ねんげみしょう【拈華微笑】ことばを用いずに、心から心に伝えること。以心伝心。[故事]釈迦が説法したとき、黙ってハスの花をひねって大衆に見せたところ、摩訶迦葉が1人その意を解して微笑していたので、これに奥義を授けたという。(『学研 現代新国語辞典 改訂第四版』金田一春彦・金田一秀穂 編)
今朝のブログ記事は、スマッシュ・ハイクリアといったオーバーハンドストロークの習得に、10か月もの月日が必要であった、がようやくしてそれが(初歩レベルではあるが)出来るようになった、と喜び一杯の、であった。
その記事を書く中で、自身のバドミントンの学び始めから現在までの10ヶ月間を、練習の1コマ1コマという形で思い返してみると、自身を指導してくださっている現在のコーチは、バドミントン教室の初日からオーバーハンドストロークの打ち方について正しい形を指導してくださっており、なおかつ実際に打つ姿を見て、「シャトルを迎えに行ってはだめだ。」「シャトルをパシッと叩かなければだめだ。」等々と、現在、自身ができるようになったと喜んでいることを、既にしっかりと指導してくださっていたのだ、ということに気付かされる。
そのことに関連して想起されたのが、「拈華微笑」の故事である。「できるようになってみなければ、説明されてもわからないということがあるのだなあ、これはまさに拈華微笑だなあ。」と
また、現在のバドミントン教室のコーチほどの指導力があっても、自身の認識の言語化や被指導者の実体からその認識を見て取ることができないのだなあ。と、認識論の実力の必要性・必須性が痛感された。