絵に関わるブログ記事を続けてアップしている。指圧やマッサージ、あるいは食や運動についての記事であるならばまだわからないでもないが、何故の絵なのか?との批判が当然にあることと思う。
それについての少しばかりの弁明?を、と思う。
鍼灸のブログで、絵に関わるブログ記事を書く理由は二つある。一つは、学問というものは、全てを一つの筋道で説く(解く)ことにその真髄がある、との理解があるからであり、もう一つは、鍼灸や手技療法の修業において絵の修業の経験が役に立ったから、(自身 にとっては)である。
後者は自身の個人的の、でもあるので前者について簡単に説けば、絵の修業の問題も鍼灸の修業の問題も現象としては違うけれども、本質は同じという面があるから、というかその共通性を見て取る実力も論理的な実力であるから、ある程度の事実が分かれば、専門が違ってもそのことの構造を見て取れる=分かる、筈である。
であれば、その見て取ったと思える論理を文章化することが、自身の論理的な実力(全てを同じ筋道で捉える実力)の試しであり、論理的な実力(全てを同じ筋道で説く実力)を培うプロセスでもある、と思える。からの本ブログでの絵に関わる記事を書く理由である。
ついでに言えば、これは以前にも本ブログで説いたことではあるが、現代においての東洋医学が観念論的理論であることの不可な所以も、ここにある。
どういうことかといえば、学問(哲学)という観点からは、唯物論であれ観念論であれ、その論理や体系が見事なものあれば、それは高く評価されるべきもの、と思える。
例えば、アリストテレス、カント、ヘーゲル等々、過去の偉大な哲学者の書を一読すれば......である。
しかしながら、その実力を培うプロセスにおいて、現代では、観念論では全てを一つの筋道で、とはいかない。
何故かならば、物質文明が支配的な現代という時代、社会においては、少なくともそこでの日常生活の諸々の「ものごと」は、科学技術の進歩のおかげであり、唯物論的に考えた方が筋が通る、観念論的に考えては筋が通らない、という現実があるから、観念論ではなかなかに一つの筋道で、とはいかない。
例えば、自然や人間に関わっては観念論的な説明を与えて、「気」で説明して済ましてしまうことも出来ないことも無いけれども、科学技術の産物である自身を取り囲んでいる諸々のものを、例えば日常レベルのものである「エアコン」や「パソコン」等の電機機器すらが観念論的な「気」からの説明では、仮に自身は無理矢理に納得したとしても、周囲の人々にその説明を納得させることは不可能に近い、という現実がある。
それゆえに、自身の専門である鍼灸や人間、自然に関わっての、端的には、先人が観念論的に解いてくれている部分については、観念論的に解く(説く)ことが可能であっても、自身を取り巻く、現代の物質文明、科学技術の産物については、どうしても唯物論的に考え、説かざるを得ないことから、アタマの働きはどうしても唯物論的と観念論的の二刀流になっていかざるを得ない。
これに対して、学問としては不味くても、それでそれぞれの問題に対処していければそれでいいのではないのか?との反論もあるかとは思うが、それのみならず、大多数の伝統的鍼灸を標榜する先生たちはそのように使い分けている、とは思うが、それでは、学問としての、全てを一つの筋道で解いて(説いて)行くことによって培われていく筈のアタマの冴えが培われない、のだと思える。
それについての少しばかりの弁明?を、と思う。
鍼灸のブログで、絵に関わるブログ記事を書く理由は二つある。一つは、学問というものは、全てを一つの筋道で説く(解く)ことにその真髄がある、との理解があるからであり、もう一つは、鍼灸や手技療法の修業において絵の修業の経験が役に立ったから、(自身 にとっては)である。
後者は自身の個人的の、でもあるので前者について簡単に説けば、絵の修業の問題も鍼灸の修業の問題も現象としては違うけれども、本質は同じという面があるから、というかその共通性を見て取る実力も論理的な実力であるから、ある程度の事実が分かれば、専門が違ってもそのことの構造を見て取れる=分かる、筈である。
であれば、その見て取ったと思える論理を文章化することが、自身の論理的な実力(全てを同じ筋道で捉える実力)の試しであり、論理的な実力(全てを同じ筋道で説く実力)を培うプロセスでもある、と思える。からの本ブログでの絵に関わる記事を書く理由である。
ついでに言えば、これは以前にも本ブログで説いたことではあるが、現代においての東洋医学が観念論的理論であることの不可な所以も、ここにある。
どういうことかといえば、学問(哲学)という観点からは、唯物論であれ観念論であれ、その論理や体系が見事なものあれば、それは高く評価されるべきもの、と思える。
例えば、アリストテレス、カント、ヘーゲル等々、過去の偉大な哲学者の書を一読すれば......である。
しかしながら、その実力を培うプロセスにおいて、現代では、観念論では全てを一つの筋道で、とはいかない。
何故かならば、物質文明が支配的な現代という時代、社会においては、少なくともそこでの日常生活の諸々の「ものごと」は、科学技術の進歩のおかげであり、唯物論的に考えた方が筋が通る、観念論的に考えては筋が通らない、という現実があるから、観念論ではなかなかに一つの筋道で、とはいかない。
例えば、自然や人間に関わっては観念論的な説明を与えて、「気」で説明して済ましてしまうことも出来ないことも無いけれども、科学技術の産物である自身を取り囲んでいる諸々のものを、例えば日常レベルのものである「エアコン」や「パソコン」等の電機機器すらが観念論的な「気」からの説明では、仮に自身は無理矢理に納得したとしても、周囲の人々にその説明を納得させることは不可能に近い、という現実がある。
それゆえに、自身の専門である鍼灸や人間、自然に関わっての、端的には、先人が観念論的に解いてくれている部分については、観念論的に解く(説く)ことが可能であっても、自身を取り巻く、現代の物質文明、科学技術の産物については、どうしても唯物論的に考え、説かざるを得ないことから、アタマの働きはどうしても唯物論的と観念論的の二刀流になっていかざるを得ない。
これに対して、学問としては不味くても、それでそれぞれの問題に対処していければそれでいいのではないのか?との反論もあるかとは思うが、それのみならず、大多数の伝統的鍼灸を標榜する先生たちはそのように使い分けている、とは思うが、それでは、学問としての、全てを一つの筋道で解いて(説いて)行くことによって培われていく筈のアタマの冴えが培われない、のだと思える。
観念論での
論理的に筋一本で生きゆく事の至難さが
よく理解できました。
♪♪♪おりがとうございます♪♪♪
だからといって…
現代の唯の唯物論でも、
その至難は、
それ程変わりないモノでしょうね。
そもそも…
現代社会で、
「全てを一つの筋道で~」
なんて、
誰が求めているのでしょうか?
少なくとも、
『私もそうなりたい!』と
思っていると
思い込んでいますが…
お互いに真の同志―
(同じ志を抱いていると信じている者同士)
ですね。