『カラアゲに関わる認識論』をブログ記事として書き出してみると、未知の事柄を書く=文章化することの難しさ痛感させられている。
それは二重にである。一つは自身のアタマの中の映像を書くということの難しさであり、それに加えて、書くべきアタマの中の映像は、書く以前には明確な形となっていないという二重の難しさである。
それゆえ、断言的に書くこと能わずで、ああだろうか?こうだろうか?ああでもない!こうでもない!......と迷いに迷っての、となっている。
そのブログ記事を読み返して、想起されたのがアリストテレスの文章である。
そこで、手元にあった『ニコマコス倫理学(下巻)』(岩波文庫)を読み返している。
結論的にいえば、未知の問題を様々な角度からテーゼを立て、それに対してのアンチテーゼを闘わせる、そういう形で考えていくことで、これはこういうことなのだ!、との結論へ向かうことそのものが思弁であり、結論の正否はでは無しに、過程の正否こそが、どの様に考えてその様な結論になったか?の「どの様に考えて」という部分こそが大切であり、その考えるということの深み、広がりこそが思弁ということなのだ、との思いとなっている。