枯雑草の写真日記2

あの懐かしき日々を想いながら・・つれずれの写真日記です。

河口基督教会を訪ねて・・

2018-10-01 | 教会・天主堂を訪ねて
         久しぶりに古い教会を訪ねることができました。
         大阪市西区川口の日本聖公会河口基督教会。
         聖公会は16世紀、ローマカトリックより独立した英国国教会がその始まりです。
         日本聖公会には全国300の教会が所属しているそうです。
         この川口の地は、明治元年から明治32年まで外国人居留地とされた所。
         米国聖公会の宣教師ウイリアム主教が明治3年この地で宣教を始めたのがこの
         教会の第一歩になったと言われます。明治14年教会を設立。現在の礼拝堂が
         建設されたのは大正9年(1920)のこと。
          
         1995年の阪神・淡路大震災では大きな被害を受け、一時は取り壊しの危機に
         直面しますが3年をかけ全国の人々の支援により見事に復元されます。
         尖塔部分の煉瓦にその痕跡を見ることができます。
          
         鉄骨煉瓦造、堂内部にもその煉瓦を露わにし、独特の雰囲気を醸しだします。
         壮大な天井、照明、寄付金を貯めて1枚ずつ買い足したという花のステンドグラス。
         それは旧約聖書に出てくる花々だとか・・
         案内の方はイギリス積みの煉瓦と花の図柄を一際誇ります。
         「震災当時の信者は1500人、今はその半分・・」とも。
         心あたたまる、見事な教会との出会いでした。






































































ステンドグラスの輝きの余韻・・  聖ザビエル天主堂(明治村)

2018-06-04 | 教会・天主堂を訪ねて
     この純白の建物は、16世紀中来日し、九州、山口、京都などでキリスト教の伝道
         に努めた聖ザビエルを記念して、明治23年、京都河原町に建てられた教会堂です。
         フランス人神父の監督のもと、本国からの設計原案に基づき、日本人の手で建造。
         基本構造はレンガ造と木造の併用で、外周の壁をレンガ造、丸い高窓の並ぶ
          クリアストーリーの壁を木骨竹による大壁構造とし、内部の柱や小屋組を木造で
          組上げ、内外の壁に漆喰を塗って仕上げられていました。
         正面入口の上に直径3.6mを超える薔薇窓が付けられています。
         切妻の頂点に十字架、壁の出隅の上にピナクル(小尖塔)が立ちます。
         明治村への移築に際し、意あって、躯体を鉄筋コンクリートに、窓のモールディング部
         もプレキャストコンクリートに置き換えられています。
         内部は身廊、側廊からなる三廊式、立体構成が大アーケード、トリフォリウム(装飾帯)、
         クリアストーリーの三層からなる典型的なゴシック様式。身廊上部は壮大な交差
         リブヴォールトが架けられています。

         この教会堂は、明治村の中でも最も恵まれた立地にあるように思えます。
         高台の木の間越しに見える純白の姿は、その存在を強く主張しているのです。
         堂内は薄暗く、ステンドグラスを通した外光の輝きが、一入心に沁みます。
         人々を、その心を開く空間へと誘っているかのようです。
         聞くところによると、ここで結婚式を挙げる人もいるとか・・移築保存建物という
          だけではない、生き続づける教会堂の姿を見るようで、心嬉しくなります。
         (昭和48年明治村に移築。)































































「西海の教会堂を訪ねて」の再録について

2018-06-01 | 教会・天主堂を訪ねて
「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連施設」としての世界遺産への登録活動と決定を通じてこの地方の教会堂、天主堂への関心は大きな高まりを見せています。
私がこの地方の天主堂(キリスト教会)を訪れ始めてからもう10年以上が経ちました。
新しいブログの開設を機会に、他のブログに収録してきたものを含め若干の手を加えて再録しておきたいと思います。
記述の順序はほぼ私が訪れた年代に従います。

過去の日付を用いて投稿しますので、ブログの第1ページには現れないと思います。カテゴリー「教会・天主堂を訪ねて」をご覧いただければ幸いです。

ここで「天主堂」の表記について一言。
「天主堂」という表記は古いカトリック教会で用いられた言葉で、現在では一般的に「教会堂」と呼ぶべきものと思えます。しかし、国宝や重文に指定された教会堂はその歴史性を重視して「天主堂」の表記がなされています。この辺を考慮して表記を改めました。
なお、コメントの内容における表記については原文をそのままとし、その殆どで「天主堂」を用いています。ご了承ください。

西海の教会堂を訪ねて その21 大明寺聖パウロ教会堂(現:明治村)

2018-05-31 | 教会・天主堂を訪ねて
2010年、五島列島の教会を訪ねた旅で出会った、五輪天主堂の衝撃は、今だ心の中で反芻されるほどのものでした。その折に書いたことですが・・
明治6年、キリスト教の禁令が解かれた日本。長崎・五島地区で日本人の手で建てられた最初期の天主堂として、明治14年の旧五輪天主堂、明治15年の立谷天主堂、江袋天主堂、そして明治12年の旧大明寺天主堂がありました。立谷、江袋は倒壊、焼失により既に無く、平成6年に明治村に移築された旧大明寺天主堂に会うこと・・これは、その頃からの夢でありました。

この建物は、明治12年に長崎湾の伊王島に建てられた教会堂です。フランス人宣教師プレル神父の指導のもと、伊王島の大工、大渡伊勢吉によって建てられたものと言われています。
昭和の終わり頃、既に老朽化が進行していた教会堂を明治村に移築することが決定。昭和20年代の増築である正面の鐘楼と土間も含めた修復、移築とされます。それは、見事な修復、移築であったと思わせられます。
外観は、木造単層切妻屋根、桟瓦葺き、普通の民家と変わりません。これは、長崎・五島地区の最初期の天主堂に共通に見られるもので、禁令が解かれて日が浅い時期の人の感情を反映したものと言われます。
内部に入れば、その印象は一転させられます。三廊式で正面に平面多角形の主祭壇。主廊部の天井は尖頭形8分割リブ・ヴォールト。側廊部は曲面とした棹縁天井。左側廊奥に、珍しい室内のルルドの祭壇を有します。
内部列柱間に二連アーチを用いることで、主廊の拡がりを確保するとともに、リブ・ヴォールトが空間に浮かんだような効果を生んでいるように思えます。

この教会堂は幸せです。明治村の最奥、入鹿池を望む高台に安住の地を与えられたように思われます。きっと、池の青い水は、あの長崎の伊王島の周囲の海を想い起こさせたことでしょう。(2012年4月)
「西海の教会堂を訪ねて(再録)」の最終回です。






























































西海の教会堂を訪ねて その20 旧五輪天守堂(下五島、久賀島)

2018-05-28 | 教会・天主堂を訪ねて
旧五輪天主堂は、明治14年、この久賀島(ひさかじま)の玄関港、田ノ浦に近い浜脇の天主堂として建設されたもので、昭和6年、浜脇天主堂改築の際、五輪の天主堂として移築。昭和60年、新しい五輪教会の建設により再度取り壊しの危機に瀕しますが、住民の要望で残置。平成11年、国の重要文化財指定により、長く保存されることになったもの。
長崎・五島地区の明治初期の木造天主堂として、この御堂と比肩しうるのは、明治12年建設の旧大明寺天主堂(長崎、伊王島)、明治15年頃の立谷天主堂(福江島)、明治15年の江袋天主堂(中通島)がありますが、旧大明寺は、昭和50年、愛知県、明治村に復元移築、立谷は平成3年倒壊、江袋は平成19年火災炎上。旧五輪は、同地区で唯一残る、古木造天主堂建築となったのです。

久賀島は、下五島の中で福江島の北側に位置し、福江から久賀島の東海岸の孤村、五輪へ行くには、ほぼ三つの方法があります。
第一は、海上タクシーで直接五輪の浜へ。第二は、福江から久賀島、田ノ浦まで定期船、そこから山越えを含む7、8kの歩行。第三は、田ノ浦まで定期船、そこから島の北側を回り込み五輪の近くまで(約14k)タクシー利用。団体であれば、文句なく第一の方法。ただし個人では高価。私は、第三の方法によりました。
タクシーの運転手はとても親切。「もう一人の運転手はクリスチャン、私は仏教徒で・・」と頻りに恐縮しながら、素朴な口調で案内をしてくれます。
現在の島民は500人足らず。(昭和30年頃は4000人近い人口だった。)その内150人位がクリスチャンだとか・・。島の中央、久賀町の中学校の生徒数は今10人位だとか・・。
島の北側、蕨の集落からは、1車線ぎりぎりの細い道。雉が車前を堂々と横切ります。五輪手前の集落、福見は4世帯、五輪は3世帯。ここも極端な過疎です。嘗ては、五輪教区の信徒は50余世帯であったといいますけれど・・。

小型車ぎりぎりの1車線ながらも、舗装された道は土道と変わり、道傍のアザミや草々を掻き分けて進むタクシーは、森の中の小さな空き地に止まります。ここから、南国の樹木が鬱蒼と囲む道を、2、300m行くと、ぽっかり開けた海の畔に。海岸に点在する数戸の家並の中に・・、
何度も写真で見て見馴れたというだけではない、何とも懐かしい気持ちを抱かせる旧五輪(ごりん)天主堂の建物が見えてくるのです。

その建物の前に立ちます。窓を見なければ、普通の民家にしか見えないでしょう。本体会堂部より一段低い切妻屋根の玄関部が出ています。この部分、移築時改変がされた可能性も指摘される所ですが、現状は巾は本体部のほぼ全面、アーチ型の垂れ壁の上に「天主堂」の文字が。玄関部奥、会堂部の扉上部の特徴ある美しい装飾。側面の上部尖頭アーチ窓のデザインとバランスを保っているように思えます。扉を開けて会堂の中に入れば・・、そこは別世界。

なお、この天主堂の設計・施工者は、久賀島田ノ浦の大工、平山亀吉と言われます。外国人神父が指導した形跡はない・・と。見よう見まねで造った天主堂、おそらくそうなのでしょうが、それにしても、なんといい腕と感性を持った大工でしょうか。ひょっとしたら、16世紀に最初に見た天主堂の印象が、遺伝子の中に組み込まれていたのではないか・・とまで思わせられます。
































天主堂の中、そこは驚きの・・別世界でした。
平面は三廊式。各廊の正面に多角形平面の主祭壇、脇祭壇があります。主廊部の巾は脇廊部のそれの1.5倍、狭い部類に入ります。天井は主廊部、側廊部とも板張りの8分割リブ・ヴォールト天井。不思議なほどの板の輝きです。側窓とその上の天井の形態のバランスも見事です。
主祭壇には、イエスを抱くヨゼフ像、脇祭壇にはマリア像。ヨゼフの手の生々しさには、思わずドキリとさせられます。色の少ない堂内、懺悔室の赤いカーテンをそのまま残した・・心憎い演出とも。
堂の外に出れば、遠くの方、漁網でも繕っているのでしょうか、男の姿。ここは3世帯、10人ほどと聞きました。聞こえてくるのは波の音だけです。
この五輪という土地の名前、その文字から思い浮かぶことはないでしょうか。そう、嘗て、歌手五輪真弓の父は、ここに住んだことがあったそうです。「毎日、ヴァイオリンば弾いとった・・」そうな・・
五輪真弓は、昭和61年この集落を訪ね、裏山の墓地に行った時、強い霊感 を得て「時の流れに~、鳥になれ~」を作曲したといいます。

     ・・・鳥になれ おおらかな
        つばさをひろげて
        雲になれ、旅人のように
        自由になれ   ・・・


あの小さな空き地で待っていたタクシーの運転手さんに連れられて・・明治が始まる直前の慶応4年、6坪の小屋に8ケ月の間、200人が押し込められたという松ケ浦の牢跡(今は、牢屋の記念聖堂と、その時亡くなった39人の記念碑があります。)にも参りました。
あの五輪の浜にある天主堂が、いつまでも、いつまでも、そのままでありますように・・と願いながら、久賀島を後にしたのでした。(2010年5月)