枯雑草の写真日記2

あの懐かしき日々を想いながら・・つれずれの写真日記です。

尾道の寺再訪・・天寧寺三重塔

2014-08-30 | 古い神社や寺で
          尾道の古寺めぐりは、尾道駅の近くから始まり、東へ26の寺社を巡りますが、
          そのほぼ中央にあるのが天寧寺。26の寺社のうち、塔婆を有するのは、この寺
          のほか、三重塔が西国寺に、多宝塔が浄土寺にあります。
          いずれも以前に紹介させていただきました。そのときにも書いたように記憶していますが、
          何度訪れても、その度に新たな発見があり、感動があるものだと・・
          私にはそう感じられます。

          天寧寺は1367年開山の曹洞宗の大寺で、五重塔が建立されたのが、1388年。
          その後1692年、傷みが激しく大破した塔の上二層を撤去し、今に見る三重塔と
          して改修されたものといいます。その大胆な決断には、驚きを禁じえないですね。
          そう言えば、三重塔にしては、厳つく重い感じ。様式は和様を基調に、扇垂木
          など禅宗様を濃厚に採り入れたものと言われます。
          千光寺から下る坂道の途中、上から見下ろす塔の屋根、五重塔の初層と二層
          であっただけにその広大さに圧倒されます。また、下って見上げる軒下の木組みに
          宿る木の命に感動を覚えます。
          この度は、どういう訳か塔の初層の扉が開かれており、内部の弥勒菩薩を拝する
          ことができました。天井に残る色彩の断片から往時の栄華が偲ばれるようでした。











































































尾道の坂を歩いて寺へ・・西郷寺

2014-08-19 | 古い神社や寺で
          尾道の寺めぐりのコースは、有名な大寺7つを巡る「七佛めぐり」と、約26ヶ所の寺社
          を訪ねる「古寺めぐり」とがあります。全長2kmほどの道程ですが市内を横断する
          石畳の坂道。生活には不便を伴う狭い道ですが、訪問者にとってはその道自体が
          魅力の源泉ともなっています。
          私にとっては、何度目かの尾道の寺めぐりですが、その中からいくつかの寺を
          紹介しましょう。
          最初は、魅力の坂道と「七佛めぐり」には入らない地味な寺、西郷寺としましょうか。

          西郷寺は鎌倉時代末期の正慶年間、遊行僧一鎮によって開かれたと伝える時宗寺院。
          尾道には時宗の寺が多く、6ヶ寺を数えます。
          本堂は文和2年(1353)の発願と伝え、時宗最古式の建物として貴重なもの。
          桁行7間、梁間8間、寄棟造、本瓦葺き。柱上に舟肘木置くだけの構造。
          蔀戸と格子戸のみが覆う前面の顔とともに、簡素で緊張した印象を受ける
          素晴らしいお堂です。(国重文)
          境内には、六地蔵や多くの石仏が置かれ、簡潔で豊かな空間が醸し出されています。











































































ヒロシマの原爆被災説明板を訪ねる  その3

2014-08-10 | ヒロシマ
     15.広島瓦斯株式会社跡(爆心地より250m)






     16.日本銀行広島支店(爆心地より350m)
          「1945(昭和20)年8月6日午前8時15分、原爆の強烈な爆風により、外形は
          残ったものの内部は破壊され、42人の犠牲者が出た。 市内の金融機関はほとんど壊滅
          したため、日銀の内部を仕切り各銀行が窓口を設け、8月8日から業務を開始した。」














     17.袋町国民学校(現袋町小学校)(爆心地より500m)











  袋町小学校の一画に残る原爆資料館については以前に紹介しました。
          「被爆校舎の壁の中に」



     18.中国配電株式会社(爆心地より680m)
          「1945(昭和20)年8月6日午前8時15分、原爆の爆発と同時にこの鉄筋コンクリート
          5階建の建物は外形だけを残して破壊炎上し、内部は焼失した。
          強烈な爆風により、槍のようにとがった鉄の窓枠で頭を突き刺れたり背中をつらぬかれて
          吹っ飛ばされたりして約150人の犠牲者が出た。
          写真説明:爆風で布きれのようにちぎれた北側の雨どい 米国返還写真/
          被爆後の中国配電本社ビル 米国返還写真」








     19.広島赤十字病院(爆心地より1.6k)







          爆風で曲がった窓枠(建物一部の保存)








          この赤十字病院の白い建物には、私は特別の思いがあります。私の通った小学校
          はこの病院の近くで、歩いて通学する道で毎朝見ていましたし、「身体検査」の時
          は、曲がった窓枠のある階段を通って長い廊下を歩いたものでした。
          すべてのものがとても怖かった想いがあります。




     21.広島電鉄株式会社(爆心地より1.9k)






     22,御幸橋(爆心地より2.3k)
          「1945年(昭和20年)8月6日、午前8時15分広島市の中心部上空約580メートルで
          さく裂した原子爆弾がもたらした膨大な被害によって、広島市の大半は瞬時に壊滅し、
          多くの被爆者が救護を求めて南へ、北へと逃れていきました。
          この写真は、被爆後3時間を過ぎたこの地点を撮影したものです。爆心地から
          南南東約2300メートル離れていた、ここ御幸橋西詰めの警察官派出所前には
          建物疎開作業中に被爆した中学生をはじめ、多くの被爆者が群がり、わずか
          ばかりの応急手当を受けていました。」











          この御幸橋(みゆきばし)西詰めで撮られた写真は、これまで幾度となく見てきました。
          爆心地方面より上る黒い雲、蹲ったり、彷徨したりする人々の姿。
          限りなく恐ろしい記憶のよみがえりです。











ヒロシマの原爆被災説明板を訪ねる  その2

2014-08-08 | ヒロシマ
    8.本川国民学校(現本川小学校)(爆心地より350m)
          「爆心直下に近く、その被害は言語に絶するものでした。校舎は、鉄筋コンクリート造で、
          焼夷弾や通常爆弾には比較的安全な建物と思われていましたが、原爆のすさまじい
          爆風圧のため、壁はへこみ、窓枠その他の付属物は飛び散り、外部だけを残して
          完全に焼失しました。焼け果てた校舎は、被爆者の救護所にあてられ、校庭には
          死体の山が築かれました。」













          被爆当時の校舎の一部は、今も「本川小学校平和資料館」として保存されています。
          窓枠をふき飛ばされた外壁など、当時の状況の一端がうかがえます。























     (付)本川沿いの慰霊碑(爆心地より500m)
          この地は本川地区一帯の被爆死亡者数千を本川小学校で荼毘に付し、遺骨を
          埋めた場所です。(後に平和公園内の供養塔に移される。)
          市内の川沿いにはこういった慰霊碑が数多くあります。







     9.広島第二陸軍病院跡(爆心地より1k)
          「広島第二陸軍病院は、軍施設が立ち並ぶ基町地区の北西端に建っていました。
          被爆当日、病院内には、職員330人、入院患者750人がいたとされていますが、
          一発の原子爆弾により倒壊炎上し、多くの死傷者を出しました。美しい桜並木が
          入院患者をなごませた太田川の堤防には、わずかに残った職員が、ムシロやトタン
          を使って天幕を張り、臨時救護所を設置し、多くの負傷者の治療にあたりました。」









     (付)陸軍病院慰霊碑






     10.中国軍管区司令部の地下通信室(爆心地より700m)





          当時、ここで学徒動員中、辛うじて生き残った女学生の一人は、今は「被爆のかたりべ」
          としてボランティアをされているとか・・

               今も残る地下通信室の入口







     11.広島逓信病院(爆心地より1.3k)
          「鉄筋コンクリート2階建てのこの病院は、原子爆弾による爆風で、すべての窓ガラスが
          吹き飛び、近隣の弾薬庫からの類焼などにより、2階内部はほとんど全焼しました。空襲に
          備えて、被爆1カ月前に、入院患者すべてを退院させていたため、人的被害は比較的軽微でした。
          火勢が弱まった当日の夕方から、数多くの負傷者が押し寄せ、職員は医薬品や衛生材料、
          食糧の確保を行う一方、懸命な救護にあたりました。この病院は、市内に残った数少ない
          医療機関として、医療面、調査面で重要な役割を果たしました。」












     12.稲荷町電車専用橋(爆心地より1.35k)
          「京橋川に架かるこの鉄橋は、人類史上初めての原子爆弾により、爆風でレールが
          上下左右に波打ち、熱線で枕木が焼けこげました。市内電車の専用橋でしたが、下流の
          柳橋が焼け落ちたこともあり、市内中心部から郊外へ避難するため、多数の被爆者が
          この橋を渡りました。橋の下では、無数の死体が浮かぶ川に、水を求める人が殺到しました。」









      13.饒津神社(爆心地より1.8k)
          「原爆の炸裂による強烈な爆風のため、本殿や唐門などの建物が一瞬にして破壊されました。
          その直後本殿から出火し、他の建物も次々と延焼していきました。爆風により、境内の
          樹木はふき倒され、参道の石灯籠も倒されました。
          境内には、燃え盛る市内から大勢の人々が避難してきて、臨時の救護所が設けられました。」








     14.広島駅(爆心地より1.9k)




















ヒロシマの原爆被災説明板を訪ねる  その1

2014-08-06 | ヒロシマ
          ヒロシマでは69回目のその日が巡ってきました。
          街の表通りでは、様々な団体の平和行進が通り、「核兵器反対」「核反対」の声
          が響いているように思えます。
          今の広島の街並や建物や橋や・・それらの前にその被爆当時の姿を伝える写真板
          が設置されています。「原爆被災説明板」と呼ばれ、現在45基があるそうです。
          「見せたくない・・」「見られたくない・・」という気持ちも若干は働いたのでしょうか・・
          比較的目立たない場所に置かれたものも多く、近くの人に聞いても
          「そがいなもの あったかのー・・」という返事がよく返ってきます。
          でも、被爆の実態を示す証言の一つには違いないでしょう。
          この街をこのように破壊してしまったのか・・その元凶は何だろうか・・
          それらに至る根元は、現在もまた蠢いているかもしれないではないか・・
          それらを見極めるために、決して忘れてはならないものの一つだという気がします。

          私は爆心地近くから北へ南へ逃れていった被災者の道を辿って、その殆どを見て
          まわりました。そのうち半数くらいをここに紹介したいと思います。3回に分けて。
          (私の写真からは読み取ることが難しい説明板に付されたエピソードの一部は
          「青字」で示しています。)
          なお、コメント欄は閉じさせていただきます。




        1.爆心地



        2.猿樂町通り周辺



          被爆2ヶ月後に撮られた衝撃を受ける写真です。
          原爆ドーム周辺の植込みのなかに隠れるように立つ説明板。気付く人も少ない
          ようです。板に付けられたエピソードには次のようにあります。
          「この地域一帯は、藩政時代からの城下町として、能楽(猿楽)師、細工師、医師を
          はじめ大小の商家が軒を並べてにぎわっていました。 1945( 昭和20) 年8 月6 日
          午前8 時15分、人類史上初めての原子爆弾が細工町の島病院の上空約580メートル
          でさく裂し、爆心直下のこの一帯は、人も街並みも全滅しました。焼け跡には、
          広島県産業奨励館(現在の原爆ドーム)だけが象徴的な姿をさらしていました。
 



        3.原爆ドーム(元広島県産業奨励館)
          この建物はチェコの建築家ヤン・レツルにより設計、大正4年に完工したもの。
          近づいて見れば、この建物が生きていた頃の「念」のようなものが残っているということを
          感じます。


























          原爆ドーム前で、来訪者にヒロシマの思いを語る女子高生




        4.中島地区(爆心地から100~700m)
           「中島地区(現在の平和記念公園一帯)は、幕末から明治・大正・昭和にかけて
          市内有数の繁華街としてにぎわっていました。1945(昭和20)年8月6日、爆心地
          から至近距離にあったこの地区は、全滅状態となりました。この日は、多数の
          学徒と地域や職場から動員された人々が現在の平和大通り周辺で、建物の疎開
          作業のため動員されていました。顔の判別もつかぬほど焼けただれ、水を求めて
          川岸に集まった生徒たちは、全員が死亡しました。」













       5.本通り商店街(爆心地より250m)




        6.帝国銀行広島支店(爆心地より360m)
          「この建物は,1925(大正14)年に三井銀行広島支店として建てられました。
          猛烈な爆風のため,屋根は抜け落ち,爆心地に近い北西側の壁も崩れ落ちました。
          戦後修復され,現在はベーカリーとして利用されています。」





        7.福屋百貨店(爆心地より710m)
          「鉄骨鉄筋コンクリート造地上8階、地下2階建の建物は、原爆の炸裂による強烈な
          爆風と震動を受け、すべての施設、器具類が吹き飛ばされました。また、全館が
          炎の海と化し、建物の中にいた多くの人が亡くなり、建物は骨組みと外郭だけを
          残すだけになりました。」