15/05/26 18:00
ところが今朝ふと閃いて、キーボードを打つ速度を文字変換の速度に合わせるイメージで打ってやると、文字変換のもたつきがほとんど無くなり、ゆっくり打っているのに逆に全体としての原稿を入力する速度は速くなり、文字変換のもたつきによるストレスもほぼ感じ無くなりました。
キーボードを打つことすらが、パソコンという相手に合わせてやることが必要なのだと、対象の構造に見合った働きかけの大事性痛感させられました。
さて、今日は「鍼の刺入は如何にあるべきか?」です。先日、同級生から「鍼が曲がって(撓んで)しまって上手く刺入が出来ない!」との質問受けました。
実際に刺入(鍼を刺すこと)をして見せてもらうと、確かに鍼が撓んでしまって上手く刺入出来ていませんでした。
そこで「鍼先に力・意識を集中させること」「力で刺入するのではなくて、鍼の切れ味で刺入する」という2点を、庖丁で野菜を切るという例を上げて説明すると、それまで撓んでしまって刺入出来なかったものが嘘の様に刺入出来る様になりました。
同様のことが指圧の場合にもあります。
指圧の施術の大きな部分を占めるものに、患者のコリを押すことで解すということがあるのですが、その際に、力づくで押すのではなかなかに解れず、患者も痛がるということになってしまうのですが、ここを指先に意識・力を集めて、力づくではなくてコリの解れていくのに合わせて押して行くとそれほどに力もいらず、患者も痛く無く解れて行くのですが・・・・・。(ここは手技療法術を説く時に改めて説きます。)
鍼の刺入においても指圧の場合と同じくに、鍼は刺さるものだからと鍼の切れ味、鍼自身の刺さる実力のままに、力まかせに刺入して行くのでは無しに、本当は、鍼の持つ切れ味=刺さる実力に、自身の刺す技をプラスしての二重構造で刺入することが必要なのでは無いかと考えさせられました。
形の上では同じく刺さっているであっても鍼術としての<刺入>と人間技としての<刺す>は区別してやる必要があるのではと思えます。構造的には、鍼術として鍼を打つことには二重構造があると捉えるべきだと思えます。
以上のことの意義は、それが施術・治療上でどのような違いを生むのかは、これからの自身の実践においてより深めて理解されねばならないのですが・・・・・。
【このブログ記事はもう10年近く前、本ブログを書き始めた頃のもの。
自身の実践、過去の実践を踏まえてのブログ記事であるので、それなりによくかけているとは思う。
しかしながら、技で鍼を打つ、刺すということの意義は、この当時でも自身が指圧の経験をそれ以前に、10年以上持っていたのであるから、それなりには書けたはずであるので、そこをしっかり書いて欲しかった。
端的には、技で指圧するのと力任せに指圧するのとの違いは二つあると思える。
一つは患者の体への負担の問題、どういうことかといえば、力任せの指圧では組織を痛めてしまう。青タンができたり、もみおこしが起こったりとなっていきやすい。
そしてもう一つは、これは何より大事なことなのであるが、技で押すと圧が奥深くに入り(力任せ=手押しでは、圧は表面、浅いところで止まってしまう)奥深くの神経にまで作用させられるということである。
指圧の場合はそういうことなのであるが、針の場合も同様のと思える。
力任せの鍼の刺入では、患者は痛いから力が入り、余計に刺入しにくくなるという悪循環に加えて、鍼によっての本来の刺激以外の痛いという刺激が加わっての、目的とする効果が得られない。と今では思っている。(鍼については、まだまだ実践が浅いがゆえに、指圧から考えて、多分こういうことだろうなというレベルでしかないが......。】