枯雑草の写真日記2

あの懐かしき日々を想いながら・・つれずれの写真日記です。

大陸の壮大な文化の勢い・・東大寺南大門

2014-04-25 | 古い神社や寺で
          東大寺大仏殿の南正面に建つ南大門。
          今見る門は、平安時代の応和2年(962)に暴風により倒壊した後、鎌倉時代の
          正和元年(1199)に再建されたもの。
          入母屋造、五間三戸、門形式からは二重門ですが、下層には天井が無く腰屋根構造。
          基盤を含めた高さ25.46m、わが国最大の山門なのです。
          屋根裏まで達する巨大な円柱は18本、長さ21m。
          東大寺の僧、俊乗房重源(ちょうげん)が中国宋より伝えた建築様式、大仏様(だいぶつよう)
          を採用した建物として知られます。因みに、純粋な大仏様の建物は、この南大門と
          兵庫県の浄土寺浄土堂(以前にこのブログでも紹介した)の二つしか存在しないのです。

          貫と呼ばれる柱を貫通する水平材を多用して、堅固な構造を実現しています。
          軒を支える組物は、挿肘木を六段に組んだ六手先(むてさき)で、それを水平材の通肘木
          で繋いでいるのです。垂木は端の数本を扇状に配した隅扇垂木(すみおうぎだるき)。
          正に驚くべき構法です。

          門の前に立って見上げれば、その荒けずりな豪快さが、無限のような感動を呼びおこします。
          大仏様が日本建築に齎した影響は多大と言われますが、当時の日本人の心には
          そぐわなかったのか、重源の没後、純粋な大仏様の建築が建てられることは無かったようです。
          歴史に「もしも・・」が許されるならば、日本文化そのものもまた、少々異なった様相を呈した
          のではないか・・などと思わせられるのです。
          私は、これまで多くの山門を見てきましたが、この南大門ほど強烈な印象を残した門は
          ありませんでした。

















































































天平の空を思う・・ 奈良 唐招提寺

2014-04-19 | 古い神社や寺で
          平城京の西、西大寺の南2kほどに唐招提寺はあります。
          寺号は「唐僧鑑真のための寺」という意味を持つのだそうです。
          伝戒の師として日本に招かれ鑑真は、天平勝宝5年(753)六度目の渡航計画
          で来日を果たします。それは度重なる苦難の末、当時66歳、失明の身となって
          いたと言われます。これらのこと、井上靖の小説「天平の甍」によって広く知られる
          ようになったこと。

          南大門を入ると正面に金堂、その背後の講堂(いずれも国宝)があります。
          その東側に鼓楼(国宝)、礼堂(重文)、宝蔵(国宝)、経蔵(国宝)など多くの伽藍が並びます。
          金堂は鑑真の没後、日の浅い8世紀末の建立と推定されています。
          桁行7間、梁間4間、寄棟造、本瓦葺き。2000年から9年を要した解体修理を終え、
          大棟の左右に鴟尾を飾る、厚みを持った見事な屋根が鮮やかに青空に映えていました。
          堂内には、廬舎那仏、薬師如来、千手観音を中心に梵天・帝釈天、四天王が並びます。
          特に、実際に千本に近い手を持たれる千手観音の異様とも言える姿と、不思議な遠い
          表情に魅せられます。
          講堂は760年頃、平城京の宮廷建築を移築して一部改造したもので、寺院建築とは
          一味違った趣も魅力に感じられます。
          鼓楼や礼堂は鎌倉時代の建立または改築ですが、鎌倉建築の簡潔さと力強さを備えた
          見事なもの。
          広い境内に、これらの伽藍が夫々の主張を持って並ぶ様は、その昔の宗教的緊張を
          連想させるように思えます。          
          諸堂の上の青い空を仰ぎ見、昔の・・天平の空に思いを致す・・そんな唐招提寺でした。




 金堂





























 講堂















































極彩の御堂のなかに  奈良西ノ京 薬師寺

2014-04-13 | 古い神社や寺で
          平城京の西部は古くから西ノ京と呼ばれていましたが、この地には、西大寺、
          喜光寺、唐招提寺など長い歴史を背負った大寺が多くあり、薬師寺もその一つです。
          この寺は、天武天皇の9年(680)建立が発願され、文武天皇の2年(698)頃、
          ほぼ完成をみたと伝えられます。その後、平城京遷都に伴ない、和銅3年(710)
          現在の地に移ります。
          近代、この寺を特に著名なものとしているのは、寺創建の飛鳥時代後期制作の
          銅造薬師三尊像(金堂)、そして銅造聖観音立像(東院堂)でしょうか。
          わが国の仏像彫刻の中でも特に優れたものと言われ、国宝中の国宝と賞されます。
          罰あたりを恐れず敢えて言えば、私はこの聖観音像が特に好きです。東院堂の
          暗さでは細部を詳らかではないのですが、若い日に見た土門拳の「古寺巡礼」で
          見た写真の印象が忘れられないのです。
          奈良時代天平年間から唯一残る東塔(裳階を有する独特の三重塔:国宝)は、
          2009年から9年間の解体修理の最中で覆いの中、見ることはできません。
          1970年代以降、当時の高田好胤管長により、白鳳伽藍復興事業が進められ、
          金堂、西塔、中門、回廊、大講堂などが再建されました。それらは白鳳の当時の
          形と色彩を再現したものと思われ、その極彩の世界は目を見張るものでした。
          ・・と同時に、少なからずの戸惑いを感ずるものでもありました。




 大講堂





 回廊





 東院堂





 中門と金堂





 金堂





 金堂の扉





 薬師如来台座の彫刻





 西塔





























古き禅堂の面影・・善福寺釈迦堂

2014-04-01 | 古い神社や寺で
          鎌倉時代の建保2年(1214)、栄西がこの地に宝遊山広福禅寺を創建。
          その後、真言宗、天台宗と宗派が変わり、今は釈迦堂として一棟のみが残る寺となりました。
          この建物は1327頃の建立と見られ、鎌倉時代後期の禅宗様式の典型的な仏堂と
          言われます。桁行3間、梁間3間、裳階(もこし)付き、寄棟造、本瓦葺。

          この地は、JR紀勢本線加茂郷駅の東方2.5kほど。私は物好きですから、
          海南市街から熊野古道(紀伊路)の藤白(ふじしろ)坂を上り、山上の地蔵峰寺におまいり
          して、山を下って県道を経由する道を選びました。善福寺まで7、8kというところでしょうか。
          静かな山麓の集落の中、白壁に囲まれた寺の屋根が見えてきます。
          短い石段を上ると、狭い敷地に眼前一杯のお堂。
          正面から見上げた時、私の頭のなかにある代表的な禅宗様のお堂(例えば、
          正福寺地蔵堂(東京東村山)、功山寺仏殿(山口長府)など)と、随分異なる印象を受けるのです。
          それは、これらのお堂が檜皮葺、入母屋造であるのに対し、
          目の前のお堂が本瓦葺、寄棟造であることに拠っているようです。
          近ずけば、藁座付の桟唐戸、格子戸、木製の礎盤を介して自然石礎石にのる柱、堅板壁。
          いずれも入念な補修、管理のもと、古さを感じさせない見事なものです。
          ただ・・私はこのお堂から、一面識、人を寄せ付けない厳しさのようなものを感じたこと・・ 
          加茂郷駅に向う道すがら、そのことを思い返していました。