『看護のための「いのちの歴史」の物語』(現代社白鳳選書20)を読み返している。「問いかけ的反映」ということが本当には分かっていなかった、ということ痛感させられている。
自身の「問いかけ的反映」ということのイメージは、(動物の外界の反映というものが、対象のあるがままの反映の映像であるのに対して)人間の外界の反映というものは、自身のそれまでにある映像を二重写しにして見ての、対象の反映の映像である。
それゆえに、人間だけに「幽霊の正体見たり枯れ尾花」ということがあるのだ。という薄い知識的なものであった、でしかなかった。
(そんな浅い知識的理解であったからの、実際の自身のアタマの中の映像を追ってみると、追いきれず......慌てて、『看護のための「いのちの歴史」の物語』を読み返すことに。)
そのような自身の人間の認識の知識・理解に対して、『看護のための「いのちの歴史」の物語』では、人間の認識の直接の原点であるサルの認識(?)が、以下の如くに説かれて(解かれて)いた。
「サルは樹上での生活で、しっかりとした外界の反映を定着させた像と、反映でもあり反映でもないもどき像を、二重に描く脳の実力を、少しずつつけていくことになりました。
......きちんとした反映像と、そうでないもどき像の落差を感じ取ることが、繰り返されることになる
.......そうするとここでこの過程で「問いかけ的認識」への芽生えが、何となくながら生まれはじめ、そこからやがて「ん ?」というような、もどかしさの感覚がしだいしだいに生じはじめていくことになります。
簡単に言えば、きちんとした反映像ともどき像のギャップに、「ん ?」という問いかけをもつようになって
......もちろんこれは、まだ問いかけというほどに明確なものではなく、本能によって一方的に外界を反映させるだけだった脳が、おぼろげな「ん ?」 という、問いかけの像を形成するようになったということは、魚類で誕生し発展してきた生命体の脳にとっては、まさに革命的な出来事であった、ということなのです。
......このおぼろげな「ん ?」 という像が、「あれ ? 」とでもいうような像へと発展し、その像によって、逆に外界を見つめ直し、その自らが描いてしまったもどき像が、正しいのかどうかを確認するようになれば、これはもうサルからヒト(人類)への道をしっかりと歩き始めていることに......」(『看護のための「いのちの歴史」の物語』現代社白鳳選書20)
以上、長々と引用したが、自身のイメージしていた「認識とは問いかけ的反映である。」とは、大きく違った深さ広さで、『看護のための「いのちの歴史」の物語』には、「問いかけ」という認識の誕生、芽生えが説かれて(解かれて)あった。
まだ、アバウトな理解であるけれども、どうにか自身の「カラアゲ」に関わる認識=映像を追っていけそうである。