昨夜、『鍼灸・東洋医学を科学に学ばねばならない根本的理由』として、アタマに浮かんだことを書いた。
肝心の一点が説かれていないので、読んでいただいた皆さんには、分かったようで分からないような、なんとももどかしい文章との思いをさせたのでは、と思う。
さて、その肝心の一点とは、言わずもがなの「学問とは何か」である。別言すれば、学問の学問たる所以とか、その真髄といっても良いと思うが、それは端的には、「学問というものは自身の専門分野を、また世界を一貫した筋で説き(解き)きるということ」である。
その一点が分かれば、「何故に鍼灸は科学的に学ばねばならないのか?」として説いた昨夜の記事が「そういうことね!」と理解していただけると思う。
つまり、「学問の真髄は全てに一貫した筋を通すこと」であるから、日常は唯物論的、鍼灸・東洋医学は観念論的でという矛盾はあってはならないのであり、現代という時代・社会においては、日常を観念論的に、ということは至難の技であるから.......例えば、インターネットをし、電車に乗り、車に乗り......冷蔵庫を使い、テレビを観......これらに観念論的説明を与えて、筋を通すが、出来るだろうか?という問題である。
これが、昔昔の例えば古代中国であれば、そこには何の矛盾も無い。
春には青龍が、夏には朱雀が......であり、鬼や天帝が世界を支配する......天の気と地の気が一緒になって作物が育ち......そんなことが当たり前としてまかり通った時代・社会なのであるから、その日常と鍼灸・東洋医学とを一貫した筋で説ききることには何の困難も無い。
それに対して、日常は唯物論的に、鍼灸・東洋医学は観念論的に、と区別して使い分けているから良いのでは?との反論があると思う。
確かに、全てを一貫した筋で、という壮大さは無いにしても、それならばなんとかいけそうな気がする(本当はそうでも無いのだが......例えば、患者への説明)
しかし、である。これはやはりダメなのである。それは、アタマの創られ方の、技化の問題である。
簡単には、日常生活と学問とでアタマの働かせ方が二刀流になり、結局はどっちつかずの、説明がつきやすいほうでの、ここでは唯物論的、あそこでは観念論的ということになってしまって、そういう二刀流的アタマを創ってしまって、全てを一貫した筋で説くという本当の学問は夢のまた夢、ということに。
以上、昨夜の記事の補足である。