絵を描くことの上達(だけでは無いが)にも認識論の学びは必須のものと思える。
絵のまともな学びを、との思いから「石膏デッサン」(それは、専門家レベルの、あるいは美大受験のための、修業の基本とされている、いた?)に三十数年ぶりに取り組んでいる。
自身が昔々に絵を描いていた時には、描けば上達する、描いても上達しないとすればその人には才能が無い!との、絵は才能であるという根本発想によるケンカ拳法的な上達論しか無かったが、それゆえにか、上手く描けないのは対象をよく見ていないからだと指導され、ひたすら石膏像を見つめ続ける日々であった。
(おかげで自身の視力は1.0から0.5くらいになっていってしまった。しかしながら、一方で、自身の陰影のトーンを視る能力は確かに鍛えられ、例えば、通常は黒一色としか見えない対象の陰影の中にいくつものトーンを見分ける、見つけることができるようになっていったのではあるが......)
しかしながら、現在では絵を描くということにも、少なくともその技能の習得ということには、上達の方法がある、学びかたがある、ということになっている、と現在のデッサンの解説書やネットの情報を眺めると思える。
それはそれで結構なことであると思うが、そこには肝腎のもの、認識論が欠けている、と思える。
例えば、デッサンを描く場合に問題になるヴァルール(と呼ばれる全体描写の問題、訳語としては「色価」とされるもので、正確にいえば描かれた諸々のものが画面上で破綻なくあるべき空間に収まっている、あるべきところにある、ということだろうか......)と細部描写の矛盾について、ヴァルールと細部描写は同時には見れないから、交互に見て......と解説されている。
これは確かに、初心者レベルではそうである、そうとしか描けないのであるが、それなりにデッサンが上達した中級者レベルともなれば、細部を見ての描写をしながら同時に全体を観て描写する、あるいは全体を観ての描写をしながら細部を見て描写するということが、可能となっていく。
ここの構造は、例えば『弁証法はどういう科学か』(三浦つとむ著 講談社)でですら、認識論の問題として、認識の(自身の)二重化、世界の二重化の問題としてしっかりと説かれてある。にもかかわらず......。
絵の世界にも認識論が求められるべき、とその必要性が痛感される。
ついでに言えば、これは鍼灸や手技療法の世界についても全く同様であり、認識論の学びの無さが、諸々の問題(例えば脈診の問題、例えば証の問題、例えば東洋医学とは何かの問題......)を解けないままにであり、解いたとされる問題も......と思える。
絵のまともな学びを、との思いから「石膏デッサン」(それは、専門家レベルの、あるいは美大受験のための、修業の基本とされている、いた?)に三十数年ぶりに取り組んでいる。
自身が昔々に絵を描いていた時には、描けば上達する、描いても上達しないとすればその人には才能が無い!との、絵は才能であるという根本発想によるケンカ拳法的な上達論しか無かったが、それゆえにか、上手く描けないのは対象をよく見ていないからだと指導され、ひたすら石膏像を見つめ続ける日々であった。
(おかげで自身の視力は1.0から0.5くらいになっていってしまった。しかしながら、一方で、自身の陰影のトーンを視る能力は確かに鍛えられ、例えば、通常は黒一色としか見えない対象の陰影の中にいくつものトーンを見分ける、見つけることができるようになっていったのではあるが......)
しかしながら、現在では絵を描くということにも、少なくともその技能の習得ということには、上達の方法がある、学びかたがある、ということになっている、と現在のデッサンの解説書やネットの情報を眺めると思える。
それはそれで結構なことであると思うが、そこには肝腎のもの、認識論が欠けている、と思える。
例えば、デッサンを描く場合に問題になるヴァルール(と呼ばれる全体描写の問題、訳語としては「色価」とされるもので、正確にいえば描かれた諸々のものが画面上で破綻なくあるべき空間に収まっている、あるべきところにある、ということだろうか......)と細部描写の矛盾について、ヴァルールと細部描写は同時には見れないから、交互に見て......と解説されている。
これは確かに、初心者レベルではそうである、そうとしか描けないのであるが、それなりにデッサンが上達した中級者レベルともなれば、細部を見ての描写をしながら同時に全体を観て描写する、あるいは全体を観ての描写をしながら細部を見て描写するということが、可能となっていく。
ここの構造は、例えば『弁証法はどういう科学か』(三浦つとむ著 講談社)でですら、認識論の問題として、認識の(自身の)二重化、世界の二重化の問題としてしっかりと説かれてある。にもかかわらず......。
絵の世界にも認識論が求められるべき、とその必要性が痛感される。
ついでに言えば、これは鍼灸や手技療法の世界についても全く同様であり、認識論の学びの無さが、諸々の問題(例えば脈診の問題、例えば証の問題、例えば東洋医学とは何かの問題......)を解けないままにであり、解いたとされる問題も......と思える。