宇治駅を出て、まず向かったのは橋寺放生院というお寺。
これを聞いてピンと来る人は古代史通ですね。
kaneurikichiji もつい最近まで知りませんでした。
ここの境内には「宇治橋断碑(うじばしだんぴ)」という石碑があります。
宇治橋断碑自体は昔から知っていて、いつか見たいと思っていたのですが、橋寺というお寺の境内にあるということまではうかつにも知りませんでした。
石碑は、道登というお坊さんが、人々が宇治川を渡るのに苦労していたのを見て、大化2年(646)に橋を架けた次第を記したもの。
宇治橋のたもとに建てられていたのでしょうが、いつしか川の流れにさらわれたのか、水没してしまったようです。
再び発見されたのは、今から300年前の江戸時代(寛政3年<1791>)。
しかし残念ながら、その時には石碑の上の部分しかなかったといいます。
断碑と呼ばれているのは、完全な形で残っていないからそう呼ばれています。
が、幸いにも『帝王編年記』という歴史書に碑文の全体が残されており、それを元に発見の翌々年、失われた部分が復元され、その後橋寺の境内に安置されたというわけです。
重要文化財に指定されていて、覆屋に納められていますが、いつでも見学できるわけではないようです。
そんなことも知らずに拝観できたkaneurikichiji は幸運でした。

現在の宇治橋(左)と宇治橋断碑

覆屋と橋寺の入り口。宇治橋断碑の拝観は3月1日~5月31日、9月1日~10月31日まで。
これを聞いてピンと来る人は古代史通ですね。
kaneurikichiji もつい最近まで知りませんでした。
ここの境内には「宇治橋断碑(うじばしだんぴ)」という石碑があります。
宇治橋断碑自体は昔から知っていて、いつか見たいと思っていたのですが、橋寺というお寺の境内にあるということまではうかつにも知りませんでした。
石碑は、道登というお坊さんが、人々が宇治川を渡るのに苦労していたのを見て、大化2年(646)に橋を架けた次第を記したもの。
宇治橋のたもとに建てられていたのでしょうが、いつしか川の流れにさらわれたのか、水没してしまったようです。
再び発見されたのは、今から300年前の江戸時代(寛政3年<1791>)。
しかし残念ながら、その時には石碑の上の部分しかなかったといいます。
断碑と呼ばれているのは、完全な形で残っていないからそう呼ばれています。
が、幸いにも『帝王編年記』という歴史書に碑文の全体が残されており、それを元に発見の翌々年、失われた部分が復元され、その後橋寺の境内に安置されたというわけです。
重要文化財に指定されていて、覆屋に納められていますが、いつでも見学できるわけではないようです。
そんなことも知らずに拝観できたkaneurikichiji は幸運でした。


現在の宇治橋(左)と宇治橋断碑


覆屋と橋寺の入り口。宇治橋断碑の拝観は3月1日~5月31日、9月1日~10月31日まで。