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昨日は『看護のための「いのちの歴史」の物語』(以降、「いのちの歴史」と書く」の、猿における「問いかけの芽生え」の記述を見ていくことで、自身の頭をしっかりと整理した、していこうとした。
そこから、これで「唐揚げ」に関わる自身の認識 = 映像を見ていける!としたところまでであった。
それゆえ、本日は「唐揚げ」に関わる自身の認識 = 映像を見ていくところから始まる予定であった。
しかしながら、「いのちの歴史」の猿における「問いかけの芽生えが説かれていると思える「第2節 脳の「問いかけ的認識」の芽ばえの過程を見よう」の後の章「第4節 樹上から降りたサルはヒト(人類)への過程をたどる」「第5節 ヒトから人間への過程は労働によって発達した認識によって」を、今朝、読み返してみると、そこには「サルの問いかけ的に認識の芽生え」から人間の労働への過程が、しっかりと説かれている、と思えた。(昨日読んでいる時には労働ということが「問いかけ的認識の芽生えと繋がっていかなかった、というか、そもそも何を説いていただいているのか、読んでも読んでもわからなかった、(これがもどき像か?)であった。
それゆえ、本日は、もう少し「いのちの歴史」の引用から始めようと思う。
「端的に言えば労働の可能性を秘める に至ったサルが労働する過程を持つことにより、ヒトへ、そして人間へと発展した......
労働とは何かといえば、自らの脳が描く像 = 認識によって、外界へ働きかけ、外界を変化させること......
自らがそれぞれに、脳に形成した像 = 認識で、外界へ働きかけ、外界を変化させていきながら、それに対応するレベルで自らを変化させ(発展させ)ていくのが、人間の労働の過程的構造
これが、決められた本能で脳に描かされた像で、外界と決められたように関わっている。動物とは大きく違うところ
すなわち、動物は本能で決められたように、地球によっていわば受動的に生かされて(生活させられて)いるのですが、人間だけは自らが創った認識で、目的的に地球に働きかけながら、その働きかける行動により自らも変化し(変化させられ)、また、その働きかけでいくことによって変化していく、新たな地球の反映を受けとることの連続で、人間は地球を自らが生きるのに都合がよいように変革し、かつ人間そのものである自らをも変革し(させ)てきた......
それが、現代に至るまで連綿と続いてる、人類の歴史性であり、そうして築きあげてきたものの中身の一般性が、私たちが簡単に文化と呼んでいるものの正体なのです。」
「猿の脳はしっかりとした外界の反映を定着させた像を形成する実力を持つとともに、一方で反映でもあり反映でもないもどき像を描く実力もつき、さらには、二つの像のギャップに、「ん?」と問いかける実力もついていった......
樹上から大地を見下ろし、様々なものを見てとれるようになり、それらに対して、「ん ?」「あれ ?」 という問いかけをもつようになり、それらを、いうなれば確認したくなるような(冒険心をもつことになるような)頭脳の働きをもつことになったことが、端的には、いわゆる勇気という認識の力を養成することが可能となり、その勇気の力が冒険心として発展していったがために、木を降りることになったのであり、そのような冒険心・勇気力という実力を持つようになったサルが、人への過程を歩むことになった。」
引用が長くなったので、かつ引用部分を読み、返し、書き写すことで、自身の「問いかけ的認識の芽生え」から「問いかけ的認識」へという映像が、別言すれば、サルからヒトへの認識の発展ということの映像が、より明確になっていった(深まっていった、いきつつある)との思いがあるので(もどき像から明確な像へということか ?)、一旦ここまでにしたいと思う。
(この項続く)