17/05/09 07:59
しかしながら……である。「生命の歴史」「人類の歴史」に自身の生きる指針を尋ねるならば、生命体も人類も、順風満帆の時には進化していない。環境の激変から逃げ出さず(逃げ出せず?)、(比喩的にいえば)頑張って、頑張って、頑張り抜いた生命体、人類だけが進化・発展を持てたのだ、ということである。
『モンテクリスト伯』(アレクサンドル・デュマ)の司教の言葉に、「(司教の牢獄での偉大な業績に、その素晴らしいアタマの働きに、「牢獄になど繋がれていなければ、どれほどのことがお出来になったでしょう!!」と司教を賛嘆するダンテスに対して)牢獄に繋がれていなければ、私のアタマは日常のつまらないことに費やされていただろう。何事かを成すには不幸が必要なのだ!力が集中されてはじめて光が生じる!」というようなものがあったと記憶しているが……。
それはさておき、本日の「虚実とは何か・補瀉とは何か」について。人間の解剖・生理から捉え返しておくことの必要性を感じる。
鍼灸の学びにおいて、特に東洋医学的鍼灸(というのもおかしな言葉ではあるが……)においては、「虚実に対して補瀉」というのは、鉄則といってもいいものとして捉えられている、教えられ学ばされている。
しかしながら、その中身はと言えば「何も無い」か「一般論レベルか具体のレベル」しか無いののだと思わされる。別言すれば、「構造論レベルの内容が無い」「解剖・生理からの捉え返しが無い」のだということが、痛感される。
本当は、「虚実と補瀉として古代の人々が捉えたものはなんだったのか?」「現代の目からみて、身体のどういう状態(解剖・生理的に)が虚実であり、補瀉であるのか?」それ以上に「虚実というのは、生命体が自身をどうしようとしている状態なのか?それに対して補瀉というのは、どうしてやっているということなのか?」ということを、後生である我々は究明していかねばならないのだと思う。
……詳細は改めて説きたい。
【竜頭蛇尾!当時の実力としては、やむを得ないところか。
「虚実を補瀉」、原点的には、打撲して晴れたものを針によって瀉血する。あるいは冷えて硬くなった部分に灸をして温める。この辺りが鍼灸の減点的なあり方だろうと思う。
そこから東洋医学的な気、全身の気の流れの問題として、また、その経路としての経絡・経穴の問題として捉え返すようになっていっての、「経絡の虚実を補瀉することが鍼灸である」となっていたのであろうか、と......いうくらいは書けた筈。】