MJHA(日本を再び健康な国に)〜東洋医学の実践的理論研究~

MJHA(日本を再び健康な国に)という志で、食・運動(姿勢)・休息(睡眠)に関わる問題等を論理的に説きます。

鍼灸・東洋医学を科学的に学ばねばならない根本的理由(補足)〜学問とは〜

2024-11-12 13:20:40 | 鍼灸理論・東洋医学
昨夜、『鍼灸・東洋医学を科学に学ばねばならない根本的理由』として、アタマに浮かんだことを書いた。

肝心の一点が説かれていないので、読んでいただいた皆さんには、分かったようで分からないような、なんとももどかしい文章との思いをさせたのでは、と思う。

さて、その肝心の一点とは、言わずもがなの「学問とは何か」である。別言すれば、学問の学問たる所以とか、その真髄といっても良いと思うが、それは端的には、「学問というものは自身の専門分野を、また世界を一貫した筋で説き(解き)きるということ」である。

その一点が分かれば、「何故に鍼灸は科学的に学ばねばならないのか?」として説いた昨夜の記事が「そういうことね!」と理解していただけると思う。

つまり、「学問の真髄は全てに一貫した筋を通すこと」であるから、日常は唯物論的、鍼灸・東洋医学は観念論的でという矛盾はあってはならないのであり、現代という時代・社会においては、日常を観念論的に、ということは至難の技であるから.......例えば、インターネットをし、電車に乗り、車に乗り......冷蔵庫を使い、テレビを観......これらに観念論的説明を与えて、筋を通すが、出来るだろうか?という問題である。

これが、昔昔の例えば古代中国であれば、そこには何の矛盾も無い。

春には青龍が、夏には朱雀が......であり、鬼や天帝が世界を支配する......天の気と地の気が一緒になって作物が育ち......そんなことが当たり前としてまかり通った時代・社会なのであるから、その日常と鍼灸・東洋医学とを一貫した筋で説ききることには何の困難も無い。

それに対して、日常は唯物論的に、鍼灸・東洋医学は観念論的に、と区別して使い分けているから良いのでは?との反論があると思う。

確かに、全てを一貫した筋で、という壮大さは無いにしても、それならばなんとかいけそうな気がする(本当はそうでも無いのだが......例えば、患者への説明)

しかし、である。これはやはりダメなのである。それは、アタマの創られ方の、技化の問題である。

簡単には、日常生活と学問とでアタマの働かせ方が二刀流になり、結局はどっちつかずの、説明がつきやすいほうでの、ここでは唯物論的、あそこでは観念論的ということになってしまって、そういう二刀流的アタマを創ってしまって、全てを一貫した筋で説くという本当の学問は夢のまた夢、ということに。

以上、昨夜の記事の補足である。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« (加筆)東洋医学の学びの総括(序-2)〜総括の形式と内容... | トップ | 『ニコマコス倫理学』を読む... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。