思想)の原点からの流れもよく分かる、長所・短所も分からせてくれるということであると思えます。
鍼灸界の人々に取っては、おそらく「学城」(現代社)も、そこに連載されている論文「古代ギリシャの学問とは何か」「古代ギリシャ哲学、その学びかたへの招待」(悠季真理)も、まず目にすることも無いと思えるのですが、鍼灸・東洋医学の理論的学びをと志す皆さんには、賛成するにせよ反対するにせよ、是非とも一読いただきたいものとの思いします。
自身のアタマを如何に創っていくべきかを示してくれる論文であるだけではなくて、古代中国哲学(思想?)の学びの導きの灯ともなる論文であるとの思いします。
「古代ギリシャの学問とは何か」「古代ギリシャ哲学、その学びかたへの招待」は古代ギリシャ哲学の誕生の謎を説(説)いてくれる、ほとんど唯一の論文であると思えます。
それだけに「個体発生は系統発生をくり返す」べく自身のアタマを創って行く道筋を示してくれる論文であると思えます。
またそれだけでは無くて、東洋医学の原点である古代中国哲学(思想?)を学ぶ上で、どうしても学ばねばならない論文であると思えます。
それには大きく二つの意義あると思えます。一つは人類の古代という時代の社会に生まれて発展していく古代ギリシャ哲学と古代中国哲学(思想?)との同似性の故、どのように中国古代哲学(思想?)を捉えるべきかという視点を教えてくれる、例えば漸くに認識を言語化、文章化出来る様になった段階の古代の人類の認識のレベルを現代の人類と同レベルで考えてはならない等々、という面で役立つという面。
もう一つは、人類の学問・文化・精神の歴史の王道である、古代ギリシャ・ゲルマンという流れの原点としての古代ギリシャ哲学を知ることで、人類の学問・文化・精神の歴史の傍流である中国思想(東洋医学思想)の原点からの流れもよく分かる、長所・短所も分からせてくれるということであると思えます。
鍼灸界の人々に取っては、おそらく「学城」(現代社)も、そこに連載されている論文「古代ギリシャの学問とは何か」「古代ギリシャ哲学、その学びかたへの招待」(悠季真理)も、まず目にすることも無いと思えるのですが、鍼灸・東洋医学の理論的学びをと志す皆さんには、賛成するにせよ反対するにせよ、是非とも一読いただきたいものとの思いします。
【柳谷素霊の著作にあたってみれば分かる様に、昭和始め頃の鍼灸というものは、痛いところに鍼灸を施す、あるいは胃痛にはこのツボ、頭痛にはこのツボ、ものもらいにはこのツボ......といった対症療法的なもの、でしか無かった。
古来から伝わる本来の鍼灸として、現在、我々がイメージするものは、そんな経験レベルのことしか出来ない鍼灸では、科学化の名の下に消滅させられるとの危機感を抱いて、鍼灸の科学化を志した(後の)経絡治療学会の先生方が、現在から過去に至るあらゆる鍼灸の技・事実を学んでいく中で、中国古代の古典に着目し、それを弁証法の力を借りて科学化(=論理化)しようとして、のである。(と自身は捉えている。)
その企ては素晴らしいと思う。
しかしながら、中国古代の東洋医学・鍼灸を学ぶにあたって、我々が古代ギリシャ哲学を学ぶのと同様のミスを犯してしまっている、と思う。
それは端的には、古代中国という時代・社会とそこに生きた人類を、現在の我々と同じレベルの、であると誤解してしまっている、ということである。これは、良くも悪くもである。(古代中国の鍼灸を自分達の遠く及ばない神技の世界と崇めたてまつるのも、迷信の世界と切り捨ててしまうのも、どちらも誤りである、と思う。)
我々は先ず何よりも、古代中国という時代・社会をあったであろうままに視ることから始めるべきであろう。
そのための必読論文が、「古代ギリシャの学問とは何か」「古代ギリシャ哲学、その学びかたへの招待」(悠季真理 学城所収)である。】