枯雑草の写真日記2

あの懐かしき日々を想いながら・・つれずれの写真日記です。

西海の教会堂を訪ねて その21 大明寺聖パウロ教会堂(現:明治村)

2018-05-31 | 教会・天主堂を訪ねて
2010年、五島列島の教会を訪ねた旅で出会った、五輪天主堂の衝撃は、今だ心の中で反芻されるほどのものでした。その折に書いたことですが・・
明治6年、キリスト教の禁令が解かれた日本。長崎・五島地区で日本人の手で建てられた最初期の天主堂として、明治14年の旧五輪天主堂、明治15年の立谷天主堂、江袋天主堂、そして明治12年の旧大明寺天主堂がありました。立谷、江袋は倒壊、焼失により既に無く、平成6年に明治村に移築された旧大明寺天主堂に会うこと・・これは、その頃からの夢でありました。

この建物は、明治12年に長崎湾の伊王島に建てられた教会堂です。フランス人宣教師プレル神父の指導のもと、伊王島の大工、大渡伊勢吉によって建てられたものと言われています。
昭和の終わり頃、既に老朽化が進行していた教会堂を明治村に移築することが決定。昭和20年代の増築である正面の鐘楼と土間も含めた修復、移築とされます。それは、見事な修復、移築であったと思わせられます。
外観は、木造単層切妻屋根、桟瓦葺き、普通の民家と変わりません。これは、長崎・五島地区の最初期の天主堂に共通に見られるもので、禁令が解かれて日が浅い時期の人の感情を反映したものと言われます。
内部に入れば、その印象は一転させられます。三廊式で正面に平面多角形の主祭壇。主廊部の天井は尖頭形8分割リブ・ヴォールト。側廊部は曲面とした棹縁天井。左側廊奥に、珍しい室内のルルドの祭壇を有します。
内部列柱間に二連アーチを用いることで、主廊の拡がりを確保するとともに、リブ・ヴォールトが空間に浮かんだような効果を生んでいるように思えます。

この教会堂は幸せです。明治村の最奥、入鹿池を望む高台に安住の地を与えられたように思われます。きっと、池の青い水は、あの長崎の伊王島の周囲の海を想い起こさせたことでしょう。(2012年4月)
「西海の教会堂を訪ねて(再録)」の最終回です。






























































西海の教会堂を訪ねて その20 旧五輪天守堂(下五島、久賀島)

2018-05-28 | 教会・天主堂を訪ねて
旧五輪天主堂は、明治14年、この久賀島(ひさかじま)の玄関港、田ノ浦に近い浜脇の天主堂として建設されたもので、昭和6年、浜脇天主堂改築の際、五輪の天主堂として移築。昭和60年、新しい五輪教会の建設により再度取り壊しの危機に瀕しますが、住民の要望で残置。平成11年、国の重要文化財指定により、長く保存されることになったもの。
長崎・五島地区の明治初期の木造天主堂として、この御堂と比肩しうるのは、明治12年建設の旧大明寺天主堂(長崎、伊王島)、明治15年頃の立谷天主堂(福江島)、明治15年の江袋天主堂(中通島)がありますが、旧大明寺は、昭和50年、愛知県、明治村に復元移築、立谷は平成3年倒壊、江袋は平成19年火災炎上。旧五輪は、同地区で唯一残る、古木造天主堂建築となったのです。

久賀島は、下五島の中で福江島の北側に位置し、福江から久賀島の東海岸の孤村、五輪へ行くには、ほぼ三つの方法があります。
第一は、海上タクシーで直接五輪の浜へ。第二は、福江から久賀島、田ノ浦まで定期船、そこから山越えを含む7、8kの歩行。第三は、田ノ浦まで定期船、そこから島の北側を回り込み五輪の近くまで(約14k)タクシー利用。団体であれば、文句なく第一の方法。ただし個人では高価。私は、第三の方法によりました。
タクシーの運転手はとても親切。「もう一人の運転手はクリスチャン、私は仏教徒で・・」と頻りに恐縮しながら、素朴な口調で案内をしてくれます。
現在の島民は500人足らず。(昭和30年頃は4000人近い人口だった。)その内150人位がクリスチャンだとか・・。島の中央、久賀町の中学校の生徒数は今10人位だとか・・。
島の北側、蕨の集落からは、1車線ぎりぎりの細い道。雉が車前を堂々と横切ります。五輪手前の集落、福見は4世帯、五輪は3世帯。ここも極端な過疎です。嘗ては、五輪教区の信徒は50余世帯であったといいますけれど・・。

小型車ぎりぎりの1車線ながらも、舗装された道は土道と変わり、道傍のアザミや草々を掻き分けて進むタクシーは、森の中の小さな空き地に止まります。ここから、南国の樹木が鬱蒼と囲む道を、2、300m行くと、ぽっかり開けた海の畔に。海岸に点在する数戸の家並の中に・・、
何度も写真で見て見馴れたというだけではない、何とも懐かしい気持ちを抱かせる旧五輪(ごりん)天主堂の建物が見えてくるのです。

その建物の前に立ちます。窓を見なければ、普通の民家にしか見えないでしょう。本体会堂部より一段低い切妻屋根の玄関部が出ています。この部分、移築時改変がされた可能性も指摘される所ですが、現状は巾は本体部のほぼ全面、アーチ型の垂れ壁の上に「天主堂」の文字が。玄関部奥、会堂部の扉上部の特徴ある美しい装飾。側面の上部尖頭アーチ窓のデザインとバランスを保っているように思えます。扉を開けて会堂の中に入れば・・、そこは別世界。

なお、この天主堂の設計・施工者は、久賀島田ノ浦の大工、平山亀吉と言われます。外国人神父が指導した形跡はない・・と。見よう見まねで造った天主堂、おそらくそうなのでしょうが、それにしても、なんといい腕と感性を持った大工でしょうか。ひょっとしたら、16世紀に最初に見た天主堂の印象が、遺伝子の中に組み込まれていたのではないか・・とまで思わせられます。
































天主堂の中、そこは驚きの・・別世界でした。
平面は三廊式。各廊の正面に多角形平面の主祭壇、脇祭壇があります。主廊部の巾は脇廊部のそれの1.5倍、狭い部類に入ります。天井は主廊部、側廊部とも板張りの8分割リブ・ヴォールト天井。不思議なほどの板の輝きです。側窓とその上の天井の形態のバランスも見事です。
主祭壇には、イエスを抱くヨゼフ像、脇祭壇にはマリア像。ヨゼフの手の生々しさには、思わずドキリとさせられます。色の少ない堂内、懺悔室の赤いカーテンをそのまま残した・・心憎い演出とも。
堂の外に出れば、遠くの方、漁網でも繕っているのでしょうか、男の姿。ここは3世帯、10人ほどと聞きました。聞こえてくるのは波の音だけです。
この五輪という土地の名前、その文字から思い浮かぶことはないでしょうか。そう、嘗て、歌手五輪真弓の父は、ここに住んだことがあったそうです。「毎日、ヴァイオリンば弾いとった・・」そうな・・
五輪真弓は、昭和61年この集落を訪ね、裏山の墓地に行った時、強い霊感 を得て「時の流れに~、鳥になれ~」を作曲したといいます。

     ・・・鳥になれ おおらかな
        つばさをひろげて
        雲になれ、旅人のように
        自由になれ   ・・・


あの小さな空き地で待っていたタクシーの運転手さんに連れられて・・明治が始まる直前の慶応4年、6坪の小屋に8ケ月の間、200人が押し込められたという松ケ浦の牢跡(今は、牢屋の記念聖堂と、その時亡くなった39人の記念碑があります。)にも参りました。
あの五輪の浜にある天主堂が、いつまでも、いつまでも、そのままでありますように・・と願いながら、久賀島を後にしたのでした。(2010年5月)






























































西海の教会堂を訪ねて その19 貝津教会堂、井持浦教会堂、西端の地へ(下五島、福江島)

2018-05-26 | 教会・天主堂を訪ねて
国道384号が福江島の北岸から西岸に沿って向きを変えるところ、三井楽町貝津に貝津教会堂があります。この地には大正12年創建された天主堂がありましたが、現在の建物は昭和37年に増改築されたもの。美しいステンドグラスを持つ素朴な感じの御堂です。
教会堂の前で一人の旅人にお会いしました。これから大瀬崎まで歩くとか。






















貝瀬を過ぎ島の西岸に出ると、そこは高浜ビーチ。見渡せば濃淡二色に塗り分けられた海の色、白砂、波・・その永遠の様に魅せられます。







道は国道から県道に変わり、福江島最西端の地、玉の浦へ。そこには井持浦教会堂があります。明治28年に建立された御堂で、島内の木造御堂から煉瓦造御堂への転換のハシリになったとも。大正13年の増築により当初の雰囲気が変わってしまったともいわれます。境内に明治32年に建設された日本最古のルルドがあります。本場ルルドの奇跡の泉から霊水を取り寄せたといいます。







島の西端、それは五島列島の西端でもありますが、はすぐ傍、大瀬崎。この辺りの人の手が殆ど入っていないような自然の姿に浸ります。



大瀬崎灯台



















玉の浦への道の途中、立谷(たちや)に寄りました。ここは明治の黎明期、天主堂の一つ立谷天主堂があったところ。天主堂は平成3年台風により倒壊しました。残された写真を見ると和風の民家の内部にリブ・ヴォールトの天井を設えた驚異の御堂。(旧五輪天主堂をさらに素朴にしたような・・)何処か、何故か限りない懐かしさを感じるのです。
緩やかな星山を背にした天主堂跡には、聖母像と石碑が置かれていました。近くには信徒の墓地もありました。人に出会うこともない立谷への道を戻ります。(2010年5月)



立谷付近の海岸




立谷の道




聖母像














西海の教会堂を訪ねて その18 水ノ浦教会堂(下五島、福江島)

2018-05-24 | 教会・天主堂を訪ねて
水の浦天主堂は、楠原に近くやはり福江島の北部ですが、複雑な地形の入江に面した小高い丘の上に位置します。島の唯一の国道、384号を行くと純白の天主堂が目に入ってきます。心ときめく出会いです。

堂崎(奥浦)や楠原と同様、水の浦の信徒も大村からの移住者の子孫であり、明治の禁教令撤廃に至る経緯も同様の道を辿ります。ただ、水の浦のことを語る多くの人は、信徒のために尽した二人の人の名を欠かさないようです。今も、天主堂を見おろす墓地の一番高い所で眠っているのですから・・

長崎に大浦天主堂(フランス寺)が出来た翌年(慶応3年、1867)水の浦の帳方(隠れキリシタンにおいて教会暦を操る組織の最高責任者)水浦久三郎は秘かに大浦に辿り着き神父に祝福を受けて帰還します。
神父からもらった聖具を皆に配布し、信徒であることを表明するに及び、明治2年、久三郎を含む数十人が捕えられ、拷問により棄教を迫られる・・それは、明治4年まで続いたといいます。
明治6年2月、禁教令は撤廃されますが、その一月後、久三郎は70年の生涯を閉じます。令撤廃のことを知っていたのかどうか・・。久三郎の遺志は娘に引き継がれ、明治17年、33歳の水浦カネは自らの生家をおんな部屋(修道院)とするのです。その修道院は今も天主堂の近くで引き継がれています。


この地区には、早くも明治13年天主堂が建てられていたといいますが、老朽化と狭隘のため昭和13年、今の御堂が再建されました。鉄川与助の設計・施工、26棟目の御堂。現存する最大規模の木造天主堂。鉄川のリブ・ヴォールト天井を持つ天主堂の最後のもので、随所に自らが蓄積してきた様々な技術と心を注ぎ込んだであろう、その跡をしっかりと感じます。
平面は三廊式ですが、側廊部に比して主廊部を広くとっているため、極めてダイナミックな空間が造られています。リブ・ヴォールト天井も高く、その美しさは比類のないものです。正面を見ると、特異な曲線が上部を飾る入口、三つの縦長の尖頭窓、広い平面に縦桟木をあしらい軒下の装飾帯に繋げる・・側面も同様、その巧みなデザインに唖然とします。
天主堂の南、山の斜面に沿って広がる信者墓地、その途中には、袴姿で天上を仰ぐヨハネ五島の像もあります。その墓地の道を上りながら、振り返れば、民家と肩を接して建つ御堂、その背後には紺碧の海が・・
純白の姿に、木造特有の柔らかな優しさを秘めた天主堂、きっと鉄川が残した最上の贈り物の一つに違いない・・という思いがしたものでした。(2010年5月)










































































きんさいYOSAKOI 2018

2018-05-23 | ヒロシマ
          広島フラワーフェスティバルの1イベントよさこい祭り。
          今年もまた、その会場に出かけてしまいました。
          阿波踊りは「・・踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らな損々・・」
          と唄われますが、このよさこいもそうかも・・
          踊り手の笑顔が溢れます。
          職場の連、県内の連、近県・四国の連・・
          お馴染みの松山風舞人、魅惑する見事な丸亀月下桜舞連・・
          殿はあの須賀IZANAI連・・
          熱狂と叫びの世界です。